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敬意を払い、忠誠誓って、この手に１つ。
情愛抱き、柔らかな頬の上へと、また１つ。
額にかかる前髪を梳き、尊敬の念込め、更に、また１つ。
全てを捧げて麗しく、そして、色鮮やかに……。
終生、記憶に残る口付けを――。
鼻息荒く、私は目の前に聳える戸建住宅の２階部分を見上げる。私の思惑通りに動いてくれない手強い相手は、今――あの部屋に居るらしい。
――今日こそは、牙城を……陥落させるぞ〜っ！
何てったって、今日の私には――コレが、あるんだもんね！！
左手で提げる小さな紙袋の中に、強敵の好きそうなDVDが２つ。私は熱い闘志を燃やしながら、敵陣の門に備わるインターホンのボタンを右手の人差し指で押した。
迎え入れられた強敵の本陣は、私が足繁く通って何年にもなる大石先輩の自室。
空調の効いた室内は快適で、ＤＶＤ鑑賞にはもってこいの環境だ。大きな水槽の住人達に軽い挨拶を済ませ、室内をぐるりと見渡す。特に、いつもと代わり映えの無い室内に、私は内心ガッカリした。浅い溜息を吐き出すと、炬燵台の上に用意された２つのガラスコップのうちのどちらかが、カランと氷の溶けた合図を響かせた。
大石先輩とのお付き合いも順調な高校２年生の私は、。
中学時代から続けているテニスの大会を、好成績で終えた夏のご褒美とも言える数少ない夏休みを、楽しく過ごそうと恋人との逢瀬を選択した。ただ、私の思惑は楽しく過ごすだけで無く、”思い出深く”してやろうと画策している。
――夏といえば、”大人になる為の初経験”って……あっても良いんじゃないの？
私の恋人は、今年大学生になった生真面目な優等生。加えて頑固で、恐ろしい程にストイックな性格。なので、親に言えないような”悪い経験”を率先してするタイプじゃない。大石秀一郎――彼は、そんな人だった。テレビの前にしゃがみ込んでる大石先輩にそう評価を下し、私の左側に見える広い背を、溜息交じりで見下ろす。
――私が何歳になったら、大石先輩と……”ひと夏の経験”が出来るんですかね？
”夏”と言えば、開放的な季節――。
肌の露出も多ければ、肌が触れ合う機会も多い。狼になりたがる男達は、アノ手、コノ手で、恋する乙女を誘惑するものだ――と言うのに、この優等生な年上の恋人ときたら、まるで”ひと夏の経験”に興味の無い顔をし続けていた。
――まさか……大人になるまで、”絶対しない”とか……思ってないですよね？
でも、大石先輩なら――有り得るかも〜〜っ？！！
広い背から視線を外し、今度は右側へと目を泳がせる。窓ガラスを隠すのは、夏らしいレースカーテン。それを複雑な気持ちで見詰めた。私が思い悩んでると、不意に世界一大好きな恋人から声が掛かる。
「さぁ、準備できたぞ。、持ってきたＤＶＤを貸してくれ」
テレビの前でしゃがむ大石先輩が、彼の背後に立つ私を振り返り、右手を私へ伸ばした。私は慌てて床上へと座り、足元にあった手提げの紙袋から、まず１つ目に観る為のＤＶＤを取り出して大石先輩へと手渡す。
「大石先輩が本で読んだって言った”トワイライト”シリーズのDVDですよ？」
大石先輩がＤＶＤを手にしたところで、私はケースの面を指して言った。
「トワイライトか！ちょうど、俺も観てみようかと思ってたところなんだ」
嬉々とした声で喋る大石先輩は、パッケージを裏返し、裏面へと軽く目を通す。喜色満面の笑みとは、今の大石先輩の顔を言うのだろうか。そんな思いで先輩を見た私だが、早々にお菓子が置かれる炬燵台へと場所を移した。
「これでＯＫ。ところで、。勉強も兼ね、音声は英語、字幕は日本語にするかい？」
ＤＶＤプレーヤーのリモコンを手にした大石先輩が、私の右側へと並んで腰を下ろして問う。その言葉に、私は顔を顰め、肩を竦めて見せた。 右傍に座る大石先輩が、可笑しそうに笑いながら、薄っすらと汗を掻き始めるガラスコップを手元へと寄せる。
「冗談にしては質が悪いですよぉ〜？”日本語吹替え”状態で、お願いします！」
寄せられたガラスコップに両手を伸ばした私は、口を尖らせて答えた。臍を曲げた顔をすると、未だ笑う大石先輩が、私の機嫌を問うように左手で私の頭を一撫でする。
「了解。それから、……これでも食べて、ＤＶＤ観る迄には機嫌直しててくれよ？」
