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子供から、大人へ
過去から、未来へ
恋を綴るように感じた想いは、全て通り過ぎるもの。
置き去りにされて、見えなくなって。
打ち寄せる漣のように、風に流れる雲のように。
今感じる想いは、通り過ぎようとする恋人への想い。
先輩に恋を告げたのも、関係が変わって初めて手を繋いだのも。
口付けて、抱き締めて、互いが深く交わったことでさえも。
あの時感じた想いは、通り過ぎた恋人への想い。
あれも、これも、それさえも――。
全てが、恋の……通過点。
時間が、想いが、通り過ぎてしまう。
そう考えると、酷く気持ちが焦る。
大好きな人を目の前にすると、尚更、そう強く思う。
どうにもならない。それでも、どうにかしたい。
大切に想いたい気持ちを手放したくない。
足掻いてしまう、この小さな胸の内を――どうしたらいいの？
カチ、コチ、カチ、コチ――。
時計の秒針が、静まり返る室内で響く。
見慣れた大きな水槽。エアーポンプがポコポコと小さな音を立てている。
水の中を気持ちよさげに泳ぐ熱帯魚達を、私は横目で眺めていた。
この部屋の主は、只今不在中。先輩の部屋へ通してくれた先輩のお母さんが、夏期講習に出ていると、先程教えてくれた。
そんな訳で、私は１人で待つ事になった。
長い時間を大人しく待つ事は、苦手。
「はあぁぁ〜〜。何だか、つまんないなぁ……」
大きな溜息をついた私はポツリと呟き、部屋の中央で水槽を眺めるのを止めて、ベッドの上へと腰を下ろす。
もう何年も、通いなれた家。今更、遠慮することもないぐらいの月日が過ぎた。
天井を見上げ、そう思い返した私は、ベッド上へと背から落ち、仰向けになった。
１人で時間を過ごすのは、退屈で仕方が無い。
「大石先輩、早く帰ってこないかなぁ……」
先輩の部屋でさえ、私の退屈を紛らわせることは出来ない。
この気持ちを満たしてくれるのは、他ならない――大石先輩。
そう、ただ１人の恋人だけ――私の、大好きな人。
早く、会いたい。
先輩に、今すぐに会いたいの。
１分も待てないぐらい、１秒も待ちたくないぐらい。
こんなにも、焦がれてる。こんなにも、待ち望んでる。
先輩に会うことを――。
それなのに、この想いは先輩といつも交わらない。
大石先輩へ焦がれる想いが、通り過ぎていく。
大好きだと想う気持ちが、恋の天秤を傾け過ぎる。
それが、とても――怖い。
恋の想いを大石先輩へと見せれたら、擦れ違わないでいれるの？
いつも一緒に居たいの。あの優しい腕に包まれたいの。
息がかかるぐらい傍に、声が届くぐらい傍に、触れ合える距離でいたいの。
大好きな人の全てを、育ち過ぎた想いが欲しがる。
我慢できない程に揺さぶられる心。
この恋を、どうしたら……いいの？
時間が通り過ぎるのと同じように、想いも時の中を過ぎ行くもの。
想いを留めるのは不可能なことだと、とっくの昔に気付いてたはず……。
先輩を想う気持ちを逃すまいと、抱え込んでしまおうとする自分がいる。
どんなに強く抱き締めても、それは出来ないのに……。
目まぐるしく変わる思考と、置時計の秒針が、急き立てるように過ぎている。
この部屋は、大石先輩の香りで満たされてるのに、温もりが無い……。
「早く帰ってきてよ……先輩の、バカ……」
窓辺の木々がカサカサと葉擦れの音をさせると、それが優しく私の耳に届く。幸い、この部屋は風通しが良く、涼しい。ベッドシーツの心地よさも手伝い、私は瞼をゆっくりと閉じて、ウトウトと居眠りを始めていた。
―――ギィィ……パタン。
扉の軋んだ音が僅かに響き、私の沈んでいた意識が浮上するのを手伝う。それと同時に、室内へ入り込んでいた日の光を、何かが遮った。私は、視界が急に暗がりとなり、瞼を押し上げるのを躊躇う。
「まだ……寝てるのか？」
くすっ、と笑った微かな響きと、不意に自分の額へ感じた掌の熱に、私は瞼をゆっくりと上げる。そうすると、ベッドへと腰掛けた大石先輩が、私を見下ろしていた。ぼんやりとする意識は、どこか夢の中を彷徨っているような気分にさせる。
「……お……お〜いし、センパイ？」
まだ眠りが足りないのか、目を開けては閉じるを数回繰り返しながら、私は待ち焦がれた人の名を口にした。
未だ自分の額へ優しく触れる掌の熱を心地よく感じると共に、安心感に包まれる。
大石先輩が口元を緩めると、唇の隙間から八重歯が覗く。
「、転寝すると風邪ひくぞ？」
あ、八重歯が見えた。
ちょこっと尖がっている八重歯が、大石先輩をどこか幼く見せた。
だからこそ、尚更、表情が優しく思えるのかな……？
私は大石先輩の口元を見詰め、ふふっ、と軽く笑う。
大石先輩が私の様子に怪訝な表情をすると、私の額をペチンと軽く叩く。
