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コツン、コツン――。
落ちては１つ、また１つ、恋を奏でる石の音。
目には映らぬ、仕切り箱。
箱の中では、揺れて揺られて増える石。
相互愛慕の証明は――相惚示す、想い石。
バラバラバラ――。
落ちては広がる恋の石、転がり広がる愛の音。
恋を仕舞える、仕切り箱。
箱の中には、等しく分け与えられた自陣の地。
相思相愛の証明は――同等数の、想い石。
等しく埋めろ、自陣の地。
等しくつり合え、想い石。
箱の境目、国境――越境されず、つり合うか。
国破れて、山河在り。
自陣敗れても、相惚の恋は在り――という感じ。
国が滅んでも自然は滅ばず、その姿を残す。
そして、相手を慕う自分の恋の想いが、相手のものより多くても、少なくても、そこには両想いの２人の恋が、必ず存在するということ。良く知ってそうで全く知らなかった。そう、何１つ――私は、それを解ってなかった。
私の名は――。
大学受験を来年に控えた私は、現在、高校３年生。学生の領分という学業と部活動においては、文武両道を猛進中だ。それから、”学年一の秀才”と謳われた２学年上の大石秀一郎という先輩と恋仲になって、早４年。現在も、２人して恋愛街道を日々邁進中――。
恋に疎いもの同士の恋愛は、傍目から見ても随分とのんびり気味らしく、大石先輩の同輩達からは、”２人は微笑ましい”という曖昧な賞賛を頂く事が、未だに多い。しかし、私からすれば、どこのあたりが”微笑ましい”と呼べるものなのか、未だ見当が付かなかった。恋愛の香りを気にも留めない純朴さが売りの大石先輩は、どこか難攻不落な城塞に似ている。時折、”恋って、何ですか？”と、本人を目の前にし、問い質したくなるぐらいに――。
生真面目な恋人を具現化したような、２つの置時計の秒針が規則正しい音を奏でていた。その間を縫うように起こる控えめな水のせせらぎは、大きな水槽に設置されたエアポンプの空気の送りによるもの。壁に掛かるフレームに目を向ければ、ラッセンのイラストで海底気分を楽しめる。この室内の居心地の好さは、世界中の何処よりも群を抜いていた。なぜならば、私にとって楽園さながらのここは――世界中で１番大好きな恋人の自室だから、だ。
「ふわあぁぁ〜……」
エアコンの効きの良さに加え、癒しの音効果が抜群なこの室内。居心地の好さに忘れがちになるが、欠伸を漏らす私は、実に退屈していた。休日前の金曜日。今宵の時計の針は――午後１０時１０分を指し示す。床上に大の字で転がる私は、部屋の主の姿を探した。好奇心の強い双眸で、ぐるり、と室内を見渡せば、勉強机へと向かいっぱなしで、大学の課題を辞書片手に奮闘中の大石先輩の姿が見える。かれこれ、１時間近くになるだろうか。もう暫くは、課題に手を取られてそうな恋人の背中を、つまらなく思いながら、私は眺めていた。
……折角の週末なのになぁ〜。
思いの外、大学生って忙しいもんなのかな？
何だか、つまんないの……。
暇潰しにと買い込んだファッション雑誌に、私は目を通し終えていた。可愛い夏物の服や少し早い水着の特集は、乙女に楽しいものばかり。しかし、乙女事情に少し疎い大石先輩が見れば、赤い顔して目を剥きそうな肌の露出度の高さではあった。２人で仲良く雑誌を覗けば、さぞ、会話が弾んだ事だろう。しかし、この部屋の主は、残念な事にそれどころでは無かった。大石先輩は、机上で辞書片手に、未だ溜息を零しているぐらいなのだから――。
持参した半袖パジャマの襟を立て、私はそこの香りを嗅ぐ。越前家の洗濯洗剤のフローラルの香りに癒されながら、自分の存在を忘れ去ってそうな恋人への報復を、私は暇潰しに考えて始めていた。
そろそろ、こっちを向いてくれても良いと思うんだけどなぁ……？
こっち向いたら、机に目を向けさせないように作戦を立てなきゃ！！
でも、大石先輩の度肝を抜くようなものって……なんだろう？
……うぅ〜〜ん？
タオル生地で吸水性の高い半袖パジャマは、私にとって肌触りが心地好いものだった。その生地の裾を両手で挟み、スリスリと擦り合わせてみたり、握ってみたりを繰り返す。そこで、ふと、私は思いついた。
――あ、そうだ！
大石先輩には、これしか無いよね？
……”お色気ムンムン作戦”ってヤツ〜♪
ムフッ、と声無く笑み、私は襟首の少し広く開くように、半袖パジャマの１番上のボタンを静かに外し、それをイタズラ作戦の開始合図とする。あとは、獲物が掛かるのを待つだけ、だ。私の存在を無視するかのように、課題と格闘する大石先輩の驚愕顔を思い浮かべ、私はワクワクとしていた。
大石先輩が机上へと無造作に辞書を置き、両手を天井へと突き上げると、途端、椅子の上で背を伸ばす。ギィ、と金属音が微かに響いた。それにより、ちょっとエッチなイタズラを思いついた私に、お色気ムンムン作戦を試す機会が、早々にしてやってきた事を知る。大の字になっていた床上から上体を起こし、私は大石先輩が座る学習机の方へ身体を向け、女の子座りをした。この際、両手を床マットの上に着き、出来るだけ二の腕で胸の肉を寄せてみる。意外と苦しい格好だ。椅子が９０度回転すると、大石先輩が椅子からお尻を上げた。苦しい体勢を我慢して保持しつつ、私は恋人へと声をかける。
「大石先輩、宿題は終わりですか？」
「いや、あと少しかかるけど……」
短い会話の遣り取り。大石先輩は、答えながら勉強机の右隣に並ぶ本棚へと腰を折った姿勢で、こちらを見ずに答えた。何て事だろうか。”これだと作戦失敗じゃん！”――と、私が思った瞬間に、恋人が不意に顔をこちらへと向ける。目が合ったと私が気付いた直後には、恋人の視線が外れた。その目の動きを追ったところで、大石先輩が本棚から離れ、私の方へ近付く。恋人の右手の先が、私の胸元にゆっくりと伸びた。トン、と肌上に軽い打ちを感じた私は、大石先輩の右手の先を見下ろす。
「。お前……ボタンが外れてるぞ？」