少し困った顔をした大石先輩が、私の大好きなお菓子の入った籠を左手で引き寄せた。籠に山盛り状態のお菓子へと右手を伸ばした私は、大石先輩へと答える。
「恋人に言われちゃ、仕方ないですね。……あ、ティッシュ箱もココに置いてください」
私は大石先輩の右側の床上に下ろされているティッシュ箱の置き場所を、炬燵台の上に指定した。
「お前……泣いちゃいそうで、心配なのか？」
意外に思ったのだろう。大石先輩の声が、小さな子供へ訊くように私へと問う。
「まさか！お菓子で汚れる指先を拭く為ですよぉ〜？」
目を真ん丸にするぐらいに驚き顔をした私は、お菓子の包み紙を開きながら、即答した。カサカサと騒がしい音が大石先輩と私の間に起こる。
「ははっ！なるほど、な。……らしい答えだよ」
一際楽しげな笑い声を立てた大石先輩が大きく頷き、隣に座る私を見下ろした。優しい眼は私の姿を映して三日月を模る。それを見た私の心が、チクリと痛んだ。
「わ、笑わないでくださいってば！”トワイライト”を早く観ましょうよ！！」
胸の痛みよりも恥ずかしさの勝る私は、胸の痛みを忘れるように、大石先輩から奪い取ったＤＶＤのリモコンの再生ボタンを力みながら押した後、そのリモコンを炬燵台の上に置いた。
ＤＶＤプレーヤーが稼動を始めた音と共に、テレビ画面に映像が映り出す。楽しそうに笑った大石先輩も、私と先輩の間にティッシュ箱を置くと、画面へと意識を集中させている。こういう時に意識を集中させるのが早い上、更に耳聡い。私が画面へと意識を集中させずに、お菓子山盛りの籠へと右手を伸ばすと、大石先輩の左手が先程置いたリモコンへと伸びた後、それを掴んだ腕の肘で私の脇腹を軽く突く。
「今から始まるぞ？、お菓子ばかり食べてると、いいシーンを見逃すぞ？」
クスッと軽く笑う大石先輩は、先輩の左隣に座る私を軽く見下ろし、リモコンを器用に操作しながら、音量の調整をした。
――実は、ここだけの話だけどさぁ……。
昨日、リョーマ君や菜々子さんと一緒に、先に観ちゃったんだよね。
……てへっ！
ちょっとだけ、エッチっぽい雰囲気のキスシーンがあるなぁ〜んて、口が裂けても大石先輩の前では言わないけどね♪
そう思った私は、言葉を胸の内で全て留めておく。
「わ、分ってますから！大石先輩も画面を見ててくださいってば！」
お菓子を取り損ねた右腕の肘で、私も大石先輩の左脇を軽く突いた。これが映画館の一室ならば、年若いバカップルだろうが、生憎、ここは大石先輩の自室――。大石先輩の寵愛を受ける水槽内の天使達へと見せ付けるように、こっそりとイチャついてみる。
――これは……なかなか、イイ感じじゃない？
横目で恋人を見詰め、”ふふっ”と小さく笑った私の頭に、急に圧力が加わった。テレビ画面では、”twilight”の文字が浮ぶと直ぐ消え去り、メニュー画面へと切り替わったところ。1番最初に主人公達が映り、自分が森を駆け抜けているような視点の映像に切り替わった後、そこには吸血鬼のカレン一家、さらに主人公達と敵対する吸血鬼へと映像が移り変わって、一巡する。それを見詰めたままの大石先輩が、私へと喋りかけてきた。
「お菓子取って良いから、ちゃんと画面を観てろよ？」
大石先輩が困ったように苦笑し、浅い溜息を漏らす。私が答えるよりも早く、随分と溶け出してしまっただろう氷が、カランと涼しげな音を鳴らした。画面では鬱蒼と緑が茂る中、小さな泉で休息してた鹿が何かに気付き、駆け出す。始まり出したトワイライトのオープニングを見詰めながら、私は小さく頷いたのだった。
主人公イザベラが、母親とその再婚相手から離れ、実父の家へと身を寄せる事にするところから物語が始まり、恋の相手・吸血鬼のエドワードと出会う。彼の不審な態度や行動を気にし始めるイザベラ。幼い頃の知り合いのジェイコブから知らされるエドワードに関する話で、イザベラは彼の正体を知る――。相手が人心を読める吸血鬼だと判っても走り出した恋を止める術を知らないイザベラは、やがて、吸血鬼のエドワードと恋に落ちる。人の血を好む吸血鬼と、守る術の無い無防備の人間の娘との関係は、エドワードの類まれな強い自制心の上に成り立つ、実に、危うい恋となっていた。
