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俺が思っている事、話している事。
”お母さんみたい”って、笑わないでくれ。
君は解っているのかい？
悩める俺の、男の気持ち。
”男なのに口煩い”など、言ってくれるな。
俺が気にしている事、迷っている事。
”お母さん”とは、呼ばないでくれ。
君は解ってくれないのか？
”聖母のように”なり損ねた、俺の気持ち。
”男らしくない”など、言ってくれるな。
いつだって、俺は――……。
人間というものは、長所もあれば、短所もある。
――誰だって、万能なんかじゃない。
人は生まれながらにして万能じゃないから、自分に欠ける何かを必死になって探すんだ。
――ギイィィィ････バタン。･･･ガチャ、ガチャ。
鍵を掛けたのを確認するために、ドアノブを捻り、扉を押し引きしてみた。鍵の掛かりを確認できた俺は、軽い溜息を落とす。
レギュラージャージから着替え、制服に身を包んだ俺は、部室前を離れ、校門を目指して歩き出した。
春も半ばというのに空は、もう真っ暗だ。
生徒会室へ練習終了を告げに行った俺が、手塚と、思いの外、話し込んでいた事を知る。
「皆、つれないよなぁ〜……」
俺はポツリと言葉を零しながら、愛用のテニスバックを右肩へと担ぐ。
――英二ぐらいには、相談……したかったんだけどな。
俺は胸の内でも、ポツリと言葉を零す。
正直、俺は今、煮詰まっていた。
学業にでは無く、部活の事でも無く、ほんの個人的な事に。
だけどそれは、俺には、意外と大きな問題で……。
――”お母さん”、かぁ……。
俺の中では、その呼び名がしっくりとこない。
寧ろ、そう呼ばれると、自分の中で反発心が芽生える一方だった。
そう呼んで、俺をからかってるのかな？
俺を困らせて、楽しみたいのかな……？
こんな風に考えてるようじゃ、やっぱり、女の腐った奴だと思われるんだろうか？
考え込む度に、溜息が増えていく。
――どう見たって、俺……”お母さん”なんかじゃ、無いだろ。
俺は歩きながら靴先を見た後、両手を目の前に翳してみる。
街灯の灯りを受けて見える自分の手は、ちゃんと男子らしい、大きな手をしている。
俺の身長は、１７５ｃｍ。
中学男子の割りに、結構高いほうだ。
ただ男子としては細身だから、ちょっと華奢には見えるだろう。
それが頼りなく思えるのか、それとも、なよなよとして、見えてしまうのだろうか。
――どうして、俺を”お母さん”なんて、呼ぶんだろう……？
考えれば、考えるほど解らなくなる。
もう、数え切れないぐらいの溜息を吐いてみたけど、全く答えは導かれない。
ただ、を怒って数日が過ぎて、俺には少し判った事がある。
俺に怒られたは、あれから俺に近付かないし、話もしなければ、目も合わせなくなった。
きっと、俺の事……嫌いになったんだろうな。
――『俺は、”お母さん”なんかじゃないぞ！』
そう言っちゃ、駄目だったのか？……でも、俺は嫌だったんだ。
だって、俺は……”男”なんだ。
”女”には、なれないし。ましてや、”お母さん”なんて――。
俺ってさ、そんなに頼りなく見えるのか？
これでも俺は、小学生の頃は”腕白坊主”で、章高おじさんから、太鼓判を貰うほどだったんだぞ！
……って言っても、説得力が無いか。
そんな事をあれやこれと考えているうちに、いつの間にか、俺は自宅の門を押し開け、玄関の戸口に立っていた。ドアノブに手を掛け、扉を引き開ける。
「ただいまー！」
廊下の突き当りにあるキッチンへと届くように、大きな声で帰宅を告げた。
「あら、お帰り。お兄ちゃん、遅かったわね？」
キッチンの扉から何気なく顔を出した母が、にっこりと笑って問う。
「手塚と居たら、長話になったんだ。……お母さん、お父さんは？」
俺は肩に掛けていたテニスバッグを玄関先で下ろし、とりあえず、キッチンへと向かった。
「仕事で遅くなるわ。……どうかしたの、秀一郎？」
キッチンへ入った俺の顔を見るなり、母が言った。
ドキリ、と跳ねた心の音を隠そうとした俺の目の前に、さっと立ちはだかる。さすが、母強し。
「ど、どうって……？」
勘の良い母に勝てるはずも無く、動揺丸判りの裏返った声で、俺は母に訊き返す。
「秀一郎。隠し事なら、ちゃんと隠しなさい。隠せないなら、話す」
母は至って真面目な顔付きで言うと、俺の背を押し、キッチンのテーブル席へ座るように勧めてきた。