「何だよ、まだ夢でも見てるんじゃないだろうな？」
どうやら寝惚けていると勘違いされたらしい。私は、慌てて上体を起こした。
「……み、見てませんよ！」
ベッド上で体育座りをした私はそう言い、寝ていて乱れた前髪を整えようと、自分の右手を額へ寄せた。すると、私の手よりも早く、大石先輩の左手が私の前髪を梳き始めた。
私の前髪を梳いてくれる静かな指先の動きに、大石先輩の優しさを感じる。とても大事そうに私の前髪に触れる指先を、私は大人しく目で追った。
何でもないことなんだろうけど、心が何故か震える。
それが嬉しさのような、悲しさのような……言葉で上手く説明できない心の動き。
大事に慈しまれているのを知っているのに、それでも我儘なほどに大石先輩の全てを手にしたくなる胸の内を反映しているかのような感情だと思えた。
「前髪は綺麗に整ったぞ。どうだ……眠り姫の目は、覚めたのかい？」
膝を抱え、体育座りをする私の顔を覗き込んだ大石先輩の賢しげな瞳が、柔らかな細い三日月を模る。室内灯の明かりが大石先輩の瞳に映り込み、その澄んだ目が綺麗に見えた。
先程まで会いたくて仕方が無かった大石先輩を、目の前にした私は、今から独り占めできると思うだけで、胸が一杯になった。何もいらない、と思えるぐらいに―――。
「どうでしょう？ 眠り姫が目を覚ます方法は、昔から決まってますけど？」
膝頭に顎を乗せ、悪戯っ子のような目で大石先輩を見ると、大石先輩は、私の言葉に目を大きく見開いた。
何もいらないと思うのに、それでも、やっぱり先輩の全部が欲しい。
笑う声も、柔らかな眼差しも、男性らしい骨張った手も、何もかも。
意地悪を言われて困る、その表情さえも。
「な、何言ってんだよ！ それだけ悪知恵が働けば、起きてるだろ！」
赤面して怒る大石先輩が、先程まで私の前髪に触れていた左手で、今度は私の鼻先を摘まんで言った。
「あたたた……！ い、痛いでしゅ、ってば、大石先輩！！」
鼻先を摘んでいる大石先輩の左手を、両手で慌てて掴み、外させようと試みる。
「まったく！ 純粋な童話を何だと思ってるんだ、は？」
ご立腹な大石先輩の目が、私の目を覗き込み、反省の色を窺っている。
「ごっ、ごめんなひゃ〜い……」
思いの外、強めに摘まれた鼻先の手の力に、私は涙目で謝ることになった。
こんな時の大石先輩は、容赦が無いと思う。
待たせてゴメンと言い、キスの１つでもすれば丸く収まるのに、それを思いつかないあたりが、大石先輩が大石先輩たる所以と言うところなんだろうな。
恨めしい気持ちを込め、大石先輩の顔へと、じとりとした視線を送ってみた。
その視線に気付きもせず、大石先輩はベッド上から腰を上げると学習机へと場所を移る。
ガサゴゾと物を探す音から、夏期講習から持ち帰った教材を鞄から取り出しているらしい。
居眠りするぐらいの時間を待ってた私のことなんて、どうでもいいと思われていそうな扱いじゃないの？
大石先輩の……ドンカン……。
学習机の前に立つ大石先輩の背中を見上げる。
私がその背中を初めて見たのは、大石先輩が中学３年生の頃だった。
あれから、もう数年も過ぎている。
私達の互いの距離は、誰よりも近くなった。
けれども、時折感じる心の距離は―――とても……遠い。
遠過ぎて、その距離感が怖くなり、間を埋めようとしても立ち止まりかける。
見えない距離に、先輩を想う気持ちが焦る。
これ以上離れないで、何処にも行かないで。
――私の知らない先輩に、ならないで。
言葉にできない不安が胸に込み上げ、昔より広くなったその背中から、私は視線を外した。
ベッド上で体育座りしていた私は、膝頭に額を押し当て、揺れ始めた心を落ち着かせようとしてみる。
長い髪が自分の顔を隠すように背から前へとサラサラと流れた。それはあたかも、心を覗かせないように遮るカーテンのように。
先輩が、好き。
大石先輩が、本当に好きなの。
どうして、伝わらないのかな？
待ち焦がれて、会えた嬉しさが。
待ちくたびれても会いたい、その募る想いが。
声にしても、言葉にしても、伝えるには足りない。
こうして先輩は傍にいるのに、今感じている私の想いが流されていく。
先輩を、とても好きだという想いが、時の中へと置き去りになる。
１つも無くしたくないのに、手から零れるように失いたくないのに。
大石先輩への想いが、先輩に気付かれないまま、霧散してしまう。
伝えたいほどの気持ちが、伝えられずに、何もかものが消えてしまう……。
傾き過ぎる恋の天秤が悲しい。
私の恋の想いは、先輩には重た過ぎる―――。
揺れる心に呼応するかのように、視界が滲み始める。
「……？」
大石先輩が気遣うような声で、私の名前を呼んだ。呼ばれた声に、ハッとした私は顔を少し上げた。
