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もし、１つしか答えを出せないとしたのなら、何を捨て、何を得ようとするのか。
もし、１つしか選べないものだとしたのなら、何を得て、何を切り捨てるのか。
いつだって、堂々巡り。
いつまでも、堂々巡り。
この掌に、大切な答えを得るまでは――。
バレンタインデーを、あと２日後に控えた日のこと――。
昨日、が恋人の大石と喧嘩別れしたカフェ店に、細身で長身の男子学生が現われる。その男子学生は、やはり大石と同じように、詰襟学生服に身を包んでいた。見た目の印象は、大石と同じで優等生の類。けれども、大石の爽やかさとは対極に位置し、爽やかさとは無縁そうな人物。しかも、それを象徴するような四角い黒縁眼鏡が、マッドサイエンティストを思わせる印象的な学生だ。
は、その男子学生の姿を見付けた途端、いつも座る店内のお気に入り角席から、右手を大きく振り、自分の存在を教えた。その証拠に、男子学生はの姿を認めると真っ直ぐに彼女の元へと歩み寄って来る。は表情を締め、近付いて来た彼へと、自分の正面へ座るように席を勧めた。
男子学生が席に着くなり、は先日の経緯を簡単に説明する。彼女の話を耳にしながら、呆れた溜息を零す男子学生は、カフェ店のメニューへ目を通して、黒縁眼鏡のブリッチ部分を押し上げた。
「……で、が俺のところに来た――という事かな？」
が説明した話で大方のの言いたい内容を理解した彼は、ボソリと言葉を口にした後、ククッと独自の笑い声を漏らす。
彼の名は、乾貞治。
の恋人である大石秀一郎と同学年で、男子テニス部に所属するレギュラーの1人。特に、テニス部内においては、青学男子テニス部のブレインとして称される。
そんな彼の得意科目は、物理。数学も物理に次いで強いと、は大石から聞かされていた。大石が平均的に出来るのに対し、乾は理数系に特化したタイプと言えるだろう。は残り１週間を苦手科目の強化にあてる事に決め、乾を選んだのだ。
「受験生に、『２月１４日は必要無い！』――って言われましたから！」
乾と同じようにメニュー表に目を通したが、デザートを決めつつ、彼に答える。
「それは、それは。……災難な話だな」
「ククッ」と心底可笑しそうな笑い声を漏らした乾が、の言葉に頷く。彼女の不機嫌が誰の所為なのかは、問うまでも無い。そして、本当に災難だったこの場に居ない人物を思うと、また笑いが込み上げてくるのを止めれそうにないと、乾は感じていた。
乾は、同級生の大石と２学年下のの関係性を、充分に認知している。何故なら、この男、大石との恋愛への発展性を数字で叩き出すような事を、密かに楽しんでいたからだ。ただ、数字でも割り切れない事があり、尚更、楽しかったということは、当人達には伏せているらしいのだが――。
「まったくですよ！！」
威勢の良いの声が、どこかくぐもって聞こえるのは、あるものを通している所為だった。それに気付いた乾が、逆光になれば見えなくなるレンズの奥で、双眸を細める。
「ほぅ？ ……白マスクとは、受験生らしい」
”感心だな”と言いたげに呟く乾が、口元を僅かに綻ばせた。大雑把なタイプのが、誰かさんの言い付けをしっかりと守っている姿に、また可笑しさが込み上げる。
「”らしい”じゃなくて！ 立派な受験生ですってば！！」
ジトリとした眼で、黒縁眼鏡男を軽く睨んだは、白マスクの下で盛大に頬を膨らませた。
「大石に、”マスクしろ！”と言われたのか？ 万年健康優良児が言いそうな話だ。まぁ……しておけば、間違いないけど」
黒縁眼鏡に手の先をあて、軽く持ち上げる乾の声音は、普段と変わらない。だが、明らかに彼女の反応を乾は楽しんでいた。それには、も薄々感付いている。伊達に何年も青学レギュラー陣と交流している訳ではない。特に、データ好きな乾を相手にすれば、尚更、観察結果がデータ化されるのは目に見える。