――さすが、母親だな……。
俺は半ば感心しつつ、椅子へと腰を掛けた。
母は、そのまま流し台へと向き直り、野菜を水洗いしている。
ジャーと流しっぱなしの流水音を聞きながら、俺は口を開いた。
「あのさ、お母さん。俺……部員から”お母さん”って呼ばれるんだ」
俺がそう話した途端、流し台でゴトンという派手で重い音がした。
先程から野菜を洗ってた母の手から、ジャガイモがどうやら逃げたらしい。慌てて拾う母の肩は、俄かに小刻みに震えていた。
「秀――」
震える肩先から母の眼が俺へと向けられる。小さく呟かれた俺の名前が途中で途切れた。きっと俺を不憫に思っているのだろう。
――気弱な事を言う俺を、情けなく思うよな……。
俺はしゅんとした気持ちで、テーブルの面へと視線を落とした。
「あの、やっぱり――」
俺は話している途中で思い止まり、母へ悩みを打ち明けるのを止めようとして言葉を切り、顔を上げた。
「――プッ！」
ちょっとした破裂音は、深刻な雰囲気を醸し出していた台所で、大きく響く。
「……お母さん？」
俺は訝しげに、目の前に立つ母の背中に声を掛けた。
「ぷっ、あははははは！！！///」
可笑しさを堪えていた母が、豪快なまでに声を上げて笑う。
――な、何で……笑えるんだよ、お母さんは……。
己の息子の一大事だと、一緒に悩んでくれるのかと思っていただけに、大笑いの母の姿を見た俺は、愕然とした。
「お母さん！俺、本気で悩んでるんだけどっ！！」
半ば、気を取り直した俺は、母へ腹立たしげに言葉を言い放つ。
「あはは……ははっ、ごめん、ごめん！」
軽く手首を上下に動かした母が、軽い口調で、サラリと謝った。
野菜を洗い終えたらしく、母は椅子の背に掛かるタオルで手を拭う。それから、テーブル脇に置いてある電気ポットに手を伸ばし、母は慣れた手つきで急須を扱い、緑茶を２つの湯飲みに注ぎ、１つを俺の前に置いてくれた。
「笑い事じゃないよ。俺、男なんだよ？それなのに、さ……」
温かい緑茶の注がれた湯飲みを両手で持ち、口を付ける。
少し熱めの茶の渋さが、俺の口内に広がった。
「良いじゃないの、”お母さん”で……」
ポツリと話した母がテーブルの席に着くと、俺と向かい合い、同じように茶を啜っている。
「どこが？何回も言うけど、俺は――」
コトリ、とテーブル面を鳴らして湯飲みを置いた。
少し不服そうな声で言う俺が母へと喋りかけると、啜っていた茶の入った湯飲みを、母はテーブルの上へと置く。それから、真っ直ぐな眼をして俺を見て、口を開いた。
「秀一郎。あなた、”副部長”だって言ってたわよね？」
真っ直ぐな眼は強く、話す声は真面目な音をしている。
母に見詰められた俺は、少し、気圧された。
「う、うん……。そう、だけど……？」
コクンと頷いて答えた俺は、母を見た。
少し張った空気が、俺と母を包む。離れた所に置かれる炊飯ジャーがシュンシュンと音を立てていた。
「あなたのお仕事を、話してごらんなさい」
尚も、母は視線を逸らさず、真っ直ぐに俺を見て言う。
「手塚の……部長のサポート役。今、任されているのは、部員管理だったり、備品の点検や補充、それから……」
とりあえず、日頃の部活内における自分の任される仕事を、考えながら俺は話した。
「そう、大変ね。……ねぇ、秀一郎は、”お母さん”が嫌い？」
真面目顔で話を聞いていた母が、急に俺へと問う。
――俺が、”お母さん”を……嫌い？
俺は母の問う意味が解らず、直ぐに問い返す。
「えっ？！……ど、どうして？」
驚いた顔をした俺が目をパチパチとさせていると、母の眉間に皺がギュッと集中した。
「”好き”か、”嫌い”か、ハッキリなさい。男の子でしょ！」
そう言った母がテーブルの面を右手でトン！と軽く叩いた。
「お母さんの事は、その……好き、です///」
幼子でなくなった俺には、素直な気持ちで言葉にして返す事が、何だか気恥ずかしい。俺は、しどろもどろになって言葉を継いだ。
「子供にとっては、それが”当たり前”ね」
俺の言葉を聞いていた母が、ニッコリと笑みを見せて話す。
”良く出来ました”と言いたげな母の笑みに、俺はホッとした。
「あなたの役割、この家の中の”お母さん”と同じ仕事」
１度置いていた湯飲みを手にし、母は少し冷め始めた茶を、また啜りながら話す。
俺は、そんな母の動作をずっと見詰めていた。
「俺の役目が、お母さんと同じなの……？」