目の前には、カーテンのようにかかる自分の長い髪が見える。いくつもの髪と髪の隙間から見える大石先輩の顔が、すぐ傍にあるのが判った。
「なん……ですか？」
揺れ過ぎる心の声を隠し、平静を保つようにして、大石先輩へと言葉を返す。
「今日のお前は、大人しいんだな。ひょっとして……待ちくたびれたのか？」
昔から変わらない心配性な大石先輩が、ベッド脇の床上へ膝を着き、ベッドの上へと両腕を乗せた姿勢で、私の様子を窺う。
大石先輩の言葉に、私は目を見開く。
待ちくたびれたのは、疲れた体か、それとも……想い続ける心か。
自分の思考を覗かれたような、その問いかけに、私は言葉を詰まらせた。
「が家へ来てるなんて、思いもしなかったよ。携帯もあるんだし、連絡ぐらいくれたらいいのに。母さんからメールが来てさ、驚いたよ」
驚きで言葉が詰まった私をそのままに、大石先輩は笑って話しながら、髪で隠れた私の顔を見ようとして、先輩の指先が長い髪へと伸ばされる。
「思いも……しなかった、の？」
静かな室内では、自分の声が思うよりも通った。私の言葉に、大石先輩が伸ばしかけていた指先を止めると、ベッド上へと手を戻してしまった。その動きを見た後、私は膝頭の上へと自分の額を戻す。
年の違う私と先輩は、生活のリズムも違う。
擦れ違う日常で不意に訪れた暇は、先輩に会う幸福な口実の何物でもない。
大石先輩に、いつでも会いたいの。
本当は、いつも先輩と一緒がいいの。
先輩への”好き”を、全て伝えたいの。
それなのに、時間という名の通過点で、先輩を想う気持ちが残されてしまう。
大石先輩に伝わらないまま、伝えられないまま……。
「――ごめん」
ポツリと謝った大石先輩の声音が、心底申し訳なさそうな音を含んでいた。それは、全く思いつかなかったよ、と告げるように響く。
その先輩の声を聞き、私の中で膨らみ過ぎた気持ちが一気に弾けた。体育座りの姿勢を崩し、両手をベッド上へと勢い良く着けた私は、大石先輩と向かい合う。
悔しさで歪む口元で歯を食いしばり、刺すような強い視線で先輩の顔を見据えた。
「”ごめん”じゃ、ないよ！ ……許せない！ 許せないっ！！」
荒れた口調が自分の心の揺れを、更に大きくしていく。
ギュッ、とベッドシーツを両手で握ると同時に、綺麗に整えてもらった前髪が、悲しいほどに揺れて乱れる。
「え……っ？！」
驚愕の顔付きをする大石先輩が、短く声を漏らした。
私が先輩を恋い慕う気持ちを、大石先輩が汲み取ることは無い。
どこまでも交わらない、恋の想い。
こうして向かい合い、言葉を交わさずにいる間にも通り過ぎる、先輩への想い。
募る想いで、いつも大きく傾き過ぎる、恋の天秤。
「……もう、やだぁ〜……」
大きく震えた声が自分の口から零れる音を聞きながら、私は力なく俯いた。
零さないように、零れないように、大切にしていた先輩を慕う想い。
逃げないように、逃がさないように、抱きしめてきた先輩への恋心。
それが今、先輩を想い過ぎる気持ちで溢れてしまった。
頬を伝って静かに零れ始めた透明な雫――涙。
その涙がベッドシーツをも濡らそうと、鼻先から落涙する寸前だった。
必死に、瞬きを堪えてみる。
溢れた想いが、音も無く消えるのが忍びない。
大石先輩を好きな気持ちが、伝えられないまま見えなくなる。
２人の恋の間を―――通り過ぎる。
溢れる想いを捉まえておく事が出来ない。
鼻先を離れた透明の雫が落ちるのを、私は見ていられなかった。瞬きするのと同時に、瞼を閉じた私の前髪を、微かに起こった風が揺らした。
「……ごめん」
俯く私の耳元で優しく響く言葉に顔を上げると、大石先輩の澄んだ瞳と出合った。
まだ続けて溢れる涙をそのままにし、私は大石先輩へと問う。
「どうして……謝るんですか？」
２人の間には、どこか重い空気が漂い始めていた。
大石先輩は、私の顔から目を逸らすと、静かに口を開く。
「分からない……けど……」
申し訳なさそうな大石先輩の表情は、眉間に刻まれる浅い皺からも見て取れた。
私の心の動きを捉えようと、理解しようと……苦しんでくれているの？
先輩が、好き。
その想いが、私を歪ませる。
大好きな人の困る表情でさえ、私には愛しい。
笑った顔も、沈んだ顔も、全部……全部が欲しい。
大石先輩が私へと視線を戻し、重々しい空気の中、更に話す。
「の気持ちに、応えてない俺がいる。そんな気が……したんだ」
この恋は、２人にとって生きていく道での通過点でしかない。
それでも、通り過ぎる時間の中、必死になって想いを交わそうと、足掻いている。
私は、もちろんなんだけど……。
ひょっとしたら、大石先輩も……なの、かな？
傾き過ぎる恋の天秤が、先輩の言葉１つで均衡を保とうとし始める。