「…………」
思わず、口を噤んだは恥ずかしさで俯いた。大石と喧嘩しておきながら、彼の言い付けを守る自分が、いかに大石を信頼しているかをアピールしているようなものだ。当然、乾を前にした以上は、データ好きな彼に、恋人への信頼度と愛情度を数値化されるのは、覚悟しておく必要があったのだと、今になって覚る。
会話が途切れたところで、乾との座る席へと、ウエイターがやって来た。乾が先に飲み物を頼むと、それに続いてもいつも通りのケーキセットを頼んだ。このカフェ店のケーキセットは、金額の割りにボリュームがあり、美味しいと評判で女学生から大人気のメニューとなっている。ウエイターが恭しく注文を復唱し、立ち去るのを見送ったところで、乾が唇を動かす。
「さて、。大石からは、『宜しく頼む』って聞いたけど……俺はどこまで頼まれた事になってるのかな？」
注文後、気まずくて俯いたに対し、乾は気にも留めてないと、言わんばかりに彼女へと訊いた。
乾は、からの依頼の電話を受ける前に、既に、大石からの依頼を受けていた。その内容は、”受験生の家庭教師”というもの。最初に、”何故、俺に？”と思った乾へ、大石は彼自身との間に起きた事の顛末を伝えていた。なので、今日、から聞いた話の経緯に、然程驚かなかったのも、その為だ。しかも、双方の言い分には随分と食い違いもある。だが、そのあたりの補正は、乾には問題無いに等しい。彼が大石とを密かに観察し、集めた収集データ量は、２人の行動を如実に物語る。今後の２人の行動も、粗方の読み外しは無いと言えた。流石、データマンと呼ばれる確率王の”乾博士”だ。
「ど、どういう意味ですか……？」
乾の言葉に、弾かれたように顔を上げたが訝しげに彼へ尋ねる。の俄かに息を呑んだ動作を、読めない眼鏡レンズ奥にある乾の涼しげな目が捉えた。
「受験日までは１週間。その間にあるのはバレンタイン･デー。大石と喧嘩中のが望むのは、受験勉強だけか、恋の子守りもか？」
どうも意味が読めないと言いたげな顔をするに対し、乾は説明口調で喋る。乾の言葉を聞いていく過程で、の顔色に変化がおき、それを彼は可笑しげに眺めていた。
そもそも、大石は乾に対して、”しっかりと試験対策の勉強をさせてくれ”と依頼したのだが、バレンタイン･デーの予定は一切口にしてなかったのだ。喧嘩の内容から、２人が約束を取り付けなかったのは明白だ。乾も乙女心に得意なタイプでは無いが、の思考と行動を読めば、彼女が何を考えているかは一目瞭然。”少し譲歩すれば、を気の済むように扱えるのに”――と、呆れた溜息を彼が携帯電話口で零したのは、内緒の話だ。
「こ、恋まではお断りです！！ ”勉強だけ”に決まってますよ！！」
驚いたは大きな目を零れんばかりに見開き、白マスクの下の口元を大きく開いた。”何で、乾先輩なんかとバレンタインを過ごさなきゃ、ならないんですか！”という、実に不満げな思いの詰まる声が店内に響く。
「おやおや。なんだ、面白くない。……ククッ」
しっかりとに拒否された乾は、肩を竦めて苦笑する。普通、恋愛行事の際、逢瀬を拒否された側は、報復の１つでも考え付くものだ。憂さ晴らしに、自分と過ごしたいと言うならば、それに付き合うのも面白そうだし、良いデータが取れそうだ、と乾は考えていたが、そのあたりの心配は彼に必要なかった。”諦め”という手段を取るに、”実に、素直な奴”――と、乾は思う。
「ひぇー？！ 何言ってるんですか！ ……それ、まさかの”横恋慕”？」