テレビ画面に映し出される場面は、吸血鬼エドワードと人間の娘イザベラが、森の深い場所でエドワードの正体について話し合うシーンになっている。彼の一家は、”人間を狩らない菜食主義者”の集まりで人間を狩るのは禁じられているのだ、と言うエドワードにとって、渇望して止まない程の人血は、吸血鬼になって初めてだとイザベラへ語る。エドワードはイザベラに対し、自分への恐怖心を募らせるように仕向け、距離を置こうとしていた。しかし、ライオンという名の吸血鬼は――既に、か弱き羊という名の人間に恋をしている。互いが離れる事など、不可能に近い。静かな森で向かい合い、イザベラとエドワードは見詰め合う。ロマンスの雰囲気は一気に全開だ。
「―――バリ……ッ」
昨日観た所為で少し飽きていた私は、お菓子籠に手を伸ばし、そこからお煎餅の袋を取り出していた。開封までは、比較的静かに出来たものの、口に入れて噛み砕いた途端に、賑やかな音を響かせた。
――ヤバッ！
今……お煎餅の音、すんごい音したよね？！
そろっと目だけを動かし、右隣の大石先輩を観た。今のところ真剣な表情でＤＶＤを観ている横顔が見え、私はホッとした。どうやら、ＤＶＤ観賞の邪魔には、ならなかったらしい。出来るだけ音を立てず、お煎餅を小さく割り、それを摘み、口へ運んだ。
気を張り、お煎餅を食べる事に集中してた私が、お煎餅を食べ終わりかける頃に画面へと眼を移すと、いつの間にかイザベラの自室に変わってた事を知る。大分、話が進んだようだ。母親と携帯で電話するイザベラが、突然現われたエドワードに驚く。母親との電話を早々に切り、窓から入ったエドワードと会話を始めた。２人の親密な空気は、一瞬にして、恋の空気を色めき立たせる。
『そのまま、ジッとして――。動かないで……』
室内に響いたエドワードの音声に、私はドキッとした。このＤＶＤで、恋愛濃度の急上昇する場面だからだ。なんせ、あのエドワードとイザベラが唇で愛を交わす。その生々しいエッチさに、私は昨日の時点で度肝を抜かれていた。今日、度肝を抜かれる番なのは、私の恋人だ。朋ちゃんや芝さんに、”ストイック”と評されてる恋人が、どんな顔を見せるのか。それは、私の密かな楽しみでもあった。
画面では、イザベラに慎重に近付き、距離を縮めるエドワードの伏目がちな表情が美しい。まるで、口付けに戸惑いを見せる思春期の少年のようだった――。イザベラの浅い呼吸が、やけに耳につく。近付き過ぎた２人は、まず、鼻先を触れ合わせた。恋の駆け引きのような展開を楽しみ、焦らすかのような感じが、何とも言えないものだった。落ち着かない気持ちになり始める私は、最後のお煎餅を口へ放り込んで考える。
――まるで……。
他人様のラブシーンを、親と同席して観てる気分だよねぇ〜……。
居心地の悪さを感じた私は、そんな事を不意に思った。
テレビ画面に映るのは、イザベラに唇を重ねる事が出来たエドワードがホッとした笑みを見せたところだ。そこから、暫く続くキスシーン。ちゅ、と鳴る口付けの音は私も聞き覚えがある。自分の呼吸と心拍数が急上昇してしまいそうな気分になった。気恥ずかしいはずなのに、ついつい、画面に目がいく。こんな時ばかりは、自分の好奇心の強さを恨めしく思った。画面に映る恋人達の交し合う口付けが、回を重ねるごとに強い求めへと変わっていく。
――こんな風に、その……キスしてたかなぁ〜……？///
何となく思い付いた疑問に、いつも自分が与えられる口付けを思い返す。少し乾いた唇に、柔らかく解されるような口付け。優しい求めに応じるように唇を押し付ける。乾いてる唇が、溶け出してしまう錯覚に落ちるぐらいに――。
私が身を浸らせようとした思考を遮るように画面が移り変わる。イザベラの香りの誘引に負けまいと強い自制心をもってエドワードが飛び退った。バンと部屋の壁に当たる音を立てる。それを聞いた途端、私の身体は驚きで、ビクッと震えた。そこで、私は自分の正常な思考を取り戻す事が出来た。
お煎餅を食べていた手を拭いていない事に気付いた私は、右手をティッシュ箱へと伸ばした。そこで、不意に何かが私の手へと触れる。だが、そう思った瞬間には、自分の右手が何か温かいものに捕らわれていた。
―――ドキーーーーーーッ！！！
私の心臓が、一際、大きく跳ねる。
自分の右手に感じる温もりは、身に覚えがあるものだった。人肌の温かさを持ち、私の手の甲がスッポリと覆えるものは、恋人の掌以外には在り得ない。
――まさか、私……？！
ひょっとしても、しなくても――。
生唾を飲み込むと、咽喉がゴクリと大きく鳴った。
――い、今、ココで……･？
本当に、大石先輩に食べられちゃうのぉ〜〜〜っ？！！////