「わ、私……先輩が、本当に好き……なんです」
膨らんで弾け飛んだ想いを１つ、また１つと拾い上げるようにして口にするが、震える唇が発する私の声は、消え入りそうなものだった。窓辺の木々の葉擦れの音と、私の声が雑じり合う。
「好き……なん、です……」
言葉にしてみても、やはり想いを伝えるには足りない。
どうしたら良いか、それすらも分からなくて……。
どうしようもなくて、先輩から視線を外した私は俯いた。そして、俯いた先で見つけたのは――先輩の優しい、大きな両手。何かを落とさないように受けようとする、先輩の合わせられた両手が、私の目に映る。
「な……なんで？」
先輩の両手を包むように、私の手が外側から触れた。俯いた私の両目から、パタタ……と続けて流れた雫達が、大きな手の中へと吸い込まれるように落ちていく。
私が想うよりも、ずっと想ってもらってる。
言葉にならない愛情の深さを、言葉に出来ない想いの深さを。
その証拠を、目の当たりにしたような気がしている。
「の流れる涙には、理由があるんだろう？」
床へ膝を着いて座ってる大石先輩が、背を丸めて姿勢を低くし、俯く私の顔を覗きながら尋ねてきた。その両目は、いつもと変わらずに柔らかで、それでいて優しい。それが嬉しくて、心が震える。
私の気付かないところで、私を想ってくれる先輩。
大石先輩が気付かないところで、先輩を想う私。
互いの想いが、静かに重なりを見せる。
何処にも逃がしたくないと思った恋の想いを、大きな優しい手が、大切そうに受けてくれていた。先輩を想う私の想いが零れても、大石先輩の手へと余すことなく移る。
私の想いで湿ったその手が、とても愛しい。
通り過ぎる時間の中でさえ、通じ合おうとする想いがあることを知った。
大石先輩の両手に触れていた自分の手を放し、それから抱えるようにして、再度、先輩の両手を胸元で抱き締める。
「わ、私ね……先輩が、好きなんです。……本当に！」
切羽詰るような声で、必死に伝える大石先輩への恋慕の情。そんな私を静かに見ていた先輩が、困った声を出し、少し笑う。
「可笑しな奴だな、は。……そう何度も言われると、何だか怖いぞ？」
自分の胸元で抱き締めていた先輩の両手を放し、その代わりに、先輩の首元へと両手を伸ばした。私の両手が先輩の首元へ届き、両腕が絡まると、先輩の息遣いが聞こえる距離に、心が安らぎを覚える。先輩の首すじに、自分の額を静かに押し当てた。
「お前に何度も好きだって言われると、何だか……胸が苦しくなるよ」
言葉を発した大石先輩の上下する咽喉の動きが、私の目の前で見える。
「……え？ ど、どうして……ですか？」
大石先輩の言葉を、私は不思議な気持ちで聞いていた。
告げた想いを知れば知るほど、その重さを感じ取るとでも、大石先輩は言うのかな……？
考え事をしていた私を抱え直した大石先輩が、少し沈んだ表情を見せて話す。
「何処へも行かないはずのが、何処にもいなくなるような気がして……さ」
首筋に引っ付いていた私は、そこから離れ、大石先輩の目を見た。先輩の涼しげな目元が、愁いを帯びているように感じられた。
「何処にも……いなくなる？」
そんなこと、あるはずないのに……。
私が置き去りになることはあっても、何処かに行くなんてことはないのに。
私の目を見詰め、大石先輩が話を続ける。
「あぁ。がさ、自分の想いを……俺へ全て預けようとしてるみたいでさ」
「…………」
……気付いてたんだ。
大石先輩を想う気持ちを、全部伝えたかったことに。
それを、あまりにも必死に伝えようとした私だったから、かえって、大石先輩を悩ませてしまったんだね。
お月様の光のような柔らかな笑みを見せた大石先輩が、私の乾ききらない目元を、親指の腹でゆっくりと拭うと、床上で膝立ちする姿勢を止め、ベッド上へと腰を降ろした。
「の目から零れる涙にさえ、訳があると思うと……いつもみたいに拭う気になれなかった。……でも、そのまま涙を零させたらいけない気もしてた」
私の想いを、先輩の両手が受けようとしたのは、そう思ったからなんだ。
大石先輩の言葉に、私は胸の内で納得した。
揺れて乱れた私の前髪に気付いた大石先輩が、そっと前髪に触れ、乱れを整える。髪を優しく梳く手は、お前を大事に想っているよ、と語るように動いている。
「好意を表すのは、言葉でなくても……大丈夫なんだぞ？」
大石先輩はそう言い終えると、私の前髪をポンポンと軽く叩き、前髪が整った合図をくれた。
「言葉じゃなくても……？」
小首を傾げて問う私を、大石先輩が微笑みを浮かべて見下ろす。
「あぁ。大切な想いは、想い合うだけでも通じるもんなんだよ、」
想い合うだけで、通じる――。
大石先輩の言葉、今なら解る気がする。
私の伝えたい想いを、ちゃんと受け取ろうとしてくれた大石先輩の手をさっき見たから……。
