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だって、その辺を漂う空気なんかじゃないの！
それに、潤い与える水なんかでもないよ！
何時から……こんな風になったんだろう？
ずっと、ずっと、好きでいたいの！
ずっと、一緒に、トキメキたいの！
どうして……こんな風になっちゃったんだろう？
ただ、とっても大好きだよって、
伝えれる２人だけの世界が欲しいだけ。
ブラウン管の中の２人が、
とっても輝いて、幸せそうに見えたから……。
「いいなぁ〜……」
最近、すごくお気に入りになったＣＭを眺め、ボソッと一言呟くと同時に、やるせない気持ちを一緒に吐き出す。
テーブルにアゴを預けて、ブラウン管に映る映像を眺めている私と、テーブルを挟んだ向かいでは、大石先輩が私の呟きを然程気にも留めずに、テレビの画面を観ている。
ゆったりとした静かな時間を、恋人同士として今日も過ごす。
自分の部屋のようにくつろいでいる私が居る空間は、大石先輩の自室。
他の人から見れば、羨ましがられるような贅沢な時間。
大好きな人と、たった２人で、ゆったりと過ごす。
……でも、私は楽しくないの！
眉間に皺を軽く寄せた私は、口元をへの字にして、いかにも不服そうな顔をする。
「ん？ ……お前、自動車に興味あったのか？」
私の目の前に座る大石先輩は、初めて聞く話だというような表情で頬杖をついた。
「今のＣＭ、お気に入りだけど……。別に、自動車に興味があるんじゃないの！」
プゥ〜と口を尖らせて息を出す。
大石先輩は、ご機嫌斜めな私の顔を眺めたまま、目を大きく見開いた。
私と大石先輩が、どんなＣＭを見ていたのかってことを話すと、自動車に乗って、ちょっとした川辺の土手のようなところにやって来た恋人同士が、大きな敷物を広げてランチをした後っぽい感じで、まったりとした時間を楽しんでいるものだった。
「自動車に興味無いなら、今のＣＭのどこが良いんだ？」
不思議そうな顔をした大石先輩は、私の皺が寄る眉間に人差し指を伸ばすと軽く突いた。そして、呑気に笑っている。
……はぁ。
一緒に見ていたはずのＣＭなのに、何で解らないのかな？！
ゆったりと川辺の土手で、２人っきりの恋人同士。
彼女が大きな敷物の端を掴むと、ふわりと引っ張り上げ、世界の誰にも見つからないように自分と彼を隠す。
隠された２人が敷物の下でグッと近付くと、風に吹かれて敷物が捲れる。
その瞬間、気恥ずかしそうに笑い合う恋人同士の、幸せそうな横顔。
その後、彼は彼女がしたように敷物の端を掴んで、もう１度世界から２人を隠した。
見ているこっちが、恥ずかしくもなるけど、羨ましくも感じる一瞬。
本物の恋人同士ではないって解ってても、恋のトキメキを感じる映像。
そうなの〜〜！
胸がキュン、とするような、恋のトキメキが足りないの！！
私が、今すご〜く欲しいと思ったモノ。
ＣＭの偽の恋人同士でさえ、初々しいほどの、爽やかな恋のトキメキで輝いて見えた。
それなのに、どうして本物の恋人同士が、長年連れ添ったような夫婦の空気感を醸し出して、テレビなんかを観てなきゃなんないの？！
だって、最近……つまんない。
そりゃね、う〜んと大事にしてもらってるのは、知ってるよ。
いつも、大石先輩が費やせる時間の限りは、私優先だもん。
今日だって、２人でのんびりしたいと言って、先輩の部屋へ遊びに来たんだしね。
まぁ……エッチなムード作りとか、上手いエッチのリードを、大石先輩に求めるのは酷な話だとは……思ってるよ？ ……先輩の性格的な部分を考慮すると、ね。
事実、トキメキの足りなさは……ここの改善も必要なのかなって、思わなくもないけど……。
でも！ エッチ……する時だって、決してインスタントなんかじゃないし！！