乾のありえない反応に、は顔を青くする。恋愛事から１番遠そうな人間を選択したはずの彼女にとって、”まさか？”な乾博士の言葉に、疑わしげな眼で彼を見た。どう考えても、自分をめぐって大石と対決などしそうに無いし、自分を引っ掛けるぐらいの罠は、乾汁を開発するよりも容易い事だろう、とは考えた。なので、乾の発言に、は首を傾げてしまったのだ。
「その場合、誰に対して？ ……、”お前に対して”か？」
思案顔になった乾は、首を傾げて見せた後、へと問う。
「はぁ〜〜っ？ 何で、”大石先輩に対して”じゃ、無いんですか？！」
またもや、驚愕の顔付きでは声を上げた。”横恋慕”の言葉にかかる人物の違いに、彼女は目を剥く。普通、男同士が対峙する場合、女性をめぐるにも係わらず、乾博士は、易々とと対峙するのかと問うのだ。彼女が驚くのも、当然だった。
「世の中、知らないほうが幸せな事もあるな。……ふむ」
さらりと話した乾は、思い付いた結果に、１人で納得顔になって頷いていた。
乾としては、自分にも懐いてくれる後輩として、の事は可愛いという気持ちはある。だが、それ以上に、大石が己に絶対の信頼を寄せてくれる気持ちを、常に感じてる乾博士の身としては、彼女を争奪するよりも、大石を争奪する可能性の方が高い気がしていた。友情と愛情。乾が取るべきものは、決まっている。大石と争うのは、テニス部でのレギュラーの座のみで充分なのだ。
「……うぐっ！」
乾の心を読めないは、思わず、口を噤む。現在の状況を鑑みて、大石をめぐっての熾烈な闘いが展開する可能性のほうが高い気がしてきた彼女は、己の分の悪さに頭を抱えたくなった。
愛情と友情――。
常に、男は友情を重んじる傾向にある。特に、大石はその傾向が強いと言えた。実際、彼の生活全般における行動は、恋に現を抜かすタイプでは無い。先日、それを身をもって体験したは、乾博士の言に、戸惑う羽目になっていた。
苦悶するを他所に、丁度、注文していた品がテーブルへと運ばれてくる。給仕するウエイターが下がるのを、乾とは黙って待った。
「苦手科目は、大石から聞いてるよ。……さ、。問題集を出せ」
悶々とするから視線を外した乾は、不毛な会話から話題を移し、テーブルの上へと長い指先を持つ大きな右手を１度置き、そこで軽くテーブル面を叩いた。タン、タンと打ち鳴った音が、乾からのへの催促だ。
「こ、ここまできて、敵の手を借りるとは……っ！」
悔しげに眉間を寄せたは、唸り声を漏らした。自分達の恋愛事など二の次的な扱いの割りに、このような学生の領分的な話になると、何という鮮やかな手回しの良さ。彼女が悔しがる思いは、乾にも手に取るように解った。しかし、大石はに対して、厳しいようで、どこまでも過保護なのだ。”大石は彼女に尽くしたがり屋な、ベタ甘な男だ”――と、乾はつくづく思う。
「――『敵』、ね。……ククッ」
の言葉に、乾は心底可笑しげに笑った。”親心、子知らず”の譬えがこんなにもしっくりとくるものだろうか。黒縁眼鏡のブリッジ部分を押し上げた乾は、目の前に座る大石の可愛い恋人を見遣る。の悔しそうな様子に、”坊主憎けりゃ、袈裟まで憎い”を地でいってるな、と少々呆れつつ、乾は大石の心情を慮ってしまう。”どこまでも彼女一筋なのに、随分と報われない奴だな”――と。
「女の子の気持ち知らない人なんて、”女の子の敵”ですもんねっ！」
何かを思い出した所為で、の怒りが沸々と湧き始めたのを、彼女の声音で判断が付いた乾は、を目の前にして肩を軽く竦めた。大石の心情が解る分、彼に肩入れしてしまう乾だが、恋する者の報われなさは、も大石とどっこいどっこいだったのを思い出していた。
どちらかが異性の心理を読む事が得意だったならば、些細な喧嘩など起きなかっただろう。しかし、相手は大石であり、この娘。恋愛初心者の若葉マークで、周囲を巻き込んで暴走するものだから、かなり質が悪い。２人の進むべき恋の道を周囲のメンバーが手助けし、方向性を定めている感が否めない。実に、笑えない話だ。今回の喧嘩で、大石との仲がどう転ぶのか。非常に興味深さを覚えた乾博士は、感情豊かなへと、１つ投石する事に決めた。