俺は、小首を傾げる。
自分の母と、副部長の任を務める俺と、どう同じだと言いたい
のだろうか、と。
「ねぇ、秀一郎。今、お母さんに悩みを話したでしょ？」
ふふっ、と軽く笑った母が、チラリと俺を見る。
「……うん」
俺は１つ頷き、母と同じように湯飲みを手にする。
掌を温める茶の入った湯飲みの水面を、俺は見詰めた。
「どうして、お母さんに話してくれたの？」
ニコニコと笑みを作り、母が俺へと問いかける。
母の笑顔が、何故か謎めいて見えるのは気のせいだろうか。
――理由なんて訊かれても、分らないよ……。
でも、話し相手が、”お母さん”だったから……。
手にしてる湯飲みをテーブルの上へと戻し、俺は顔を上げる。
「えっと……。”お母さんだから”、だと思う……」
俺は、自分の答えに自信なんてなかった。
ただ何となく、そう思った。それだけだった。
「秀一郎は、”お母さんが大好き”だものね？」
可笑しそうに笑った母が言う。少し茶目っ気めいた瞳で、俺の顔を覗き込むようにテーブル面へ両肘を着き、身を乗り出す。
「そ、それって……俺の事、からかってるの？///」
何だか弱味を握られたようで、少し落ち着かない。
俺はそんな気分で、膨れて見せた。
「違うわよ。……好きだから、”無条件”なのよ」
楽しげな表情を崩すことなく、母が言葉を口にする。
答えに気付かない俺を、小さな子供を見守るような優しい眼で眺めていた。
「……無条件？」
少し眉間を寄せ、俺は訊く。
「無条件で好意と信頼を寄せれる相手。それが”お母さん”。好きだから、信じれる。頼れる。甘えられる。安心できる」
俺の目の前で、母が右手の指を折りながら、１つずつ言葉を告げる。母の柔らかい声を、俺はただ黙って聞いていた。
「部員にとって、秀一郎は立派な”お母さん”なのね」
くすっ、と小さく笑う声を漏らした母が、目尻に出来る皺を、俺に見せる。
自分に任される仕事の手は、抜いてないと思う。
自分に出来る限りの事は、全力で取り組んできたはずだ。
でも、自分じゃ、役目を果たせてるかは分らないけど……。
「……そんな風に、思われてるかな？」
母の優しい笑みに少し勇気を貰った気がした俺は、母へと気弱な笑みを返す。
――好意と信頼を、”無条件で寄せれる相手”……。
確かに理由もなく、”お母さん”をどこまでも信用してる。
叱られて、口喧嘩もして、それでも嫌いになれない。
隠し事をしても、嘘を吐いても、いつも必ず見破られたし、恥ずかしい事や気まずい事も、いつも必ず白状させられた。
それでも、妹や俺は”お母さん”って呼んでは、べったりと甘えていたもんな……。
――改めて考えると、”お母さん”って……何か凄いな。
そう思った俺は、小さく息を吐く。
「”子供を育てる母”と、”部員の世話をする副部長”。人と人が情で接する。それの、どこに違いがある？」
”どうなの？”と、母の双眸が俺に問う。
”女は感情の生き物だ”と言う人がいるけど、こうして母と話す度に、母の言い分は理に適っていると思う。
”お母さん”は”女性”というものとは、違うのだろうか？
考え込んで黙る俺を見ていた母が、話を続ける。
「皆が”お母さん”と呼んで慕うのは役割をキチンと果たしてる証拠じゃないかしら？」
右手の人差し指を立て、それを左右に振りながら、母が教師のような顔をして話し終えると、俺を見て口元を結ぶ。
「でも、俺――」
俺には、俺なりの”お母さん”という言葉に見解がある訳で、少し納得したくない気持ちもある。母の言葉を聞き終えた俺は、口を開いた。
信頼の情を、”お母さん”っていう呼び名で表さなくても、良いじゃないか。言葉は人の数だけ、あるのに……。
――やっぱり、”お母さん”って呼ばれるのは、嫌だな……。
「秀一郎が男の子なのは、皆知ってるわよ！第一、こんな図体の大きい女の子なんて、お母さん産んでないわよ？」
少し後ろ向きな俺の思う事など手に取るように解るのか、呆れた顔をした母は、少し強い口調で話し、湯飲みに残っていた茶を飲み干した。
「だって、俺……」
ほんの少しだけ、唇を尖らせる。母の言い分に反抗したい訳では無いのだが、もう少し俺の気持ちも考えて欲しい。
俺は――”男”なんだ。
妹のお飯事の相手ですら、”お母さん”を演じた事は無い。
それなのに、中３になった俺の愛称として呼ばれるのは、かなり恥ずかしい。
英二達に言われるのは、まだ良いとしても――……。