そ、それに！ これだけで、恋のトキメキを感じたいワケじゃないんだもん。
恋の現状として大問題……な事は、無いんだろうけど……。
それでも、恋のトキメキを感じたいと思うのは……贅沢な悩みなのかなぁ〜？
これでも、ただの先輩と後輩から特別な関係になった頃は、恋のドキドキを感じてたと思うんだよねぇ〜？
エッチなんかしなくても、全然楽しかったし！！
大石先輩の隣に、ちょこんと居れるだけで、すごく嬉しかったもん。
手をつないだ時なんか、心臓が口から飛び出そうだったし！
お互いの掌が汗ばんで、何だかそれが恥ずかしくって、目が合うと、赤い顔でお互い笑い合って……。
初めて、”チュ！”ってした時は、そりゃ心臓がバクバクし過ぎちゃって、もう、どうしたらいいのかワケがわからないぐらいに、幸せ感じちゃって……。
……それなのに、今はどうして？
目の前で笑ってる大石先輩に、何だか物足りなさを感じる。
私、欲張りなのかなぁ〜……？
はぁ〜っと深い溜息をついた私に、困ったような顔をして話しかける大石先輩。
「のんびりしたいって言いながら、本当は外デートしたかったんじゃないのか？ ……退屈だな〜って、思ってるんだろう？」
「た、退屈って、思ってないよ！ そんなんじゃないもん！！」
プィッと横を向いた私の顔を見て笑った大石先輩は、テーブルに置いていた雑誌を捲り始める。
……何か、悔しい。
恋のトキメキが無くって、私がこんなに焦って、こんなに悩んでるのに……。
大石先輩ってば、雑誌なんか覗いちゃって！
……な、何だか、と〜っても頭にきたよぉ〜！！
テーブルの表面をバン！と両手で着いて、私は勢い良く立ち上がった。
「わ、私……空気なんかじゃないんだよ！ その辺の蛇口ひねって出る水でもないんだよ！！ ……こんなの、あんまりだよぉ〜！！！」
呆気にとられたような顔をする大石先輩が、見ていた雑誌を手元で広げたまま、私を見上げている。
「き、急にどうしたんだ？」
ぽかん、としていた大石先輩は、私のご機嫌斜めな空気を完全に読み取り、その原因を問いかけてきた。それと同時に、テーブルの上にのせていた雑誌を、ひとまず、自分の背後の床上へ移す。
「急なんかじゃないよ？！ 最近、ず〜っと考えてたの！！」
私は真剣な視線で、大石先輩の顔に詰め寄った。
「考えてた……って、何を？」
とりあえず、私の機嫌の悪さを、どう宥めようかと考え始める大石先輩が、困ったような顔をしていた。
「ドキドキしたい！ ……こんな、”長年、夫婦してます”って空気漂うの嫌だよ！！」
「な、長年夫婦って……。それは、の考え過ぎじゃないか？ 俺は、別に……」
私の言葉に、明らかに驚いた大石先輩が、右手を左右に忙しく振って見せた。
「考え過ぎなんかじゃないよ！ ……先輩が好きなのに、ドキドキしないんだよ？」
大石先輩が座る隣へと移動した私は、床上へとペタリと座り込んだ。その様子を黙って見ていた大石先輩が、近付いた私の名を口にする。
「…………」
「ドキドキが無くなったら、恋が終わっちゃう……よ？ ……そんなの、イヤだよ！」
間近になった大石先輩の目を覗き込みながら、私は重々しい声で話す。
言葉にするだけで、本当に恋が終ってしまいそう。
まっさらな本が日に焼け、古びてしまうような、そんな悲しい感じ。
私の先輩への気持ちが、何処か遠くに消えてしまうような、切なさ。
いつもみたいに優しく笑って、”ずっと一緒にドキドキしよう”って、大石先輩は言ってくれるよね……？
大石先輩の瞳にすがるような視線を送りながら、両手を胸の前で組み、神様に祈るような気持ちで居た。そんな私の気持ちにお構いなしで、少し面倒そうな表情をした大石先輩が、私を見て眉を寄せた。
「そんなにドキドキしたいか？ 俺は……したいと思わないし、ドキドキしないから恋が終わるなんて思わない。それに……今のほうが良いよ」