「へ？ あ、ホント。……アハハ！」
「仕方の無い奴だな。風邪引くぞ？」
私の少し肌蹴た胸元の肌上を跳ねた指先が、アッと言う間に其処から素直に離れた。それを見下ろしていた私は、”それだけ？”――と、思わず唸りそうになってしまう。私の”艶めかしいはずの姿”が、どうしてか、単なる”おっちょこちょいの姿”に早変わり。仕方が無いので、お色気作戦失敗を悟り、私は言葉少なく答えて笑う。そんな私に、大石先輩は幼い子でも見るような優しい眼を見せて笑うと、私へと背を向け、本棚から他の辞典を取り出した後、再び、机の前へ向かっていた。
……え〜〜っと？
私のお色気には……”全く興味が無い”、と？
私じゃ、”色気ムンムンなど程遠い”……と、言いたいの？
な、なんて失礼な恋人……っ！！
顔を引き攣らせたまま笑い続ける私は、ついでに首も傾げてみた。この際、胸の貧相さと、色気の足りなさは、全て擲って棚上げだ。私の色気の有無の前に、大石先輩の思考回路に問題があるのではないかと疑問視しつつ、私は半袖パジャマの１番上のボタンをしっかりと留め直す。無駄な努力は水に流し、次の作戦を練る事にした。さすが難攻不落な城塞。身持ちの固さは、鉄板級の大石先輩だった。こうなったら、捨て身の戦法しか無い。そう、大学の課題を確実に邪魔出来る方法。そう、”ベッタリと甘える”――これしか無い。
ここまできたら……甘えっ子の常套手段、使うっきゃないよね？
直接邪魔する場合は、やっぱりコレだよね！
ぺったり、ベタベタな――”引っ付き虫”！！
何があっても、絶対に……引っ付いてみせるもんねッ！！
”よぉ〜し！”――と、私は大石先輩の座る机から背を向け、密かに気合いを入れ直す。そして、力一杯に握った両手の拳へと誓いを立てた。拳を握ったままで、チラリと右肩越しに恋人を見れば、辞書を片手に苦心しているようで、こちらの悪巧みには一切気付いていない。私は声も無く、ただニンマリと笑った。
忍び足で大石先輩の背後に近寄った私は、念の為に恋人の状況を探る。広い背中の肩越しから机上を覗き込むと、辞書を２冊広げたまま、丁度、筆が止まっている。大石先輩は何かを考えているらしく、利き手にペンを握った姿で、何処からとも無く地を這うような唸り声を漏らした。その声が途切れないうちに、”えいっ！”と勢い良く恋人の身体に両手を巻き付け、私は広い背中へと引っ付く。
「大石先輩！ 何か困ってます？」
「ん？ ……まぁ、少しだけな」
「それなら、息抜きします？ 下で、お茶ぐらい淹れてきますよ？」
「いや、良いよ。これが終わったら、風呂入るついでに台所へ寄るし」
「そうですか……」
長年夫婦のような会話は、呆気無く終了した。これで何が盛り上がると言えるのか。大石先輩に抱きついたままで、私は何とも面白くない気持ちになり、机上の辞書達を憎き敵のように睨み下ろした。そんな私の両手を、大石先輩は両手で触れ、そこをポンポンと跳ねるように撫でた。それは、大石先輩流の”放して欲しい”の合図だ。それを知ってる以上、慣れた体温を手放すしか無い。ちょっぴり惜しい気持ちを含みながら、私は両手を開いた。
あーぁ、コレでもダメかぁ〜……。
唸るぐらいなら、少しは息抜きすれば良いじゃんよ！
……ホント、良く解んない。
大石先輩は、私を犬の仔か何かと勘違いしているのだろうか。恋人の相手が出来ないというのならば、”キス１つで、私を大人しく待たす”方法を、思いつかないものだろうか。正直、甘さの足りなさに、私の溜息が漏れる。一般青年を手っ取り早くオトす方法を選択したはずなのに、どうも勝手が違ったらしい。恋人の私ですら難攻不落である大石先輩の心の城塞とは、一体、どんな作りなのか。私の想像力では、それを思い描く事自体、困難を極めた。”考えるだけ無駄”――と、私は早々に割り切る事にする。
作戦も全て失敗に終わり、暇になった私は、大石先輩の愛用するベッドの上へと、大の字で寝転がった。夏用の掛け布団を足元へと追いやり、ベッドシーツの上に身を落とす。すると、わしゃり、と俄かに騒がしい衣擦れの音が起きた。だが、この部屋に存在するものは何１つ、私の行動を咎め無い。この際、居心地の好さを最大限に活かす事にし、私は大石先輩の存在を胸の内から放り出す事にした。
大石先輩って、ホント……訳が解んない反応するよね。
男の人にしては……ちょっと変わってる？
……うん。
かなり、変わってるよね……。
ごろん、と壁側へと向いた私は横臥の姿勢で白壁を睨む。胸の内から恋人の存在を放り出すにしても、作戦失敗は、それなりに悔しい。恋人というのは、特別な存在の位置付けにも係わらず、大石先輩に軽くあしらわれた私は、この有様。こんな時、いつも思う。”恋の陣取り合戦は、自陣を多くした方が負けなのだ”――と。
相思相愛の恋には、恋の想いを仕舞える左右対称の仕切り箱が、恋する２人の間に１つ存在する。その箱の内側には、仕切られたスペースが存在し、互いが相手を想う恋の欠片という名の”想い石”を置けるのだ。ただ、その想い石は熱を持っており、少しばかり厄介な代物。出し惜しむと恋は冷え、多く出し過ぎれば、相思相愛の恋が片恋に成り下がる。恋愛の醍醐味は、恋の匙加減の難しさ――という訳だ。箱の真ん中を境にし、温めた想い石を互いに均等配置出来る恋こそが、本当の意味で、”相思相愛の恋”と呼べる。これは恋に纏わる、一種の”国盗り物語”――と譬えられるものだろう。
恋の理想形を目指し、恋愛バランスをとる為には、時に策を弄す事も必要なのだ。しかし、それは互いが恋の香りを感知出来なければ、意味が無い。そう、大石先輩のように恋に疎い純朴青年には、あまり効果が出ないらしく、逆に、策を弄すだけ無駄骨折で終わるらしい。今、それを私は学んだばかりだった。
また、私の想い石だけが……１つ、増えた。
このままじゃ、私の想い石ばっかりが増えちゃうよ。
２人の恋が仕舞える箱は、シンメトリーの形をしてるのに……。