「さて、どうかな？ ……今年はテニスバッグに隠すしかなさそうだが」
が”女の子の敵”と唱える大石の今年度のバレンタインデー予想を、乾の明晰な頭脳で答えを弾き出し、口元にニヒルな笑みを浮かべる。今年のバレンタインデーは、平日。学校での想いの受け渡しが多く行われるだろう事は、予測するまでも無い。
中学時代と変わらない校内での大石の言動は、優等生然としていた。常がこの調子なので、彼は下級生や同級生から、少なからず想いを寄せられていた。今年も、義理より本命数が上回るだろう事は、過去からの実績で、容易に推測出来る。乾博士からすれば、やや羨ましい話でもあった。流石に暇さえあれば、理科室に篭るマッドサイエンティストなどに、恋の血判状を持って来る物好きは、今のところ皆無だからだ。
大石が望めば、より可愛らしく、よりも大人しく、女性らしさを備える乙女を選り好みできる事実に、が気付いているのかが気になった乾の一投は、思いの外、大きな波紋を起こした。
「ど、どういう事ですか……？」
白マスクを外し、ケーキセットに付いてきた紅茶を口に運んだが、乾を見詰めて顔を顰めると、話に食い付く。
「女子という者は、恋人の有無など問題無しで、アレを渡すだろう？」
平静な顔をした乾は淡々とした声音で話し、へと訊くが、眼鏡レンズの奥の目は鋭い。これからの彼女の言動を、１つも見逃すまいとしているかのように――。
「そ、それは、大石先輩が……たくさん貰うってコト、ですか？」
俄かに落ち着きの無くなったが慌しく紅茶のカップをソーサーの上へと置いた。その瞬間、陶器が思ったよりも高い音を立てる。
「どうした、？ ”女子の敵”の事が気になるのか？」
彼女の無言の焦りは、の心情をとても素直に表していて、乾は胸の内で笑った。どうでもよさげに怒っていても、は大石が好きなのだ。何だかんだと言いつつも、やはり心配なのだろう。乾がヤレヤレと言いたげに、呆れ顔で肩を軽く竦めて見せた。
「……ぐっ！ そ、そんな意地悪になんか、負けませんから！！」
意地の悪い乾博士の言葉に、は唇を噛む。 乾の問いが、の心情を覗く行為であると、勘の良い彼女は気付いた。赤く染まる顔で、彼女は目の前のデータ男を睨み付ける。その殺気立つような顔付きは、乾へ今にも噛み付きそうな勢いを感じさせた。
「無理するのは良くない。俺の確率で、大石が今年貰うチョコレートの個数を叩き出そうか？」
の様子に我関せずな顔をした乾は、意味深な笑みを口元に湛えて、黒縁眼鏡のブリッジ部分を長い指先で押し上げる。すると、お転婆で、負けん気の強いが睨みを利かせていた目を彼から逸らすと、急に俯いた。
乾が数値を弾き出せると言う事は、過去に実績が存在する事を意味している。不意に、は不安を感じた。今までは他の子達と同様に、自分にもあったバレンタインデーのチョコレート渡しの権利。しかし、今回は、その権利を憎い恋人に易々と剥奪されている。は、己が恋人の気持ちを何１つ確かめられないのに、大石が女の子達の気持ちへ答えを返すのが、実に面白くない事だと、今更ながらに気付いてしまった。なのに、ここで、博士から正確な数値を叩き出されては、本当には受験どころでは無くなってしまう。
「え、遠慮します。……それこそ、眠れなくなるじゃんよ……」
一言断りを入れ、正面に居る乾をチラリと見た後、ケーキへフォークを突き刺し、一口大に切り取ったものを口へと運んだは、口元をモゴモゴとさせながら、ぶつくさと呟いた。
注文していたコーヒーの白い陶器カップに唇を付け、乾はの様子を眺め、彼女の心を慮る。