それを何度も繰り返していけば、通り過ぎる時間に怯えることはないんだね。
時間が通り過ぎても、いつも想いは繋がっているから。
「……いつも、通じてますか？」
大石先輩の目を覗き込むようにして尋ねると、大石先輩は賢しげな目を細め、柔らかな表情を見せてくれる。その表情は、いつも私を安心させてくれる笑顔。
「いつだって通じてるさ。お前が”通じてる”って信じるならな」
真っ直ぐな視線で私を見詰める双眸が、室内灯の光を含んで揺れる。自信を持たせようとする力強い口調を、私は嬉しく思った。
無条件で信じてくれる大石先輩が、好き。
とっても、とっても……。
「大石先輩！ ……私、先輩が……好きです！！」
私は近くにある大石先輩の身体に両手を勢い良く回し、ギュッと抱き締める。
「なっ？！ ……お、お前っ！ 俺の言ってること、解ってるのか？！」
驚きの声を上げて一瞬固まったが、一拍置いて、状況を判断した大石先輩は、急速に顔を赤らめて叫んだ。ギュッと両手に抱き締めた先輩を放す気なんて、私には無い。大石先輩を抱き締めたままで、話を続ける。
「本当に好き。先輩が好きだから……。全部……欲しいって、心が泣くの」
私と先輩の想いが、互いに繋がっているって思いたい。
でも、それだけじゃ……やっぱり駄目みたい。
贅沢な私は、想い合うだけじゃ足りないの。
先輩の温もりを、知っているから……。
この腕の中の安らぎも、熱い眼差しも、言葉以上のものを語る優しい唇も。
大石先輩の胸元へと頬を寄せた私は、それをギュッと押し当てる。
ドクン、ドクン――。
規則正しく脈打つ胸の音までも、大石先輩らしく思えた。
「……お前……」
大石先輩が少し身動ぎをし、不安げな声を絞り出してポツリと呟く。その声を聞いた私はハッとし、大石先輩の胸元から、慌てて頬を離した。
「あの……っ！ 判ってるんですよ！ 先輩が困るのは……判ってるんです」
私は、言葉を口にした後、気まずさに俯き加減になった。
これじゃ、大石先輩に負担をかけちゃうよね。
でもね、理屈は理解してるんだよ？
だから、今は通じ合ってるって、思える。
それでも、日常は擦れ違いが多くて、いつも一緒に居られないから、先輩の温もりが欲しくなるの。
好きだって想う愛情を注がれたいし、注ぎたいよ……。
直ぐに通り過ぎてしまう刹那的な時間だからこそ、密な時間を過ごしたい。
想いを確かめ合いたいって、思うの……。
こうしている間にも……ほら、時間が―――通り過ぎるから。
また、恋の天秤が大きく揺れ、傾き出す。
「……」
そんな顔するなよ、と言いたげな大石先輩が、私の名を口にする。
「我儘が過ぎるって、自分でも思ってます！ でも―――」
途中まで言いかけたが、私は口を閉ざし、俯いた。思ったよりも強い口調で言葉を吐き出した私の肩を、大石先輩の手がグッと力強く掴んだ。
「！」
いい加減にしないか、と言いたげな怒気を含んだ大石先輩の声音。その声の強さに、私は眉間にギュッと皺を寄せ、瞼を閉じて首を竦めた。
こんなことじゃ、大石先輩に厭きられてしまう……。
でも……私……。
大石先輩の胸元に手をあてた私は、シャツを軽く掴み、気を落ち着かせようとしてみる。
「時間の過ぎるのが早くて、切なくて……。先輩を想う気持ちが、取り残されて……」
もう、どうしたら良いのかが判らない。
恋の天秤は、大きく振れて、更に傾く。
まるで、警告をしているかのように……。
私の恋の想いは、大石先輩には重過ぎる―――。
「”好き”を伝えられないで、時間が通り過ぎるのが……怖い」
先輩のシャツを掴んだ私の手が、僅かに震える。
「…………」
大石先輩が黙ったまま、私を見ている。その視線を感じながら、私は続けて話す。
「先輩に会えて嬉しい気持ちも、優しく触れられるのも好きなのに、それを全部伝えられずに時間が過ぎてしまうから、焦っちゃうの……それだけ、なんです」
話し終えた私は、大石先輩のシャツを掴んでいた手を放し、眉を寄せ、弱々しく笑って見せた。
伝えたいことを伝えられないことに、焦ってしまう。
時間は本当に過ぎるのが早くて、想いが取り残されてしまう。
大好きなこと、余すことなく……全て伝えたいのに。
私のことを想う先輩の全ても、伝えて欲しいのに。
思い通りに伝えられないもどかしさが、心を泣かせる。
どうにもならない気持ちを無理矢理抑えようと、私はベッドシーツを強く握った。白いシーツに、ハッキリとした皺が刻まれている。
「焦ることなんか、無いだろう？ それに、全部……お前のものだよ、」
焦りを感じている私を、優しく諭すように言う大石先輩。項垂れた私の身体を、大石先輩の両腕がやんわりと包み込む。ゆっくりと抱き寄せられ、私は顔を上げた。