私の胸の内で冷え切ったモノが、コツンと落ちる音が響く。自分の目に映らなければ、手にも取れないモノではあった。それでも、冷えて落ちたモノの存在が何なのか、私には解ってしまう。ほんの少し、それが悲しかった。
横臥の姿勢から伏臥に変えた私は、大石先輩がいつも使っている枕を右手で手繰り寄せ、そこへと頭を乗せる。コテン、と頭を置いた途端、フワリ、と大石先輩の香りがした。私に悔しい思いをさせた張本人の香り。憎いぐらいの香りだが、同時に、私の人恋しさを深くさせた。枕に顔を伏せ、そこでワシャワシャと音を立てながら顔を左右に振っては、額を枕に擦り付ける。ヒリヒリとする感覚を額に感じたまま、瞼を下ろした私は、恋人の寝具に残る香りを胸一杯に吸い込んだ。
カチ、コチ、カチ、コチ――と、２つの置時計が規則正しい秒針運びの音を響かせる。その合間を縫うように、ギィ、と蝶番の軋む音が響いた。重い瞼を押し上げようとする私の上が急に陰ると、途端、ふわりとした柔らかな物が身体の上へと舞い降りる。冷房が効く部屋で、私は何とも言い難い心地好い温かさに包まれた。上げようとしていた瞼を、再び、とろりと下ろす。その私の様子を笑った誰かの声が、エアコンの送風音と混じって微かに聞こえた気がしたのだった。
モゾモゾと寝返った私は、まだ少し重い瞼を覚醒した意識で持ち上げる。カッ、と双眸を見開けば、私の目には白い天井が映った。先程まで伏臥姿だったのを思い出した私は、ベッド上へと両手を着いた姿勢で、上体を勢いつけて起こす。すると、私の左側のベッド脇に見慣れた短髪の丸い後頭部が見えた。
「お、大石先輩……」
「……ん？ 、起きたのか？」
「え？ ……私、起きてませんでした？」
「、寝てたぞ。覗き込んでも全く起きそうになかったしな」
「あ、そうなんだ……っていうか、大石先輩の格好って――」
「あぁ、パジャマだよ。さっき、風呂には入ったところなんだ」
”一体、今……何時なの？”――と思った私は、背後に在るベッド棚の上に鎮座する２つの置時計へと視線を向けた。時計の長針が、先程の時間を軽く１周しているのを、一目で気付く。時計の長短の針は、今、午後１１時３０分を指し示していた。私は背後を振り向いたまま、あんぐりと口を開けると、驚く私を可笑しそうに笑った大石先輩が話し出す。
「変な時間に寝たから、余計に目が冴えるんじゃないか？」
「はぁ、まぁ……そうなりそうですけど」
「。目が覚めて、咽喉が渇いただろう？ お茶なら、あるぞ」
「あ、はい。頂きます」
「はい、どうぞ」と、大石先輩が愛用するマグカップを差し出され、私は礼を述べ、それを受け取って唇を寄せた。お茶を飲む私の様子を、大石先輩は黙って眺めている。私は視線を気にせず、少し温い麦茶を咽喉へと流し込んだ。ゴクゴクッと咽喉が鳴り出すと、ベッド脇に座って私を見上げる大石先輩が、また可笑しそうに笑う。その声に、私はベッド上から恋人をチラリと見下ろした。すると、恋人の優しい瞳は眦を下げ、いつものように三日月の姿を模っている。ふぃ、と、私は視線を外した。
その眼は……ズルイよ。
だって……大石先輩が口にしたい気持ち、見えちゃうんだもん。
２人の間に在る目に映らない恋の想いが仕舞える仕切り箱の中へと、想い石を惜しむ事無く、大石先輩は簡単に置いてしまう。仕切り箱の真ん中は、２人の恋の国境。その境目を越えたくなくて、必死になって想い石を置きたがらない私とは大違いだった。ただ見詰められているだけなのに、仕切り箱の中の想い石は、大石先輩が優しい眼を見せる度に着々と増えていく。私は自分が情けなく思え、何だか嫌になった。
「……ごちそうさまでした」
「あぁ、お粗末様でした。ところで、――」
「お休みなさい！」
「あ、え？ もう……寝てしまうのかい？」
「――寝ます！」
「……お前、何か怒ってるのか？」
「…………」
お茶を飲み干したマグカップを大石先輩へと押し付けるように返した私は、恋人の声を無視してベッドの上へと再度寝転び、白い壁を目の前にする。壁へと向いて横臥の姿勢になった私の機嫌悪さに気付いた大石先輩は、困ったような声音で訊いてきた。甘えん坊な私が怒ってしまう理由に心当たりが無いのだから、大石先輩が困るのは当然だった。恋の動きに鈍い大石先輩の問いに答えたくない私は、その声を聞き流した。
恋の仕切り箱から、大石先輩の想い石だけ……溢れちゃえ！！
少しぐらい……大石先輩も、私みたいに悔しい思いをすれば良いよ！！
自分ばっかりが好きみたいで、悲しいって……。
たまには……そう思っちゃえば、良い……。
意地の悪くなった私は、大石先輩に背を向けたまま、瞼を瞑る。途端、閉じた瞼裏に感じていた仄かな光を私は失った。すると、私の背後でベッドシーツがゴソゴソと鳴り出す音を耳が拾う。ぱちり、と瞼を上げてみると、恋人の部屋は室内全体が薄暗くなっていて、勉強机に据えられたスタンドの周囲だけが煌々としているらしい。ベッド棚に遮られた寝床で私が解るのは、天井に柔らかく反射する卓上スタンドの光のお陰で、真っ暗闇では無いという事だけだった。
「あれ？ で、電気……」
「、もう寝るんだろう？ いつも、明るいと眠れないって言うじゃないか」
「そ、それも、そうなんですけど……」
ベッドに横たえていた上体を起こした私は、自分の左隣に潜り込んできた大石先輩へと尋ねる。すると、大石先輩から至極当然な回答が返ってきた。いつも通りに、行儀良く仰向けの体勢でベッドの中に落ち着いた大石先輩が、夏用の軽い掛け布団を私の方へと掛け直す。ふわり、と身体の上に落ちてきたものを感じながら、私は大石先輩を左に見下ろして言い渋った。
恋する乙女心は、少々複雑に出来ている。私がご機嫌斜めでも、習慣となりつつある”お休みなさいのキス”ぐらいは、して欲しかった。しかも、今夜は大石先輩の大学の課題のお陰で、甘い事など何１つ無い。そのあたりは、尚更、私としては考慮して欲しいところだった。とりあえず、夏用掛け布団の下へと潜り直した私は、軽い息を吐く。