彼女が大石と恋人同士になったのは、昨年のバレンタイン時期。本来なら間違いなく、お付き合いの１周年記念で、楽しい盛りになるだろう。それが、どうだ。受験生という肩書きを持ったばかりに、この有様。大石の受験生への思い遣りは、解らなくは無いが、少々度を超えている。押さえつけ過ぎれば、が言う事を聞かなくなるのは、目に見えていた。息抜きという名目で相互の利益を守れば良いのだが、それを選択できないあたりが、大石らしいというべきか――。
琥珀色から漂うコーヒーの香りが、鼻腔を擽る。シュミレーションを軽く試みた黒縁眼鏡男は、レンズ奥にある瞳を伏せて静かに笑む。
現在のの成績ならば、首席合格を狙わなければ、問題無く、高等部の合格圏内にある。後は試験日に向け、リラックスさせてコンディションを整えてやれば良いだけ。単純明快、猪突猛進のイノシシ娘なら、バレンタインデーでのチョコの受け渡しと、茶店デートで充分に納得するだろう。いや、チョコの受け渡しで、へ向ける柔らかな大石の笑みを確認出来るだけで、は充分腹一杯になれるか。
己の眼前で見たままの、普段の２人が遣り取りする姿を、乾は脳裏に思い描く。
幸せ一杯で、想いを一杯に抱える２人が、一生懸命に恋をする。傍で見ていて、気恥ずかしくさせられ、また幸せで温かな気持ちを分けてくれる。一見、性格は正反対でミスマッチ。なのに、ここぞという時は、必ず同じ考えを行動で示す。実に、不思議な組み合わせだが、その相性の良さは、テニス部の試合で実証済。互いの為に誂えたような２人だからこそ、この大事な時期に仲違するのが、乾博士には残念でならないのだ。
「”カップル誕生･１年目のお祝いをしてください！”と素直に言えば、良いものを――」
素直さがの最大の武器の１つだと、乾博士は知っている。その素直さを大石が愛しいと思う１つだと言う事も知ってる彼だが、そこはあえて伏せておく。瞼を押し上げ、正面に座る頑固者の姿を瞳に映した乾は、浅い溜息を吐いて呟いた。
「い、乾先輩ですら、ソコへ思考が辿り着くってのに！ 悔しい！！」
ケーキを頬張り、両頬を栗鼠のように膨らませたが、心底悔しげに言葉を口にした。その場で彼女が立っていたら、絶対に地団駄を踏んでいることだろう。”暴れる姿が目に浮かぶようだ”と、乾は唇を緩ませる。
「ククッ。……お前、俺を随分と侮ってないか？」
物事を確率で表す楽しさを身上としている乾に対し、その結果の遥か斜め上に答えを出すようなだ。当てにならないと思われがちになるのも、そこは否めないだろうが。乾は可笑しさを堪える事をせず、素直に笑ってへと訊いた。
「そ、そういう訳じゃないですケド……」
ケーキ皿に乗るケーキが半分になり、横倒しになる。それを気にしつつも、図星を指されたは、気まずそうな顔で乾に答える。乾の答えが外れるのは、と大石の言動に限りだ。テニスでの試合でポイントを掴むのも的確であれば、理数科目の試験のヤマも的確に当ててくる。それには、桃城や堀尾達トリオと共に、もお世話になった事がある。なので、彼女は乾を決して侮ってはいないのだが、どうせ当ててくれるならば、大石の心理も当てて欲しいという思いが生じるのは道理。乾は、青学テニス部のブレイン的存在。確率を語らせれば、部内において右に出るものはない確率王の乾貞治なのだから――。
「ハァ……」と疲れた溜息を零し、紅茶の入ったカップを手に取ったが、鮮やかなオレンジ色の液体をズズッと啜る。ほわほわ〜と上る湯気のカーテンを挟んで柔らかく見えるを眺め、乾は黒縁眼鏡を無言で押し上げた。
彼から見ても、は黙っていても、人懐っこくて可愛いし、確率の斜め上を行く答えを弾き出してくれる面白い女子学生。ここまで人の目を惹くのは、彼女の天性の成せる業だろう。乾は興味津々の眼で、を眺め続ける。