俺はコッソリと溜息を吐いた気でいたのに、俺の母は、どこか目敏い。右手でテーブル面の上っ面を軽く叩いた。
「皆の”お母さん”が不服なら、そう皆に言いなさい！」
眉間を寄せた母が、今度は片眉を上げ、不服そうにした俺の顔を覗き込んでくる。
「そ、そう……だけど……」
困った俺は、言葉を詰まらせる。
視線を上げたり、下げたり、落ち着きの無い幼子のように彷徨わせた。
――”お母さん”が、嫌いな訳じゃないよ。
でも、俺……。
”お母さん”って、呼ばれたくない子がいるんだ。
その子には、頼れる男に……見られたい。
――”お母さん”は、好きなんだけど……。
やっぱり、俺……。
”お母さん”って、呼んで欲しくない子がいるんだ。
その子には、男らしく……思われたい。
だから……”お母さん”って、呼ばれたくないよ。
俺を、そう呼んで欲しくない子が、いるから……。
テーブル面と母の顔を往復する視線で、母の様子を窺う。
これ以上不服そうにしていると、また叱られてしまう。
叱られるのは嫌だったが、母には暫く隠しておきたい事が俺自身にある。特に、母の大好きな”恋話”というものに関しては――。
彷徨わせていた俺の視線に、母の視線が絡んだ。
不意に合った母の視線が、何故か外せない。
――まずい、な……。
母に対し、俺は今まで隠し事を隠し通せた事がない。
俺の密かな悩みも、母の前で白状させられる気がした。
「……あらっ、秀一郎？……好きな子でも出来たの？」
俺の表情を怪訝な様子で見てた母が、急に訊いてきた。
母の言葉を訊いた俺は、思わず、目を剥く。
――ドキ……ッ！！！
胸の音が、急速に勢いを増し始める。
「な、なんで？！お母さんは、そんな事も判るの？！///」
激しく動揺をして裏返る声など気にも留めず、赤くなる顔をそのままに、俺は母へと尋ねた。
見ただけで判るなんて、そんなの超能力者だ！
でも、”お母さん”なら……それも、アリなのかも……。
なんだか、妙に納得してしまう。
そんな気持ちでいる俺は、母の瞳を見た。
赤く染まった俺の驚き顔を見てた母の双眸が、静かに輪郭を崩した。細められた瞳には、俺の姿が映される。
「あらあら、まぁ……。本当に隠し事が下手ね、秀一郎は」
心底可笑しそうに笑い出した母は、軽く胸元を押さえる。
その仕草は、女性らしく柔らかなものだった。
――お母さんに、やられた……っ！！
俺は、今、気付いた。
母は、”女の第六感”というもので、言ったのだ。
それ以外の、何物でもない。
「うぐ……っ！///」
母の思惑にはまった自分の迂闊さを呪うが、相手は自分を知り尽くした”お母さん”なのだ。
俺は、もう絶句するしかなかった。
「……だから、”お母さん”って呼び名が嫌なのね？」
口元に手を添え、少し困ったような表情で笑う母が、席を立ち上がりながら、俺へと訊いた。
「う、うん。……まぁ、そういうこと……なんだけど///」
素直に1つ頷き、俺は母の言葉を肯定する。
――”お母さん”には、敵わないな……。
恥ずかしさで染めた片頬を掻き、俺は思う。
必死になって隠す必要が無くなると、心が軽い。
「秀一郎も、難しいお年頃になっちゃって。……ふふふっ」
茶目っ気タップリの話し方で、ニコニコと笑う母は、夕飯の準備を再開する。
先程、シュンシュンと音を立てていた炊飯ジャーは、すっかり大人しくなっていて、蓋を開けられるのを、今か今かと待っていた。
「お母さん……」
流し台を前にした母の背へ、俺は呼びかけた。
少し丸くなった肩越しから、母がチラリと視線を寄越す。
「なぁに、秀一郎？」
振り向いた母が、俺に呼ばれて答える。
ほら、俺を見る母の眼は、いつでも優しい温もりに満ち、柔らかな光を宿し続ける。
父が愛する、我が家の少しお茶目で優しい聖母<マリア>。
俺と妹が競って絶対の好意と信頼を寄せる、”お母さん”。
――”無条件で、好意と信頼を寄せれる相手”……か。
皆もこんな気持ちで、俺を見てくれているのかな？
そうだったら、俺……ちょっと嬉しいな。
俺は椅子の背もたれに体重を預け、母を見上げた。
「……ありがとう」
はにかんだ笑みを見せ、俺は大切な事を教えてくれる母へと感謝を伝えた。
こうして――。
親子の絆を１つ深めた、母と俺。
我が大石家では、今宵も夜が更けていくのだった。
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