……ほら、ね？
私のほうが……また、想い石を置いてる。
これじゃ、わたしばっかりが……好きみたいじゃん。
左肩を下にした横臥の姿勢になり、ガッカリとした顔で私が瞼を伏せると、大石先輩は私の心中に気付きもせず、可笑しそうに笑った。仰向けから左肩を上にし、横臥の姿勢に変えた大石先輩は、左手を私の頭に乗せ、小さな子供を可愛がるような手付きでそこを一撫でする。
「スタンドの明かりがあるから真っ暗じゃない。大丈夫だよ」
「あの……」
「どうした、？」
瞼を上げると、真正面に大石先輩が見えた。ほんのりと暗い室内でも、表情の判別は出来る。恋人の顔を見て、私は困ってしまった。意地悪をした私の事など何とも思っていないのか、大石先輩は優しい眼で真っ直ぐに私を見ると、怪訝な顔をして問う。
「……その、怒ってます？」
「俺が、か？ ……何で、怒らないといけないんだ？」
「だって……」
「可笑しな事を言うんだな。怒ってるのは、のほうだろう？」
「…………」
私は戸惑いながら、大石先輩に訊き返した。すると、やや驚き顔で双眸を見開いた大石先輩は、私の問いに首を傾げる。私には大石先輩へと八つ当たりじみた意地悪をした自覚があった。恋の揺れには疎くとも、人の思いの揺れには疎くないはずの大石先輩が、私の理不尽な扱いに気付かない訳が無い。それなのに、穏やかな顔をしたまま、大石先輩は可笑しそうに笑って話すのだ。大石先輩の言葉に、私は何も言い返せなかった。
渋々、私が想い石を置く間に、私の倍の個数を大石先輩は置いていく。このままだと、大石先輩の想い石が、私より多くなるのは時間の問題だろう。先程までは、そうなる事を願っていた私だが、”本当に、それで良いの？”――と、不意に迷いが生じ始めた。
「さぁ、寝よう。ほら……もう、０時近いぞ？」
「あ、あのね、大石先輩……」
恋人の大きな左手が、私の右肩に優しく触れる。温かい掌を半袖パジャマの布越しに感じた私は、無性に人肌が恋しくなった。”お休みなさいのキス”をせずに眠る事に、私は少し不安を覚える。何だか気が落ち着かない。そんな私を前にしても、大石先輩は普段通りの素の表情だった。こんな時、切なくなってしまう。私の好きは、大石先輩の好きよりも、ずっと重たく、大きく思えてしまうから――。２人の間にある恋の仕切り箱の中へと、私の想い石がバラバラと落ちて行っては、たくさんの升目を埋め尽くす気がした。
「ははっ。……は、目で話すのが好きだな」
「――はぃ？」
”お休みなさいのキス”が欲しい――と、上手く言葉で伝えられない私を軽く笑った大石先輩は、賢しい双眸の輪郭を柔らかに崩す。”目は口ほどにものを言う”とでも、言いたいのだろうか。大石先輩の言葉に、私は首を傾げそうになった。
「は、そんなに……何が欲しいんだ？」
「えっと、ね……それが、その……」
口元を綻ばせた大石先輩は、柔らかな声で囁くように話し、私へと訊く。その様子は、大石先輩が既に答えを知っているかのような口振りだった。そう感じた途端、私は恥ずかしくなり、両手の先で唇を隠してモゴモゴと口篭る。
「それじゃあ、俺が……当ててやろうか？」
「え？ あ、当てられるんですか？！」
「そうだな……ちなみに正解したら、から何が貰えるんだい？」
「そんな、急に言われても……うぅ〜〜ん？」
気恥ずかしさに口篭る私を前に、大石先輩が苦笑混じりで軽い溜息を漏らすと、互いの距離を少し埋めるように身体を近付けながら言った。大石先輩の言葉に、一瞬、心音が大きく跳ねる。動揺丸出しの声で、私は恋人へと話しかけていた。私の様子が可笑しいのか、大石先輩は苦笑を続けたままの口元を見せ、私へと訊いた。”何が貰えるのか？”と問われるなどと思っていなかった私は、真剣に悩む。
”お休みなさい”のチュウがしたいって……バレてるのかな？
でも、そういうのに気がついてたら――。
大石先輩の事だから、絶対にアタフタしそうなんだけど……？
それにしても――。
先輩が正解した場合は……何を貰えたら、嬉しいんだろう？
イマイチ、何か良く解んないよねぇ〜……。
本気でうんうんと唸って悩む私の口元に添えられたままの両手首に、少し骨張った左右の手が添えられた。不意に触れられた私は、ハッとして視線を正面に定める。薄闇の中でも、強い眼差しが間近に見えるのが解った。思わず、私は息を呑み、警戒するかのように身を硬くする。
「あ、の……？」
「正解したら、”可愛いもの”を貰おうと思うんだ。……どうだろう？」
私の胸が酷く高鳴る。その音を耳にしながら、大石先輩に掴まれた自分の両腕がゆっくりと下げられていくのを目で追った。上擦った声を出した私が、大石先輩へ尋ねようとした矢先、大石先輩が優しい双眸に私を映して問う。
「はぃ？ ……か、かわいいもの？！」
「あぁ、そうだ。たとえば――」
「た、たとえ……ば？」
やや突飛にも思える恋人の言葉に、私は瞬きを繰り返した。軽い頷きで答えた大石先輩が、更に距離を縮める。私が大石先輩の言葉尻を真似て訊くと、途端、視線が絡んだ。
「の……それ、とか」
「――、っ？！」
視線の交錯を私が気付いた瞬間、不意打ちにも近い恋人の囁きが、私の前髪を揺らす。ふわり、とかかる温かな息を感じ、目を瞑る私の唇に乾いたものが、じわり、と熱を伝えた。それは、ただ触れるだけの――キス。音も無く降る雪のように静かで、羽のように柔らかい。恋人の温かな唇での心を込めた接吻は、私の心の輪郭をなぞる。息苦しいほどの血の巡りが、自分の心の跳ねる音で判ってしまった。
私が自分の耳を懸命に澄ますと、途端、大石先輩の想い石がもの凄い勢いで、２人の間にある恋の仕切り箱へと落下していくのが聞こえる気がした。バラバラ、バラバラバラ――と。私のほうが多かったはずの想い石が呆気無く、見えなくなる程に埋め尽くされていく。恋の仕切り箱を一杯に。または、それ以上に――。大石先輩が落とした恋の欠片で、２人の間にあった恋の仕切り箱は、完全に埋まってしまった。２人の恋の境目が、何処にあったのかさえも判らないぐらいに――。しかし、それは優しさからは程遠く、ただ残酷なものでしか無かった。