大石にとって、もっと従順で可愛い女の子は、必ず存在する。だが、大石は、このイノシシ娘の特大罠で、易々と釣り上げられたのだ。彼女を選んだからには、”大石にとって、余程の魅力的な餌”が置かれていたに違いないと、乾は思い巡らし始めた。
まず、を客観的に分析する。感情豊か、伸び伸びとして素直。時には、頑固一徹な面を持ち、負けん気の強さも持ち合わす。好奇心の強い双眸から、闊達な表情も覗かせる。女の子らしさの規格は少々外れているものの、決して女の子らしい事が出来ない訳でもない。勘が良いだけあり、物事をこなす器用さを彼女は持っている。ただ、それが武器になると、彼女自身は気付いてなさそうだが――。
次に、大石を分析してみよう。アイツは人当たりも良く、常、優等生。日々穏やかでありながら、時に熱く、時に冷静。手塚の隣に並べば、その表情の豊かさなど、一目瞭然。そう考えると、菊丸同様、性根は素直。ただし、気の置けない仲間内には、時に強引で、我侭にもなる。良い例は、菊丸との口喧嘩だ。自分の気持ちを通したい時ほど、大石の態度は徹底していて、容赦がない。自分が納得するまでは、頑として人の意見に耳を貸さない。傍で見ていて、時折、怖くなるほどだ。
こんな２人の意見が噛み合わなくなれば、自分達を巻き込む大型台風を呼ぶ事など、実に容易い。後少し、恋愛折衝力を高めて欲しいと、大石に願うのは間違いなのだろうか。とはいえ、に願うことのほうが、絶対に難しい話だろう。しかし、今回は青学テニス部メンバーの目の届かない場所で繰り広げられたバトルだ。気の済むまで勝手にさせておくのも１つの手だが、そうなれば、長期戦になるどころか、関係が破綻する不安も拭い切れない――。
少なくとも、現在の彼は台風の目の中心にいる。落ち着いてデータを取るには、絶好のポジションを確保出来ていた。”これを楽しまずに、何を楽しめというのだろうか”――と、黒縁眼鏡を着用するデータマニアが答えを弾き出し、超難解恋愛問題を前に血が騒ぐ。
乾は、拙い恋愛をする恋人達を手助けすることに決め、簡単に作戦の土台を思案した。 大石との仲違いの解消策を労したところで、短期決戦は難しい。この際、バレンタインを無視する形で、中期決戦策を練る事にした。ここで乾が決めた事は、後日、他の青学メンバーに通達される事になるだろう。いつも通り、大掛かりな計画で。”知らぬは、恋する２人ばかりなり”――だ。
「――長引きそうだな」
暫し、思案顔で無言を貫いていた乾が、口元を小さく緩めて呟く。ただし、その声音は、どこか楽しさに染まり、誤魔化しなどは一切効きそうにないものだっだが――。
「……はぃ？」
乾博士の呟きに、 は訝しげな顔で聞き返す。彼女には、呟きの意図が読み取れなかったからだ。の大きな双眸が、乾の姿をそこへと映す。
「ん？ いや、勉強させないと説教されると思ってね。問題集、開いて」
眼鏡の奥にある目を眇めてを見遣り、乾は素の表情へと戻した。いつまでも、楽しさに浮かれていられない。彼には、大石との約束があるのだ。すっかりと失念していたのだが――。
「よ、宜しくお願いします……」
殊勝な態度で頭を下げ、乾に言われるがまま、はテーブルの上へと大石から借りっぱなしの問題集を開いた。彼女の動きに併せ、テーブル面の上が俄かに騒がしくなる。
「あぁ、良いよ。ただ、俺からも１つ交換条件があるけどね」
テーブルの上に左腕を置き、そこへ体重を預けるように上体を乗せ、前のめりの姿勢になると、声のトーンを下げて話す。真面目な顔付きになった乾が広げた問題集の紙の上面を右手の人差し指で弾いた。そんな彼を前に、は当然の如く、身構える。
「――交換、条件……？」
ただならぬものを乾から感じ取ったは、彼の言葉を慎重に復唱した。