「せ、先輩……」
顔を上げた私の目を見詰めた後、優しく目を細めた大石先輩が、私の頭へと頬を寄せて口を開く。
「会えた日も、会えない日も……いつも想ってるんだからな？」
私の旋毛に頬を寄せているらしく、大石先輩が話す度に、温かい息がかかる。優しい声が、私の上から降って来るように感じていた。
「ありがとう……大石先輩」
子供をあやすような優しい手付きで、私の背を撫でてくれる大石先輩に、全てを預けるように身体を寄せた。重た過ぎる先輩への恋の想いに、大石先輩が同じ分だけの想いをのせてくれたから、大きく傾き過ぎた恋の天秤が、また均衡を静かに保ち始める。
静かな部屋では、エアーポンプのポコポコという音と、窓辺の葉擦れの音が優しく響き続けていた。
しばらく、じっとしていた大石先輩と私だけど、しん、とする部屋で、大石先輩が抱いていた私を身体から離し、ゴホンと１つ咳払いをして話し出す。
「……その、さ。……あぁ、まぁ……」
どこか話し難そうに、大石先輩が口をモゴモゴとさせる。
「……どうかしましたか？」
大石先輩の歯切れの悪いの訳を、私は訝しげな顔で尋ねた。
「えっと……さっきの眠り姫が目を覚ます方法の話の時だけど、さ」
少し俯き加減になった大石先輩が、視線をチラリと私へ送ってくる。私の目には、大石先輩が落ち着きなく見えた。訳が分からず、私はきょとんとして大石先輩へと尋ねる。
「ねぇ、大石先輩……？」
少し戸惑う表情をした大石先輩が、右手で鼻先を軽く擦ると、今度はその手で首の後ろを掻き始めた。
「本当は、ちょっと……キス、しようか迷ったんだ……」
思いもよらない大石先輩の言葉に、私は大きな目を、更に見開いた。ビックリ顔のままで、私は大きな驚きの声を上げる。
「……え？ ……えぇ〜〜ッ？！！」
「ご、ごめん。……その、自信が無かったんだよ、うん」
１人納得するように頷いた大石先輩が、私を見る。ほんのりと染まり出した大石先輩の両頬を、私はまじまじと見詰めていた。
「自信……ですか？」
問いかけた私へと少し困って笑う大石先輩の眉が、ゆるい八の字を書く。
「あぁ、キスで終わる自信がな。その、寝起きを襲うなんて……狡いだろう？」
眉の下がった情けない表情を見せる大石先輩。大石先輩の表情を目の前にして、私は吹き出す。
「確かに、寝起きですけどね。ふふっ……あはは！」
お腹を抱えて笑う私の頭に、大きな手がのせられた。その手の持ち主が、私の頭を優しく撫でて言う。
「その……鼻を摘まんで悪かったな、。ごめん！」
「あ〜！ アレ、痛かったですよ！ 涙出ちゃうぐらいですもん！！」
すっかり忘れていた事を思い出した私は笑いを収めると、口を尖らせて見せ、大石先輩へと身体をずいっと押し出し、軽い抗議をした。
「そ、そうだよな……。ちょっと、お仕置きが過ぎたって反省してるよ」
私の近付く勢いに負けたらしく、完全に引き気味な姿勢で大石先輩が謝る。いかにも申し訳なさそうにベッドへ腰掛けている大石先輩を目の前にし、私の悪戯心が疼き出した。全然怒っても無いのに、私は怒ったような顔をして見せ、勢い良く言い放つ。
「タダじゃ、許せません。……えぇ、許しませんよッ！！」
そう言い切った後、両手を胸の前に組み、プイッと明後日の方を向いた。私の言動に、心底驚いた顔をするのは、大石先輩だった。優しい大石先輩は、相変わらず、私のこんな悪戯にちゃんと引っかかる。
「えっ？！ ……じゃ、じゃあ……？」
ベッド上へ両手を着き、前傾姿勢になる大石先輩が、オロオロしながら言う。
「今こそ、常套手段を……使うモンじゃないですか？」
明後日の方を見ていた私は、大石先輩と距離を詰めて向かい合うように座り直し、ニッコリと笑って首を傾けた。
「……？？？」
きょとんとした大石先輩の顔には、”解りません”の文字がクッキリと書かれているみたい。真面目な大石先輩の、１番苦手な恋愛科目は、やはり乙女心らしい。
「も〜ぅ、”女の子がイチコロの方法”ですよ！」
私よりも恋愛に疎い大石先輩の唇に、自分の人差し指を、エイッ！と勢い良く押し付けて話した。両手をベッドに着いた姿勢で、賢しげな双眸を大きく見開いた大石先輩が、少し間をおいた後、左右へと落ち着きなく目を泳がせ、何やら考えている。そんな大石先輩が出す答えを楽しみにしつつ、私は先輩の顔をじっと見詰めた。
どうやら考え事がまとまった大石先輩は、私の顔をチラッと見ると、ベッド上へ置いていた両手を、私の肩上へと移す。
「えっと……ひょっとして、コレ……かな？」
自信なさげにそう言った先輩の唇が、私の唇を素早く盗んだ。軽く触れ合った唇達が、可愛らしくチュッと音を立てる。大石先輩と目が合うと、ちょっぴり照れ笑いをしてしまった。
「はい、ご名答〜♪」