「……、正解かい？」
「大石先輩、どうして……」
乾いた唇が離れると、また温かな息がかかる。瞼をそっと押し上げれば、目の前に眦を下げる大石先輩の賢しく、優しい双眸が見えた。月明かりのように柔らかな笑みを見せた大石先輩は、少し自慢げに私へと問う。”お休みなさいのキス”にしては、いつも以上に情の篭ったものだった。ただ触れるだけのものではあったが、それは繊細な硝子細工を、とても大切そうに扱う動きに似ていた。幾つも夜を迎え、恋人と重ねる唇の動きを覚えてしまった私が知らない振りをするのは、到底無理な話だった。
「仕方が無いだろう？ ……の言いたい答えが解ってしまうんだから」
「そんなの……大石先輩ってば、ズルイよ」
欲しいものを口に出来なかったはずの私に対し、”解らない顔をするほうが難しいよ”――と、大石先輩は可笑しそうに笑う。心優しい私の大好きな人は、私以上に私を知っていた。そんな人が簡単な答えを見落とす訳が無い。バラバラと落ち続ける想い石の存在を感じながら、顔を顰めた私は、悔しげな声で言葉を漏らした。
恋の仕切り箱は、左右対称に出来ている。此処に納まる想い石は、互いの個数が均一でなければ、意味を成さない。ただ、埋め尽くせば良いものでは無かった。どちらかの一方的な埋め尽くしは、単なる片恋と同じ意味になるのだから――。
大石先輩が、想い石を出し惜しみしたくなるぐらいに……。
大石先輩が、悔しがるぐらいに……。
たくさんの”恋の欠片”が――”想い石”が落ちれば良い、と思った。
……それなのに、どうして？
ねぇ、大石先輩は……何で、嬉しそうに笑えるの？
恋の仕切り箱から溢れてるのは……大石先輩の想い石だよ？
想い石はたくさん出したほうが、”好き”が大きいんだよ？
それって……負けちゃうってコト、なんだよ？
ねぇ、大石先輩は……それでも、良いの？
大石先輩だって――本当は、良くないでしょ……？
私は耳を塞ぎたくなった。バラバラと絶え間無く落ち続ける音に、胸が痛い。目には映らない、２人の間に置かれた恋の仕切り箱に落ちていく想い石が溢れる度に、両目を覆いたくなった。納まり切らない想い石を落として続けても、笑む事が出来る大石先輩の顔を見るのも怖かったから――。大石先輩から視線を外し、私は顔を俯かせる。
「俺が、ずるい？ は……どうして、そう思うんだ？」
「…………」
「……、どうかしたのかい？」
訝しげに声を出し、大石先輩が私へと訊いた。その声に答えず、私は夏用の掛け布団を手繰り寄せ、心許無い軽さを両腕に感じながら抱き締める。すると、大石先輩は、私へと再び呼びかけた。今度は、心配げな色を含んだ声音。私の胸には、抜けない棘のような痛みが増した。
「私が、大石先輩を……好きじゃない、みたいじゃん……」
抱え込んだ両手の夏用掛け布団に顔を埋めるようにして、私は顔を隠す。くぐもって聞こえた自分の呟き声は、随分と情けない音をしていた。
「え？ 、何って言ったんだい？」
「だって！ そんなたくさん”好き”を置いたら……私が置けないの！！」
私の声を拾い切れなかった大石先輩は、私へと優しく訊き返す。抱えていた軽い掛け布団を手放し、目の前で同じように横たわる大石先輩へと、私は掴み掛かった。苛立った私の声は、室内の仄暗い闇に溶けていく。
２人の間で共有する、恋を仕舞える箱からは、想い石が溢れてしまった。どこが箱の真ん中で、何が境目だったのか――もう何も判らない。想いの過不足を作らないように、恋の仕切り箱の境目を越えないように気をつけながら、想い石を置いていた私の努力が無駄になった。それどころか、大石先輩の想い石が増えた事によって、想い石の個数が均衡を失った途端、”好き”の想いのバランスが崩れてしまっている。私の恋の想いは、大石先輩の想いの強さに、明らかに負けていた。そう、どんなに私が好きだと言い張っても、想い石の少なさで、私の大石先輩への想いが見劣ってしまう――。自分ばかりが好き過ぎるのは嫌だったが、自分の想いの足りなさを思い知らされるほうが、より辛かった。
「えぇ？！ な、何の話をしてるんだよ、？！」
「大石先輩の”好き”ばっかり……置かないで。置いちゃヤダよ……」
横たえていた身体を右腕で支えて上体を少しだけ起こした大石先輩は、戸惑いの顔を見せ、私を覗き込む。大石先輩のパジャマの前身衣へ両手をかけたまま、恋人の胸元に額を寄せた私は背を丸めた。
……大石先輩の想い石だけが、どんどん増えちゃう。
私が持ってるのは、どうしたら良いの……？
置く場所が、見えないよ……。
もう……置ける場所も、無い。
私の、大石先輩を好きな想いは……どうしたら、良いの？
大石先輩が私を想う振る舞い１つで、想い石が尽きる事無く、積まれていく。恋の仕切り箱に据えた私の想い石と個数差が広がっていくのが、堪らなく怖かった。これ以上、どうやって想えば、想いの差を縮められるのかが、私には判らない。”好き”の欠片を――想い石を置かないで欲しいと、私は心願するしか無かった。
「、一体……何の話をしてるんだい？」
「わ、私、両想いが良いの！ どっちかが、たくさん好きとかヤダもん！！」
「…………」
「ひっ、く……ふっ、うぇ……っ」
私の言葉の意味を、必死で読み取ろうとしている大石先輩が、眉間を寄せた困り顔で私へと問う。恋人のパジャマの前身衣だけが、想いの命綱だと言わんばかりに、私はそれを力の限りで握り締めて答えた。想いの力は、いつだって均等であって欲しい――ただ、それだけの願い。それなのに、ふとした事でいつも容易く想いの均衡が崩れてしまう。大石先輩に引っ付き、離れたがらない私を扱いかねたらしく、大石先輩は溜息を１つ零し、途方に暮れたように私の名を口にした。苦しくて、辛くて――その気持ちを堪え切れず、私の唇から嗚咽が漏れる。骨張った男性らしい大きな左手は、私の背を宥め賺すように、ゆっくりと上下に動いた。