「見返りの無い愛は持ち合わせて無いよ。そこは……”大石の領域”」
複雑な胸の内を表す彼女の表情に、乾が口端を上げて答える。乾の言葉に、は目を丸くし、暫し瞬かせた。そんな彼女を前にして、乾は大石の必殺技と掛け、なかなか上手い表現が出来たと、１つ頷いてみる。
「そんな愛情があったら、バレンタインの許可取り付けられてます！」
ハッ、と我に返ったは、テーブル面に両手を着き、声高に反論した。普通なら、可愛い恋人である彼女のお願いを叶えてくれるのが、恋人の努めであり、彼氏の役割だ。けれども、その役を蹴飛ばした大石の愛情を疑ってかかるの心情も、理解出来ない事は無かった。
「……ククッ」
乾は笑った。大石の報われなさ、の報われなさ。また、互いが想い合う愛情の深さに――。
大石のへの溢れんばかりの愛情は、箱入り娘を育てる母親のようなもの。何かにつけ、が不利になるような事態を全て回避したいぐらいの思いの強さで、甲斐甲斐しくお世話しているのだ。傍で見る大石の言動は、メンバーの涙を誘う場面が多いのも事実。実際、『よくやるよなぁ〜、アイツ……』と、菊丸がぼやく程なのだ。
かと言って、が大石に意地悪な訳でもない。彼の言葉を健気に守るぐらいの根性はある。今日の白マスクの件は、彼への信頼の度合いが見て取れた。手塚の忠告など屁とも思わないじゃじゃ馬娘が、大石の忠告は素直な気持ちで聞き入れるのだから、大石がを手放しで可愛がりたくなる気が、乾にも解らなくは無かった。実際、大石の次に、へ言って聞かせる役は、意外と、乾へお鉢が回ってくる事も多いからだ。ただ、不二と菊丸、桃城は面倒臭がり、海堂に至っては、その役を端から嫌がってる感も否めないが。
やれやれ、と思った乾は笑った顔のままで、肩を竦めた。
「言っておきますが、変な事には協力しませんよ！ い、乾汁とか！」
乾の言動を観察していたは、己が頭で思いつく限りの危険性を捻り出した結果を口にしている。嫌な汗が背を伝いそうだと思いながら、は乾の出方を待っていた。
「大石の代わりに”受験解放祝い”の席を設けてやろうかと思ってね」
前のめりだった姿勢を戻し、椅子へと深く掛け直した乾は、素の顔で話し、黒縁眼鏡のブリッジ部分をゆっくりと押し上げる。
「――ホ、ホントですか〜？！」
今まで訝しげな顔で乾を見ていたが、今日１番の笑顔で破顔した。は頬を紅潮させつつ、素直に喜ぶ。
「少しの楽しみがあれば、俄然、のヤル気も上がるだろう？」
ニコニコとご機嫌に笑うの、何と可愛らしいことか。”大石もこの顔見たさで、頑張ってたろうに……”――と、乾は胸の内に呟きを落とし、へと話した。
「うわぁーーい♪ 頑張ります！」
大石の有無そっちのけで、素直に手を叩いて喜ぶ様に、乾は口元を緩めた。の性格は、楽しい事を十二分に楽しめるところにある。好奇心の強さも、そういうところからくるのだろう。そんな彼女を喜ばせるのは、何と簡単なことか。この提案で、乾がを御し易くなったのは、語るまでも無い。
「越前や竜崎、にも、そう伝えておいてくれ」
の警戒心をアッと言う間に解いた乾は、彼女へ伝言を淡々と告げた。
「乾先輩は、意外と……イイ人、なんですね？」
横倒しになり、形の崩れたケーキにフォークを刺し込み、切り取って口に運んだは、今もご機嫌なままだ。楽しげな顔で、乾へと話し掛ける。
「さぁ、どうかな？ ……まぁ、大石ほどじゃないけどね」
あまりの無防備さに、乾は苦笑を漏らした。実は、乾が提案した事は、未だ誰にも知らされていない乾だけのトップシークレット。ようするに、大石ｖｓの中期決戦への布石の１つなのだ。乾博士の策に、しっかりとハマってしまっているのに、彼女が一向に気付く気配は無い。”人の善い大石とは、天と地ほどの差があるのを解ってないな”――と、乾は思ったのだが、あえて、それを口にはしなかった。