私は照れ隠しに、元気な声を出して言ってみた。
本当のところ、もう少し長くてもいいのになぁ〜……なんちゃって！
短くても、充分！嬉しいもんね♪
でも……。
やっぱり、もう少しチュウしたいかなぁ……。
乙女心というものは、意外と複雑に出来ているみたい。
互いに照れてはいるものの、思ったよりも良い雰囲気。２人だけの室内だというのに、耳打ちするような声で大石先輩へと、こっそり尋ねた。
「その……これから先は、どうします？」
私より高い位置にある大石先輩の目を覗く。すると、大石先輩は悩むように小首を傾げ、私へと問い返す。
「この先は、いつも通り……でしかないけど、どうだろう？」
大石先輩が顔を覗き込むように、私の答えを待っている。時間を持て余すせいなのか、大きな手の指先が私の前髪へ静かに触れ、ゆるりと戯れる。その動きを、私は目で追って考えていた。
いつも通り、ということは……。
そのぉ〜、いつもの展開……というコト、だよね？
……う、うぅ〜〜〜……。
こ、心の葛藤というか、準備が……。
スー、ハー、と深い呼吸をした私は、大石先輩をチラリと見て口を開く。
「じゃあ……それで、お願いします」
あまりの気恥ずかしさを覚え、私は大石先輩から目を逸らし、俯いて答えた。
私の答えに了承する大石先輩が、私の前髪を梳き、額へと口付ける。自分の額へ貰った先輩からの口付けで、私は途端に大人しくなってしまう。そんな私の様子を笑った大石先輩の口元から覗く八重歯を見た後、私も先輩へ笑いかけ、ベッドシーツ上へと、じゃれ合うように一緒に転がった。
――このまま、時が止まればいい。
いつも、そう思う。
抱き合えば、抱き合うほど近付くから……。
交わす視線、触れる熱、包まれる心地よさ。
言葉も、想いも、今は充分なほど伝わる。
全てが、鼓動から響いてくるから――……。
波打つベッドシーツが視界の端に映り、その向こうには、大石先輩の愛魚が棲むガラスの城が見えていた。鮮やかに泳ぐ熱帯魚達。それらと同じように、私も先輩の手で、布の波上で泳がされている。
熱のこもった呼吸が荒くなりだした私の足先が、ふるっ、と揺れた。それに気付いた大石先輩が、私の足首を掴むと、そのまま上へと上げ、太腿の内側を先輩の唇がゆっくりと滑る。
ゆるゆると動く唇が、肌をなぞっていく。その動きに合わせ、私の秘部を侵蝕するように、大石先輩の指先が焦らすようにし、蠢いていた。優しく撫でるように引いては、突き刺すように奥へと挿し込むのを、繰り返す。
与えられる快楽に身を委ねようとしていた私は、ある事を思い出した。
……ちょっと……ま、待ってよ……？
大石先輩とこんなコトしてるけど、確か下には……。
――マズイよッ！！！
先輩のお母さん、居てたんじゃないの〜〜っ？！！
ちゅぷ……っ、と湿った水音が聞こえ始め、私は下唇を噛んで声が漏れないように、必死に我慢していた。
「……ん……っ……ぁ……ん、んっ！」
イヤイヤというように首を振り出した私を、気に留めた大石先輩が、太腿から唇を離し、私の顔を覗き込んできた。
「、どうかしたのか？ 止めるか？」
私の身体の入り口で出し入れされる先輩の指が、速度を落としながらも、膣内の領域を確実に侵し続けている。その艶かしい動きを求めるように、僅かながらも揺れ始める私の腰。精一杯、理性を掻き集めた私は、大石先輩の指先の侵蝕を、両手で阻んで言う。
「……ダ……メ、こ、声……が、で、出ちゃ……うっ……ッ！」
そして、はぁ……と溜息にも似た声を漏らして、大石先輩へ視線を送ってみた。
「……気にしなくていい」
少し口元を緩ませ、優しげに笑って見せた大石先輩はそう言い、私の小さな丘を片手で触れると、その頂を舌先で触れ始めた。今まで触れていた入り口から指先を少し外すと、膨らんだ小さな花芯へと移し、その代わりに、充分に潤ったそこへ大石先輩から熱の塊を宛がわれた。
「気にする……ッ！ ……ん、ぁ、ぁ……ああぁ……！！」
優しく、時には荒く、律動するモノの強さに、私の理性が弾けた。出すまいとしていた声さえ、濡れた営みの音と相俟って、室内で甲高く響く。私は傍に在る身体を必死に抱き締めたが、いとも容易く、打ち寄せる快楽の波に呑まれてしまった。
窓の外では、木々の葉擦れの音が、相も変わらずカサカサと鳴っている。
風と戯れる葉の音が、涼しさを漂わせていた。
大石先輩と仲良しの証を交わした後、私の理性がスッカリ目覚めていた。
「……ど、どうしよう！ もうダメ！！」
顔が若干青ざめた私は、ベッド上で掛け布団を頭から被る。
「何がそんなにダメなんだ？」
落ち着いた顔の大石先輩が、私の潜った掛け布団を軽く捲る。捲られたお陰で、私の額が室内灯の下に晒された。
今日の大石先輩は……諸悪の根源だよ〜！
あぁ、恥ずかしい〜！