「……しよ、か？」
「え？」
酷く小さな囁きは、優しい誘いではあったが甘い声とは程遠い。どこか緊張して聞こえる硬い音を耳にした私は、恋人のパジャマの前身衣から顔を上げた。しがみ付いた大石先輩の顔を見上げれば、少し不安げな顔を覗かせ、表情を曇らせている。薄闇の室内で、正確に奏でられる時の秒針が、ベッド棚の上から冷えた音を響かせていた。
「そんなに、何がを不安にするのか、確かめよう。……な？」
「ヤ、ヤダもん……」
「”ヤダ”なんて言ってる場合じゃ、ないだろう？」
「確かめたく、ない。……怖い」
私の背を撫でていた大きな手が、私の右肩へと置かれる。温かな熱が、私のパジャマの生地を通り抜け、肌の内へと沁みた。未だ揺れて聞こえる恋人の声に、私は顔を顰め、首をゆるゆると左右に振って答える。私の拒みに対し、大石先輩は瞼を伏せ気味にし、首を軽く振って喋った後、溜息を零した。恋人に有無を言わさないかのような問いに、私は上げていた顔を俯かせる。恋の仕切り箱一杯に盛られた大石先輩の想いの欠片から、目を背けるかのように――。
唇を固く結んで俯く私の右頬に、大石先輩の左手が添えられた。”顔を上げるんだ、……”と、恋人の掌の熱が彼の言葉を伝えてくる。渋々、私が顔を上げると、大石先輩の視線と自分のものが直ぐに絡んだ。大石先輩の双眸は、真っ直ぐに射抜く強さで私を見下ろす。
「俺は確かめたい。が……ちゃんと俺を好きなのかを、さ」
「…………」
出し惜しみしてしまった想いの足りなさを、私は責められた気がした。大石先輩の強い眼差しから視線を外せない私は、固まったように口を噤む。
だって……確かめたら、大石先輩との”好き”の差が……バレちゃう。
私の想い石が足りないのを知ったら……ガッカリするでしょう？
私だって、そんなの……イヤだもん。
……ガッカリなんて、されたくない。
ちゃんと両想いになれるように、想い石を置いてたのに……。
でも、途中で石を勝手に足したのは……大石先輩のほう、なんだよ？
大石先輩の賢しげな瞳は、だんまりを決め込んだ私に、ほんの少し揺れを見せ、弱々しく細まった。それに併せ、形良い唇から小さく震えた息が微かに零れる。私の手元から零れ落ちた不安が、伝染病のように恋人を侵すのだろうか。私の様子を気にかける大石先輩の表情は、酷く強張って見えた。
「どれだけ想ってくれてるか、確かめたい。……、良いか？」
「……は、はい……」
大好きな人からの２度目の問いは、私に有無を言わさない音を含んでいる。”好きなのか確かめたい”――と、大石先輩が言った以上、私の想いに何かしら疑問に思うところがあるのだろう。嫌だと答えたところで、許してはもらえないのは、射抜く程の強い眼差しで判り切っている。私は諦めに似た気持ちで、首を縦に振って答えた。
恋の仕切り箱には、大石先輩が足し過ぎた想い石で、既に溢れてしまっている。それは、”好き”の欠片である想い石を出し惜しみした私の責任でもあった。箱の境目を見失い、越境されてしまったのも、均等に揃わなかったのも、どちらかだけの所為では無く、どちらともの所為。積み過ぎたものは、２人の手で処理するほか無かった。そう、恋の仕切り箱を空にして、再び、２人で想い石を揃えて置いていくしか――。
「よし。それじゃ……２人で一緒に、”好き”を探そう」
「……はい」
私の右頬を撫でた大石先輩の指先は、右耳を通り過ぎ、耳の裏から後れ毛を梳くようにして、私の髪の中へと沈む。私の頭の後ろを温かな掌が支えたと同時に、大石先輩が額を寄せ、私の額へと静かに触れた。冷えた肌から、後に、じんわりとした熱が伝わる。その熱が肌に馴染んでいくのを感じながら、大石先輩の柔らかな声音に、私は小さく頷き返していた。
エアコンの稼動音が闇に紛れて響くのが、微かに聞き取れる程、部屋の中は静謐に満ちている。室内の輪郭を浮き上がらせる卓上式スタンドライトの灯りが、何故か普段より明るく感じられた。大きな水槽のゆらりと揺れる水草の陰で、可愛い熱帯魚達が寄り添い合うように身を休めているのを、私は視界の端に映す。大石先輩から眼を外していた私に、その視線の先を戻させるかのように、大石先輩が話し出した。
「そうだなぁ、まずは……、パジャマのボタンを外してくれ」
「え？！ わ、私、自分で脱ぐの〜〜っ？！」
少し考えもって喋った大石先輩の言葉に、私は軽く目を剥いて言葉を返した。自慢ではないが、事に及んでから今まで１度たりと、自分から脱いだ例は無い。それを、いともアッサリと要求してきた大石先輩の真意が読み取れず、私はあまりの恥ずかしさに顔を染め、パジャマの袷を両手で握り締めた。
「あ、いや。そうじゃない。こっち……俺のほう、な」
「は、はい。ちょっと……ビックリ、した」
「ははっ、だろうな。お前のは、いつも通り……俺が外してあげるよ」
私を組み敷いた姿勢で可笑しそうに小さく笑む大石先輩が、彼自身のパジャマのボタンを指し示す。ホッと安堵の溜息を漏らした私は、大石先輩の胸元へ両手の先を伸ばし、１つ、１つ、ゆっくりとパジャマのボタンを外した。その様子を眺めた大石先輩は、私の勘違いを笑った後、目元を細い三日月の形に模る。私を愛しげに見下ろした大石先輩が、柔らかな表情で吐息交じりの甘い声音を私へと聞かせた。
パジャマのボタンが全て外せた私の目が、恋人の肌蹴た胸元で留まる。随分と男性らしいものに、私は何だか落ち着かない気持ちになり、視線を彷徨わせた。その間に、大石先輩は両手を着いていた姿勢から、両肘を着く体勢へと変える。急に肌の密着度が上がり、目を泳がせてた私は瞼を閉じた。すると、私の大好きな人は、私の額へと口付けを１つ落として言う。
「、……目、瞑るな……」
「ふ……ぅ、ぁ……っ、ん……」