「比べるものを、間違ってますよ……」
今まで笑っていたはずのが、また栗鼠のように両頬を膨らませ始めた。どうやら何かを思い出したのか、酷く不機嫌な顔に変わっていく。
「それは……”比べて欲しくない”ということ、かな？」
乾の眼鏡レンズが店内の蛍光灯の光を孕むと、どこか鋭くなった眼をに連想させた。乾の低い声音が、更に深さを増し、何かを推し測っているかのように聞こえる。
「いいえ！ 相手は”人間”じゃなくて、”女の子の敵”ですから！！」
今のにとって、大石は恋人でありながら、憎き乙女の敵なのだ。人間云々の前に、乙女心を把握出来ないという理由だけで、地球外生命体の扱いになっていた。腹立ち紛れにケーキを切り取ると、食器が不満げに音を鳴らす。乱雑な扱いに、まるで悲鳴を上げているようだとも譬えられるだろう。
「ククッ、手厳しい意見だ。……大石の欄に、今度そう付け加えておくよ」
の態度が、今回の大石の言動を酷く腹立たしく感じている事実を、乾は改めて思い知らされる。根があっけらかんとするは、どんなに怒っても、短期間でケロリとしてしまう事も多い。それが、大石との間に起こった問題が今も尾を引いて、恋する２人の間に積載された状態にある。これを動かすのはかなり骨の折れる重労働になるだろう。しかし、行動すると決めたからには、乾は腹を括るしかない。これも偏に、２人の面白い恋愛データを得る為だ。データの確実性を増す為ならば、危険を厭わない。これぞ、データマンの心意気といえるだろう。
”しかし、それにしても……”と、乾は溜息を漏らした。日頃の”大石先輩大好きオーラ”と、”周囲がウンザリするスキスキ光線”を駆使するに、メロメロにされっぱなしの大石が、こうして掌を返したように憎まれているのだ。”女子の敵”と称された大石が、今の恋人の言葉を聞いたら、どれ程の気落ち顔を見せるのかと思うと、乾はこの場にいないの恋人を慮ってしまうのだった。
「どぉーぞ、ご自由に！！」
自分の恋人を地球外生命体扱いにしたところで、悪びれる様子も無いが、ツン、と顔を明後日の方角へと向けて言い放つ。
「素直じゃないでも、興味深いデータが取れそうだ」
大石と喧嘩したは、いつもと違う表情を見せる。それを”やはり面白い”――と思う乾は、早速、の言動を本気で観察し始める事にした。興味の対象を目の前にすると、のんびりと構えていられないのが、データマニアの性なのか。乾は唇の端をニヤリと持ち上げ、今日１番の薄気味悪い笑みを彼女へと見せた。
「……そ、そんな協力はしてませんよ？」
は俄かに背筋が凍るような悪寒を感じ、目の前の黒縁眼鏡男への警戒を強める。余計な一言が命取りになるかもしれないと、天性の勘の良さを発揮し、乾へと遠回しの拒絶を態度と言葉で示した。
「交換条件の一文に、これも盛り込んでおくことにしよう」
しかし、一枚上手なのは、もちろんデータマニアの乾だ。の拒絶は、既に計算の内。有無を言わさない口調で、言いたいことだけ言い終えた乾は、テーブルの上に広げられた問題集を右手の人差し指で指し示し、早々と脳内を切り替えていた。
「えぇ〜〜〜っ？！ さ、さっきは”１つだけ”って言ったのに？！」
俄かに顔を青褪めさせたは、乾の言葉に絶句しかける。
恋人の大石よりも、遥かに質の悪い鬼教師を自ら選択してしまった過ちを、が深く反省する事になるのは、この日から幾日も経過した後となる。
店内では、未だ乾との攻防戦が繰り広げられてたが、それと全く無縁な店外の空は、終日、穏やかな青をそこに描き続けていたのだった。
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