今日に限って、私ってば、あんな大きな声を！！
”何してたの？！”って怒られたら、どうしよ〜〜？！
掛け布団を抱き締め、悶えるように右往左往と転がる私を見て、大石先輩が困ったように笑う。
「その……声って、そんなに気になるもんなのか？」
何かを思い返すように話した大石先輩が、掛け布団からはみ出た私の額に優しく触れた。優しく触れるその手で、優しく苛められたと思うと、何だか、今は余計に腹が立つ。私は掛け布団を一気に放り出すようにして、ベッド上へと起き上がった。
「だって、大石先輩！ 下に、先輩のお母さんが居てるじゃないですか！！」
一気に捲し立てて言い、さらには大石先輩のシャツの胸元を掴んで揺らす。
「……え？ ……居てないぞ？ 晩まで出掛けてるから」
首をガクガクと揺らしながら、目を白黒させた大石先輩が懸命に話す。どうにかして、苦しさから解放されたいらしく、シャツを掴む私の手に、先輩の手が触れた。
「……はい？……」
怒りにまかせ、揺さ振っていた大石先輩のシャツを掴んでいた手を緩める。そして、大石先輩の話を、脳内で反芻してみる。
……今、居てないって……言った？？
”出掛けた”って……言ったよね？！
それを理解出来た途端、私の目が一気に点となった。
急に大人しくなった私の理由を、大石先輩が推し測る。天井を見詰めるような仕草で、思い当たるフシを探していた大石先輩が、何かピンときたような表情をしてみせた。
「待ってくれよ、まさか……お前……。……ぷっ」
大石先輩はチラリと上目遣いをして私を見ると、片手で口元を覆う。途切れ途切れに話す声が、先輩の肩と一緒に震え出している。
「……もおぉぉ〜〜〜っ！ ヒド〜〜イ！！！」
笑い出す大石先輩の目の前で両手を振り上げ、怒る私の顔は赤いだろう。
よくよく考えれば、大石先輩がスリル感たっぷりの状況下で、男女の営みを行うようなタイプではないと気付かないといけなかったのは、私かぁ……。
「あはは、ごめん！ お前の昼寝中に、外出したんだよ」
悪びれることなく大笑いした大石先輩が、笑いを収め、事情を教えてくれた。何だか悔しいのと、恥ずかしさで一杯になった私は、口を小さく尖らせ、先輩を軽く睨む。
「むぅ〜〜ッ……」
「そんなに怒るなよ、。……な？」
膨れっ面の私の頭を、大きな右手が優しく撫でると、困り顔で笑う大石先輩が私の顔を覗き込む。
「……大石先輩だけ、ズルイよ……」
ぶーたれた口調でポツリと言った私は、左手で拳を握り、先輩の胸元を目がけ、ぽすん、と軽いパンチをお見舞いした。そんな私を見下ろす大石先輩は、頭を優しく撫でてくれた手を止めると、私の額をぺチリと軽く叩く。
「我慢できない、って顔で俺を煽ったのは、お前だろう」
ほんのりと頬を上気させた大石先輩が、私から視線を外すと、目を泳がせた。
「納得いきませ〜ん！」
大石先輩の言葉が面白くない私は、異議を唱える。横目で私を捉えた大石先輩が、上体をグッと傾かせ、私へと近付いた。今にも唇が触れそうな距離で、大石先輩が囁く。
「それじゃ、コレで。……許してもらえませんか、サン？」
首を傾けた大石先輩が、私の上唇を軽く吸い、その後、唇をなぞる様に滑り、酷く悩ましい気分にさせる口付けをくれた。
……さすが、学年一の秀才は違う。
１度習った乙女心のツボは、習得済みらしい。
唇をゆっくりと離された私は、大石先輩にちょっぴり負けた気がした。
「……ダメ、です」
今のキスで、ウットリしてしまった自分を覚らせまいと、唇を尖らせて呟く。
「なっ！？ ダメなのか！？」
何気に自信があったのか、私の駄目出しに、思いっきり目を見開くと、大石先輩が心底驚きに満ちた声を上げた。大石先輩の様子に、私は茶目っ気たっぷりな表情をして見せて話す。
「まだ足りません。だから……あと、もう少しだけ」
ふふっ、と小さく笑い、私は瞼を静かに閉じる。
これは、大好きな人への、ちょっとしたおねだり。
部屋に響くのは、置時計のカチカチと鳴る秒針の二重奏。
「何だ……成る程、な。……解ったよ、」
瞼を閉じた私を目の前にした大石先輩は、どうやら事情が呑み込めたらしい。安堵した声を出し、私へと答えると、ギシリ……とベッドが軋んだ。
ゆるく掴まれた私の肩が先輩のほうへと引き寄せられると、唇を湿らす吐息がかかる。唇に触れる想いの熱を伝え合うように、時間の中を漂いながら、優しい口付けを交わし続けた。
時間はすぐに通り過ぎるから。
通り過ぎる前に、2人の恋の想いを綴ろう。
あれも、これも、それすらも―――。
全てが……恋の、通過点。
過去も、現在も、未来でさえも、時間はいつも去り行くから。
だから、一瞬であっても、繋がるように想い合おう。
通り過ぎる前に
ありったけの思いの丈を、大好きな人へ――と。
【END】