浅い息を零した私は、薄っすらと瞼を押し上げた。間近には、スタンドライトの光を受け、瑞々しい煌きを映した恋人の瞳が見える。そう思った途端、大石先輩の双眸がスッと細まり、更に、間近くなった。大好きな人の甘い吐息が私の唇に軽くかかると、それに続き、乾いたものが押し付けられる。触れるだけの口付けは、慈しむような静かな愛情に満ちていた。心優しい私の恋人は、そろり、と私の顔に大きな掌を添え、少し不器用そうな硬い動きで輪郭をなぞる。大石先輩の掌の熱に、くすぐったい気持ちになった私は首を竦めた。それを気に掛けることも無く、大石先輩は小さく笑むと、再び、私の唇に同じもので触れる。情愛の篭った温かな接吻は、互いの唇を緩やかに潤わせた。
恋人の濡れた唇は、劣情の熱を他所にも落とす。私の瞼や頬、鼻先、耳朶、顎先へと――。大事にされているような、少し焦らされているような、不思議な感覚に包まれる私のパジャマの襟元を、大石先輩の骨張った右手が徐々に開いていた。大きく開かれたパジャマの前身衣を除け、不器用な大きな手の先が、私の肌上をゆっくりと滑り出す。私の胸の内側から何かを拾い上げるように、身体のラインを辿り、胸元を覆い隠す布地を軽く押し上げた。その動きに気恥ずかしさを感じ、身を捩ろうとした私の肩を、大きな左手が制するように押さえる。すると、室内の冷えた空気と対照的な温い熱が、緩い丘の上を這い出した。優しい愛撫の始まりに、昂り始める私の胸の鼓動が激しく鳴り出す。
「あ、ぅう……ん、っ……」
「俺は、見つけた。……ほら、ちゃんと探せ」
ぎゅっ、と強く瞑った私の瞼に柔らかな熱が落ちると、そこから、今度は私の上唇へと先程と同じ熱が落とされた。大石先輩の優しく甘い食みに、私は小さく身体を震わせる。首の角度を変えたのか、大石先輩が唇を合わせる箇所を移した間に、少し骨張った恋人の指先は、私の左手の掌を開かせた。大石先輩が私の左腕の手首を掴むと、私の掌を彼自身の胸元に強く押し当てる。私の掌は、いつもより高めに感じる恋人の身体の熱を拾った。それと同時に感じる鼓動の速さ――。口付けの合間、途切れ途切れに囁かれる恋人の言葉の意味を、開かれていく身体と、快楽に溺れ始める意識の中、私自身で探すのは難しかった。ただ、それでも私の耳の奥で鳴る音の正体が何かは、薄い膜を通した意識でも解る。コツン、コツン、コツン――と、掌が拾う鼓動に併せ、落ちる度に鳴る想い石。
「……、感じ……られる、か？」
「ぁ、やぁ……っ、ん、ふぅ……、っ！」
私の耳朶を打つように囁く大石先輩の声に、私は弾かれたように顎先を上げ、双眸を大きく見開いた。それと同時に、私の肌上を隈なくなぞった長い指先が、私のパジャマ下に隠れる下着を潜り、茂みを優しく掻き分ける。焼け尽くすような熱が、私の身体の内側へと急速に篭り始めた。大石先輩の胸元を触れていた私の掌は、いつの間にか救いを求めるようにそこから離れ、彼のパジャマの襟元を強く握り締める。その握りを困ったようにチラリと見た私の大好きな人は、”同じものに、触れられたか？”――と、最後に柔らかな声音で囁くのを、薄らいでいく意識の中、私は微かに聞いた気がした。コツン、コツン、コツン……と、互いの鼓動に併せ、落ちる度に響く想い石の音と共に――。
熱りの冷め始めた身体が冷えてきた。私がそう思った途端、夏用の掛け布団を私の首元まで引き上げて被せた大石先輩は、左肩を上にした横臥の姿勢で、仰向けで寝る私を覗き込んで笑む。
「結局……が言ってた『”好き”を置くな』って、何の話なんだい？」
「先輩と私の間に、”好き”って気持ちを仕舞える箱があるという話、なんですけど……」
軽い掛け布団の下で、もぞもぞとパジャマのボタンを留めた私に、大石先輩が訊いた。カチコチ、カチコチと頭上から落ちてくる置時計の秒針の運びを耳にしながら、私は布団の中から両手を抜き出し、大好きな人へと身振り手振りで簡単な説明をする。
「”好き”を……仕舞える箱？」
「はい。その箱は偶数分で仕切られてて、お互いの”好き”をそこへ入れられるんです」
「へぇ〜。……それで？」
「お互いがちゃんと好き合ってたら、同じ個数分の”好き”って気持ちの変わりに、”想い石”が納まるんですよ？」
私の言葉を聞いた大石先輩は、私を見下ろしたままで軽く目を見張ると、再び私へと訊いた。恋人の問いに、私は素直に頷き、更に説明を加える。すると、大石先輩の賢しげな瞳は、そこに好奇心の色を帯びた。大石先輩が話の先を促すように私へと問う。どこか楽しげに見える大好きな人の顔を見上げ、私は機嫌良く答えた。私の話を聞くなり、大石先輩の眉間が軽く寄ると、口元が緩む。
「ははっ。……は、随分と面白い事を考え付くんだな」
「べ、別に、面白い事じゃないですもん！」
可笑しそうに声を立てて笑った大石先輩が、私の機嫌取りをするように、大きな左手の先で私の額にかかる前髪を優しく梳いた。柔らかに私の前髪を掬った動きを感じながら、私は唇をほんの少し尖らせ、大石先輩へと拗ねて背を見せる。私に背を向けられた大石先輩が浅い息を吐いた。
「お前が『”好き”を置くな』って言ったってことは……俺のが多過ぎて困ったって訳か？」
「大石先輩は、仕切り箱を……直ぐ、一杯にしちゃうんだもん！！」
「ははっ。……そうなのか？」
「そうなんです！ だから、私の”好き”って気持ちの想い石を置く場所、無くなっちゃうの！」
「う、うん？ そうか……ごめん」
左腕で私の身体を抱え込みながら、大石先輩が問う。俄かに慌しい衣擦れの音が起こると、私は背中でじんわりとした人肌の温もりを得た。優しい温もりに勝てない私は、その姿勢のままではいられなくなり、背を振り向いて答える。顔を嬉しげに緩ませて見せる大石先輩が、軽い笑い声を私に聞かせた後、私の額を大きな左手で軽く撫でた。優しくて、どこか狡い大好きな人へと、私は両頬をパンパンに膨らませた顔を見せる。すると、少したじろいだ大石先輩は、私の言葉に首を縦に振り、謝りの言葉を口にしていた。
「だからね、たまには……”想い石を置くのは勿体無い”って思って？」