ちょっと迷惑そうな声で、そう答えた大石先輩。
私も大石先輩の言葉で、思いっきり眉間に皺を寄せる。
恋のドキドキなんて無くても平気だってこと？
今のほうが良い……って、空気みたいな関係が良いってこと？！
そんなの楽しくないよ〜！！
「く、空気みたいなのが、良いの？！ 大石先輩、絶対ヘンだよ！！」
私は口元をへの字全開にして、大石先輩へと抗議する。
「ぐっ……。へ、ヘンって……！ ……今の良さが解らないに、話すことなんか無いな！ ……お前のほうこそ、絶対にヘンだぞ！！」
私からの言葉のパンチをくらった大石先輩が、言葉を詰まらせながらも応戦する。
互いに異見を唱えた私と大石先輩は、グッと額を近づけて睨めっこした後、息を大きく吸い込んで、一言だけを言い放つ。
「「……絶交、だよ！！」」
「ふん！」と鼻を鳴らさんばかりに、互いに背中を向けた私と大石先輩の間に、沈黙の空気と時間が流れる。
ベッド棚の上に置かれる２つの目覚まし時計の秒針が、カチカチカチ……と忙しなく働く音を響かせていた。
私は大石先輩に背を向けた後、膝を抱えて三角座りしたまま、テレビを眺める。
背後からは、雑誌を捲る音が聞こえてきた。どうやら、先程読みかけて置いた雑誌を、大石先輩は見ているらしい。
怒ってる私のことなんか知らん顔して、涼しい顔して雑誌見てるのかな？
……それって、ヒドイよっ！
昔は……付き合い初めの頃なんか、ちょっとでも泣きそうな顔するだけで、すっ飛んで来て、なぐさめてくれたのにさ〜！
今なんか、きっと大泣きしても無視する気だったり？！
あ〜ぁ、何かイヤだなぁ〜……。
昔は良かったなぁ〜……。ちょっとのことで嬉しくって、楽しくって……。
人を好きになって、恋するって素敵なことだったなぁ〜。
ほんの些細なことに、心が揺れて……。
そう、ほんの些細なことで……。
そう考えた時、とても大切なことを見落としていたことに気付いた。
ぼんやり眺めていたテレビ画面から視線を外し、床の板目を見詰める。
…………そうだ。
付き合い初めの頃、先輩の周りの人達に嫉妬した。
それから、先輩を独り占めしたいのに出来なくて、すごく淋しく感じた……。
言いたい事なんか山のようにあったけど、すごく我慢してたし……。
ケンカなんかしたら、それこそ……大石先輩との恋が終わると思ってた。
確かに、あの頃の恋は輝いて見えた。
だけど、それと同時に……いつも影という名の不安は、そこにあった。
恋のドキドキは、大好きな人と一緒に居る事の楽しさと嬉しさを与えてくれた。
それから、大好きな人と一緒に居られなくなるかもしれないという、悲しさや切なさも教えていた。
ドキドキは、いつの間にか消えてしまっていたけど、大石先輩への”好き”は今ままで続いてきた。もちろん、これからだって……。
今だって、大石先輩とケンカして怒っても、私達の想いが崩れてしまうとか、これっぽっちも思ってない。
ドキドキが無くなっても、恋の想いは……ある。
想うカタチが、違うモノになったんじゃないの……？
大石先輩は、それに気付いてたんだ。
だから、ドキドキしなくても恋は終わらないって……ハッキリ言い切ったんだね。
私……肝心な部分を見落として、恋の美味しい部分だけしか見てなかった！
床を見詰めていた私は、それを止め、三角座りして空いている膝頭に額を置き、瞼を閉じる。
大石先輩と私の恋が、小さな芽をつけて、ここまで育つの大変だったはず……。
そりゃ、手塚先輩や不二先輩みたいに、超絶モテ男じゃないけど、それでも、大石先輩を密かに思ってる女生徒はたくさん居た。
今は穏やかに凪ぐ海のような日々だけど、恋が始まった頃は荒れる海とか、嵐に遭った海みたいな日、何度もあったよね……。その度に、雨風を凌ぐ盾となってくれたのは……大石先輩だった。