「、それは無理だ。きっと、俺は……そう思えないよ」
「……どうして、ですか？」
大好きな人へと小さく笑って私が話すと、途端、大石先輩は表情を締めた。首を横に振り、硬い表情を見せたまま、私へと答える。大石先輩の態度に疑問を持った私は、その気持ちを素直に言葉へと代えた。
「……お前を好きだから、俺は出来ない」
「好きだと……出来ないんですか？」
「あぁ。人を恋い慕う気持ちは損得だけじゃ動かないものだろ？」
「そっ、か……」
少しの間を空けた大石先輩は真っ直ぐな眼を見せ、闇に溶け込まないキッパリとした声で言葉を口にする。宣言にも近い響きをさせた言葉を聞き、私は不思議な気持ちで恋人へと尋ねていた。私の疑問を解いた大石先輩が、ふわり、と柔らかな笑みを零して見せる。その顔を見た途端、私は納得のいくものを感じた。
……大石先輩の言う通りだね。
最後の最後で、私も――損得勘定が出来なかったもん、ね……。
大石先輩の”好き”の数に合わせたくて、必死になって……。
それなのに、合わせ方も解らなくてなって……迷ってしまったから……。
そう思った私は、ふと、気付く。数が合わない想い石を入れた仕切り箱をひっくり返し、空っぽにした後なのに、私の心は何故か満ち足りていた。その気持ちを感じながら、私は落ち着いた心で、先程感じていた想いを顧みる。
「気持ちを出し惜しみしたら、私の”好き”を置く場所が無くなったの。それに……」
「――それに？」
「お互いの”好き”の数が均等じゃなくなると、私の”好き”だけ劣って見えて、辛くて……」
「そうか。……ごめんな」
私ばかり恋人が好きなのは、嫌だった。”相思相愛”――その言葉通り、想い石の数を均等にして、恋の仕切り箱の中へ”好き”の欠片を仕舞いたいと、私は思っていたから――。少し困ったような複雑な笑みを見せて話す私の言葉に、優しい眼をもって私を見詰める大石先輩が、短く訊いた。その声に促されるようにして、再び、私は言葉を紡ぐ。私の言葉に思うところがあったのか、尽くしたがり屋な私の大好きな人は、切なげに眉間を寄せると、ポツリ、と呟いた。
「たくさん想い石を置いたら、私が負けちゃうと思った。……でも、違ってたみたい」
「……違ってた？」
「大石先輩がね、教えてくれた。……”たくさん好きでも良いんだよ”って」
パジャマの肌蹴た大石先輩の胸元に潜り込むようにして、私は恋人の懐に入り込む。温かな人の熱を自分の肌に感じながら、私は笑って話した。私の言葉に、大石先輩は不思議そうな声音で問う。愛しさを抱くように、私は大好きな人の身体に両腕を回して答えた。
人の想いは、計算など出来るものでは無い――。素直に感じる”好き”という恋情を仕切り箱から溢れるぐらいの想い石をもって示した私の大好きな人が、愛情豊かに、そう教えてくれた。
「。……それは、少し違うぞ？」
「えっ、違うんですか？！」
両腕にぎゅっと抱き締めた大石先輩の胸元に、私が甘えるように片頬を寄せると、大石先輩は軽く身動ぎをし、私の頭の後ろを大きな掌で一撫でして可笑しそうに笑って喋る。その声に、私は目を真ん丸にした。
「”たくさん好きになっても構わない”って、お前が教えてくれるんだ」
「そんなの、１度も言ったこと無いですよ〜っ？！」
私が恋人の顔を急いで見上げれば、柔らかく笑む大石先輩の眼とぶつかる。優しい瞳は、そこに甘い光を湛えていた。睦言の囁きにも似た言葉が、私の耳朶を緩やかに撫でる。甘い吐息を吹きかけられたかのように私の顔が赤らんだ。身に覚えの無い言葉に、私は首を横にブンブンと振って答える。すると、ベッドシーツは、私の髪と口喧嘩をするようにワシャワシャと音を立てた。
「ははっ。そうだな、確かに……”口では”、な」
「口、以外……？」
「あぁ。その”目”が言うんだ。……”もっとたくさん好きになってくれ”って、さ」
「――ウソッ？！！」
私の様子に軽い笑い声を立てた大石先輩は、私の言葉に答えると、左手の人差し指先を私の唇へと軽く押し当てる。寄せられた指先に焦点を定め、きょとんとした顔で私は双眸を瞬かせた。そんな私の顔を覗き込むように、大石先輩は顔を近付け、悪戯っ子のような瞳を見せて、唇の端を柔らかに上げる。自分の口よりもお喋りだと教えられた両目を、慌てて両手の掌で隠した私は、驚きの声を上げて俯き、顔を隠す。先程の比ではない熱さが、自分の両頬へと集まるのが解った。
「お前の言う箱から”好き”が不公平に溢れたら、また数えよう。……な？」
「あ、これって……」
恥ずかしさに俯いた私の右手首を大きな左手が掴むと、そこからゆっくりと引き剥がした大石先輩は、自身の胸元へと私の掌を添える。温かい熱と相俟って、微弱に伝わる命の響き――。大好きな人の鼓動の動きを掌で感じ取った私は、抱き合う最中で触れた音を思い出した。
私の呟きを耳にした大石先輩が、賢しく煌く双眸をやんわりと細めて私を見下ろす。
触れ合って、抱き合って、確かめた”好き”の欠片の数を――。
こうして、２人で同じ音を……聞いてたんだね。
空っぽにしたはずの恋の仕切り箱には、知らず知らずのうちに、その仕切り箱の枠の中へと、想い石が静かに埋められたのだと、私は知った。大石先輩が一緒に探してくれたからこそ、今、同じ数の想い石が箱の中に在るのも解る。私が満ち足りた気持ちになれたのも、これが答えの全て――。
「あぁ、こうして一緒に数えよう。……同じ数に揃うまで、な」
「えへへっ。……はい！！」
愛しげに私を眺めた大石先輩は頷き、私の手首を掴んだ手を離して場を移すと、大きな掌を私の胸元に軽く添えた。大石先輩の温かい掌の熱が、私の胸の内に沁みるような錯覚を覚える。心地好い温かさに触れた私は、頬を緩めて笑み、大きな頷きをもって返した。
カチコチ、カチコチ、カチコチ――。
時の刻まれる音の合間を縫い、２人の間にある目に映らない恋の仕切り箱へと、最後の想い石が枠の内に納まる音を、コツン、と何処かで響かせたようだった。
【END】