恋の嫌な部分は、大石先輩が上手に隠してくれたから、私……あんなことを平気な顔して言えたんだ。
ヘンなのは、大石先輩じゃない！
…………私だ！！！
大石先輩へ背を向けたまま座ってた私は、自分の過ちに気付き、三角座りで抱えていた膝を解いて振り返る。
たまたま読んでいた雑誌から顔を上げた大石先輩と、タイミング良く目が合った。
賢しい目元をやや開き気味にした大石先輩が、私を見詰めている。
忘れていた苦い想い出が胸を締め付けると同時に、私の双眸が大きく揺れ、雫が落ちる。
「恋のドキドキ……素敵なだけなんかじゃ……なかっ……」
そこまで言葉を口にしたが、声の震えが大きくなり、最後までは言い切れなかった。
私が瞳から零れ落ちる雫を拭おうとした途端に、テーブルがガタタと揺れ、雑誌がバサリと落ちる音が室内に響いた。
目元を押さえようとした私の右手を、グッと掴んだ大石先輩が自分の体へと、私を引き寄せ、すっぽりと両腕の中へおさめる。あまりにも急なことで、私は驚いて声も出せずに居た。
「……ごめん」
私をゆるく抱きしめる大石先輩が、ポツリと呟く。
「……え……っ。な、何で？……」
謝るのは私なのに……と思いながら、その言葉の意味を問う。
「お前、思い出したろう？ ……恋のドキドキは、決して良い事だけじゃないって」
「う、うん……」
自分の背に回される大きな掌で優しく撫でられ、私はひどく安心した。
温もりが、記憶を辿って引きずり出された苦い思い出達を、霧散していく。
「悲しい気持ちを忘れるように目隠しをしたのは……俺なのに、な」
「……ご、ごめんなさ……い……」
「謝るなよ、」
軽く自嘲気味な声で笑った大石先輩を、精一杯、私は両腕で抱きしめた。
「お前に”ドキドキしたい”って言われて、俺、すぐに嫌だって思ったんだ。いつ崩れるかわからない恋のドキドキを、今更何でだよ？！……って」
「………………」
両手一杯に抱えた大石先輩を見上げると、困ったような顔をした先輩が、私を見下している。その瞳は、ひどく優しい光を宿す。
「お前は悲しい思いとか、苦しい思い……そんなにしたいか？ ふざけるな！って心底思ったし。そう思うと、すごく腹も立ったよ」
｢………………｣
静かだが、厳しい口調で語る大石先輩から視線を外し、瞼を伏せた私。
先輩の胸元に額をあて、語られる言葉をじっと黙って聞く。
「これでも、ちょっとしたことに揺るがない２人になるまで、大変だったし……」
ちょっと項垂れた私の旋毛に顎をのせ、大石先輩は小さく笑う。
「……うん……」
私は、大石先輩の言葉にコクンと頷いた。
小さな芽だった恋が、ここまで育つのに体を張って護ってくれたのは、私の大好きな、優しい人。
私の知らないうちに、しっかりとした根の張った恋は、2人の間に大きく育ってる。
「……」
優しい声音で大石先輩が私の名を呼んだ。
ゆっくりと顔を上げた私も、柔らかな声音で答える。
「……なぁに？」
「お前、さ……」
ポツリと一言呟くと、やや言い難そうな表情をした。それから、私を見下ろした後、ふぃっと視線を外す。
「……どうしたの？」
怪訝な顔をした私は、大石先輩を見上げて尋ねた。
「俺との恋……そんなに、楽しかったのか？」
そっぽ向いた大石先輩が、恥ずかしさと戸惑いを含んだ声音で私へと問う。
「うん。……うん、楽しかったよ！ だから、恋でドキドキした頃に戻りたかった！」
……とっても楽しかった。
小さな恋が輝いて見えた遠い日々。
本物の想いになるためにあった、ドキドキとする恋のトキメキ。
その気持ちが嘘じゃないってことを知って欲しくて、満面の笑みで力強く頷いて見せた。
「……そっか」
私の体を少し強く抱き、大石先輩は自分の額を私の首筋へと静かにあてた。
何も語らずに、私は黙ったまま大人しく抱かれる。
大石先輩の肩越しに見える風景は、飽きる程に見慣れた室内。
だけど、どこかいつもと違って感じられた。
しばらくの――沈黙。
けれども、それは決して息苦しいものじゃない。
何も語らなくても、互いが分かり合えるような、優しい時間。
さっきまでは嫌だと思っていた雰囲気が、今は、とても心地の良いものとなる。
大人しくしている私の耳元で、不意に大石先輩が囁く。
「この恋にドキドキは必要無くなったけど、を好きな気持ちは、これからも続くよ」
私の耳へと届けられた言葉に、目を大きく見開いた。
正直、大石先輩がクサイ……じゃなくて、照れるようなことを言うなんて珍し過ぎる！
それに、どこか似合わないような気がした。
私は恥ずかしくなって、自分を抱きしめる大石先輩の体を押して距離をとると、少し茶化すようにして笑って答えた。
「……ど、どうしたの？ き、急に……珍しいなぁ〜！」
自分の頬が少し赤くなりだしたのが判る。熱が帯びる頬に両手をあて、チラリと大石先輩を見た。
すると、私とは対照的な表情をしている大石先輩。
とても落ち着いた顔でいて、その双眸は、しっかりと私の姿を捉えていた。
そして、ゆっくりと口が動き、紡がれる言葉。
「ドキドキしなくても、好きな気持ちは続く。……恋のカタチは変わるけど、無くなったりしないんだ」
あまりにも真剣な表情で語った大石先輩を見た私は、茶化す気分にもなれず、恥ずかしさに赤く染まる頬で、素直にコクンと頷いて見せた。
「…………うん」
私を見下ろしていた大石先輩は、私の前髪を梳くと柔らかく微笑む。
「お前、空気になるのも、水になるのも嫌だって言ったけど、俺は……空気も水も無かったら死んでしまうぞ？」
人が生きる上で、もっとも重要なもの。
在ることが当たり前、と思えてしまうもの。
でも、それらは決して当たり前に在るものじゃない。
愛情も、また然り。
｢…………うん、知ってるよ｣
目の前にいる大好きな人へ、微笑んでみせる。
「ははっ、そうか」
困ったように笑った大石先輩の目が、私へと近付く。
慰めの言葉を語るように、寄せられた唇。
大石先輩の瞼が伏せ気味になると同時に、私の左頬に優しい唇の感触。
私はいつも幸せだと思わずにはいられなくなる、私への想いが込められた
幸福な恋の呪文。
こうして、私の悲しさにいつも目隠しをしてくれる、私の大好きな人。
「……久し振りに、ケンカ……しちゃいましたね」
肩を竦め、てへへっと笑って見せた私へと、申し訳なさそうに苦笑で答える大石先輩。
「そうだな。……泣かせて、ごめんな？」
先輩の大きな手は、私の頭をポンポンと軽く叩く。
柔らかな表情を見せると、少し首を右へと傾けて笑う。
昔から何１つ変わらない、大石先輩の仕草。
優しい風を吹かせ、私の負の感情を取り払ってしまう不思議な人。
最後に、手元に残されるものは――
大好きと感じる”心”と、愛しさの温もりを教える”体”。
それは、大石先輩が”傍に在ることを覚えるための術”。
私が俯いて長い髪で表情を隠すと、躊躇いがちにかけられる声。
「まさか……まだ泣いてるのか？」
……どうしよう……。
大好きだって、心で感じたいと思う。
優しい温もりを、体で感じたいと願う。
先輩を困らせるようなおねだりをしたくなった私は、恥ずかしくて顔を上げれないまま、ポソッと呟く。
恋人へのささやかな……おねだりを。
「ううん。泣いてないけど……チュウ」
”キスしたいな……”って言えば良いんだろうけど、恥ずかしすぎる！
私には、”チュウ”って言うのが精一杯。
単語だけでは、ちょっと恋愛に疎い先輩に解るはずも無い。
中途半端に切れた言葉に、大石先輩が首を傾げる。
「ん？ 何だい？」
柔らかな口調で、私の切れた言葉の続きを問う。
おねだりをすることは、かなりの勇気がいることだと久し振りに体感する私。
忘れていたはずの……ドキドキと跳ねる心の音。
よくよく考えれば、エッチなコトを毎回する度に、”してもいいかな？”とか、”抱いてもいい？”なんて先輩に尋ねられて、ムードが無いと思ったけど……。
……言う方は、いつもこんなにドキドキするのかな？
息苦しいほどの、したくてたまらない気持ち。
おねだりを断られるかもしれない、眩暈がしそうなほどの不安。
それらを全て呑み込んで、全て言葉にするから……。
――聞き逃さないで――と、祈る。
そんな気持ちを込め、上目遣いでチラリと大石先輩の顔を見てから、口を開いた。
「今すぐ……チュウ、して？」
言った言葉は、声の震えと上擦りが酷い。
きっと、今の私は顔が真っ赤だ。
当然、大石先輩は私の言葉を聞くと、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした。
「…………は？」
予想通りの反応と、先輩の口から零れた聞き返しの言葉。
は、恥ずかし過ぎる！ ”私の勇気を返して！！”っていうか、返せっ！！！
こんなおねだりを、２度も言えるわけ無いよぉ〜〜！！
――大石先輩の、ド・ン・カ・ン〜〜！！！
鳴り止むどころか、逆に騒がしく鳴り響く私の胸の音。
「えっと……？」
大石先輩がそう言いながら、俯いてる私の顔を覗き込んだ。
「バッ……バカ〜〜！ コッチ見ないでよぉ〜！！」
「うわぁ！！ い、痛いぞ！」
私は、大石先輩の視線から逃れたい一心で、大石先輩の顎を両手でギューっと力強く押し退け、慌てて床へと身を伏せた。
……もう、思いっきり泣いちゃいたい。恥ずかしいよぉ〜！！
そう思うと、視界が歪み始めた。
「……ふぇ……っ……」
僅かに漏れる嗚咽を合図に、ぎゅっと瞼をつむると涙が床へと忙しく落ちる。
しかし、落ちた私の涙が濡らしたものは床ではなく、見慣れた大きな手。
私の背に感じる重みは、愛しい人の温もり。
「まったく……。急に逃げたと思ったら何で泣くんだ？ まだ何も答えてないぞ、俺は」
床へ伏せた私の頭に、覆い被さるような体勢をとった大石先輩が顎を乗せて話した。
「だ、だって！ ……き、聞き……っく、返したんだもぉ〜……っ、く」
不細工この上ない程の赤い鼻先をグズグズと鳴らす私を、左側から覗き込んだ大石先輩が言う。
「あのな、。……あれじゃ、聞き返したくなるよ」
大石先輩は困ったように話しながらも、声が笑っている。
「ふぇ……っく。な、なん……っく。ひぃぃ……っ、く。なんでぇ〜〜……っく！」
私は面白く無いと思い、赤い両頬をプゥと膨らませた。
浅い溜息をついた大石先輩が、私の耳元へ頬を寄せる。
「……本当に、キスだけで良いのかい？」
「どぉ……っく。どうぅ……っ、して？」
「”どうして？”、だって？ ……、あんなに緊張して意味深に言われたら、俺でなくても聞きたくなると思うぞ？」
「……？……」
キスしたいと思って言った言葉を、どうして聞き返される必要があるのか、私には全く理解出来ずにいた。またもや、浅い溜息をついた大石先輩は、私の髪を微かに揺らすと話し出す。
「俺に対する”誘いの合図”と読み取ってもいいんだろうか？、ってな」
大石先輩への誘いの合図……って、何のコト？
キョトンとした顔で体を左側へと捻った私に、”あぁ、やっぱり違ってたんだな”と、言いたげな顔で苦笑する大石先輩が見えた。
その表情を見て、”誘い”の意味をハッキリと理解出来た。
私は慌てて口を開く。
「そ、そんなつもりじゃ、無かったの！」
「だろうな。……お前の今の顔を見みれば、判るよ」
私の顔にかかる髪を梳いた大石先輩が、ゆっくりと唇を寄せる。
「ま、待って！ 大石先輩！！」
「……ブッ！！」
近付く形良い唇を片手で押さえ、私は大石先輩の動きを制止する。
口を急に押さえられた大石先輩が、目を剥いて私を見た。
「あのね！ やっぱり……」
私は思い切って言おうとしたが、途中で言葉を詰まらせて大石先輩を見詰めた。
「……キス、しないで欲しい？」
眉間を寄せ、ひどく優しい眼差しをした大石先輩が、私の心を推し測る。
「ううん、違うの。……そんなつもりでも……イイよ？」
頭を振り、恥ずかしさのあまりに目を泳がせて答えた私。
「……ははっ。……分ったよ」
大石先輩は目を少し見開くが、すぐに三日月をかたどらせて笑って頷く。
優しいオオカミの唇は、私の赤い頬をなぞった後、鼻先をゆるく噛んだ。
冷えて気持ち良い床の上で、最愛の人から唇の温もりを受けながら、体の輪郭を布上からなぞられ、私は恥ずかしさに身体を捩る。
ひどく優しい手付きは、どこか艶かしい。
抗うことをやんわりと咎める大きな手が、私を求めて肌の上を彷徨う。
羞恥心を煽り、快楽を望ませる動きに、私は瞳を閉じた。
「はぁ……ぅ……ん」
濡れた息と、共に漏れる声。
静かな室内に、荒い呼吸と衣擦れの音が響く。
互いの肌の温もりがそうさせるのか、どこかへと浮遊しそうな気持ち良さを貪欲なまでに求める。両腕を伸ばして、私は形の良い唇に頬を寄せた。
私の珍しい動きを当然見逃す事の無い大好きな人は、 自分の高揚する気分を抑え、私へと気遣った言葉をかける。
「どうかした？ ……あ、背中痛かったか？」
「ううん。ただ、もっと……ギュッとして欲しい」
私の返した答えに、大石先輩は柔らかく触れていた手を止めた。
我ながら、贅沢なことを……やっぱり言っちゃった？
でも……今、どうしても少しも離れていたくないんだもん。
……ちょっとの隙間でも、開いちゃうのは嫌だ！
大石先輩の首筋にギュウ〜としがみ付いた私は、まるで親の首へとぶら下がる小さな子供の姿と然程変わらない。エッチの最中だと言うのに、ムードもへったくれもない格好。
これじゃあ、先輩をムード作りがヘタなんて言える立場じゃないよ、私……。
大人気ないと思った私は、先輩の首へと絡ませていた腕を解き、床上へと身体を戻した。そんな私を見下ろした大石先輩が言う。
「ギュッとか？ そうだなぁ……それじゃ、こうしよう」
「えっ？！ ギャ〜！！」
床上に寝そべる私の身体に両腕を回すと、大石先輩は勢いをつけて私を抱え起こし、そのまま太腿の上へ座らせる。抱え起こされる勢いの良さに、私の顔は驚きに満ちていた。
「どうした、？」
大石先輩は平然として私へと声をかけた。
「ど、どうした……って！」
私は口をパクパクとさせ、短く答える。
「ドキドキしたかい？」
悪戯っ子のように、口の端を上げる大石先輩の顔を私は凝視する。
「するに決まってますよ！ もう！！」
広い胸元で抱えるように、ギュッと抱きしめてくれた大石先輩は、ちょっと怒って膨れようとした私の耳元へと、優しい唇の温もりを落とした。
ブラウン管の中の恋人同士のように、初々しい恋じゃない。
幾年月も過ごせば、互いに馴染む空気感、肌の温もりと愛情。
それでも、日常のどこかに未だ隠れる恋のトキメキ。
戻れない時の道を戻りたいと願わずに、進む道から探し出そう。
どこか忘れがちになる想いも、両腕に抱かれれば、きっと思い出すから。
――”大好き”
永遠に続いていく、恋の原点。
隣の芝生が青いかどうかなんて、関係無い。
自分の芝生が青々として、瑞々しければ、それで良い。
大切なのは、大好きな人が傍に居るということが当たり前に在るものじゃない、ということ。
アナタを恋しいと想うのは、恋情。
２人で居ても、初々しい片想いな恋。
アナタを愛してると想うのは、愛情。
２人で居るから、成熟する両想いの恋。
変わりゆく、移りゆく、恋のカタチ。
それでも、永遠に続いていく恋。
――”大好き”
それが互いを想い合う、全ての原点。
それこそが――人間の愛し愛されるということの、幸福への回帰。
【END】