バクバクと忙しなく鳴り出した自分の心臓が身体を突き破って飛び出そうだ。もう、どうしたら良いのかも判らないぐらいに――。
「――？！」
私は素早く左手を炬燵台の面へ着き、ガタンと大きな音を鳴らした。声にならない程の驚き顔で、自分の右手を掴んだ人物を確かめる。
「あ、ごめん……」
すんなりと謝りの言葉を口にした大石先輩が私の手をパッと直ぐに放した。どうやら私のように、何かを目論んでの行動では無いと一目で判る。それは、恋人の瞳が涙で潤んでるのが見て取れたからだ。どうやら、主人公達のどちらかの心境に、大石先輩は共感したのだろう。
「あ、いえ……///」
”穴があったら入りたい”――。私の心境は、ちょうどそんなものだった。俯き加減になった私は、恥ずかしい気持ちで言葉を返した。
「ティッシュペーパーを取ろうとしたら、お前の手を先に掴んでしまったよ」
大石先輩は画面から視線を外すと、先輩の左隣に座ってる私を見て肩を竦める。おどけたように話した大石先輩が少し可笑しそうに笑い、ＤＶＤ観賞の続きをする為に画面へと視線を戻した。
――エドワードみたいに、”考えが読める”特技を先輩が持ってなくて良かった。
大石先輩の横顔を盗み見た私は、視線を正面へと移し、胸を撫で下ろす。気付けば、テレビ画面の中のイザベラに、危険が訪れようとしていた。
「原作のように……とはいかないが、これはこれで面白かったな！」
ＤＶＤプレーヤーの電源を落としながら、ストイックな私の恋人が笑って話す。炬燵台の面に顎先を乗せた私は、お菓子籠をぼんやりと見詰めていた。
――なかなか思惑通りには、いかないもんだよねぇ〜……。
エドワードとイザベラのまったりとしたラブモードから一転し、人血好きの吸血鬼に狙われたイザベラの危機でハラハラの新展開となって、ますます、ＤＶＤから目が離せなくなったらしい大石先輩は、本当に画面に釘付けのままだった。結局のところ、最後まで観た後、さらに２本目のＤＶＤも、勢いで観てしまい――。昼間の真っ青だった空の色も、今は青紫色と橙色のグラデーションに染まっている。これでは、”ひと夏の経験”どころの騒ぎじゃない。日常の部活休みが、また１つ増えたに過ぎなかった。
――私の”トワイライト観賞計画”も、完全な失敗で終わっちゃったなぁ……。
あの、ま〜ったりとしたキスシーンでさえ、私と大石先輩には、全く影響ナシ！
大石先輩の性欲を抑える理性は、そう易々と……落城しないみたい。
これぞ……”Ｍｒ．ストイック”って、感じ？
溜息混じりに、私はお菓子籠へと右手を伸ばした。
「そうですね……」
言葉を短く返しながら、チョコレートの入ったものを探し当てた私は、それの封を切り、口へと放り込む。
「は随分と機嫌が悪いな？……お菓子の種類、足りなかったかな？」
私の右隣に腰を下ろし直し、定位置に戻った大石先輩が籠の中の減り具合を覗き込んだ。
「そ、そんな事は無いですよ……」
炬燵台の上に散らかしたお菓子の包装紙類を、いそいそと両手に集めた私はそれを救い上げ、ベッド傍に置かれるゴミ箱へと一気に捨てる。包み紙達が、我先にと競い合うようにして、ビニール袋と擦れ合っては、ワシャワシャと騒がしく落ちていった。俄かに起こった音が静まるのを待つように、私はゴミ箱の中を眺め続ける。すると、急に自分が翳った。
「、どうしたんだい？」
私の背後に回り込んだ大石先輩が、後ろからゴミ箱を覗き込んだ後、私の肩に大きな手を掛け、軽く揺す振った。軽い振動を受けた私は、ゆっくり振り向く。
「……ただ、ちょっと……」
自分より高い位置にある賢しげな瞳を見上げたが、そこから目を逸らして、俯いた私は口篭った。親に叱られる前の落ち着きの無い子供のように、だんまりする私は、自分の服の裾を握ったり、摘んだりして遊ぶ。
――私だって……高校生だし、大石先輩なんか大学生だし！
……思い切って、訊いても……良いと思うんだよね。
小説では、エドワードも『人間じゃないけど、”男”ではある』って言ったし。
正真正銘の、”人間の男”だったなら――。
”性欲は、備わってて当然なもの”……じゃない？
でも、大石先輩ってば、エドワードとイザベラのキスに動じるどころか、感極まって泣きそうなぐらいだったけど……？
――もしかして……。
イザベラは、エドワードの”そういう対象”であったとしても――。
私は、大石先輩の”そういう対象”から外れた、”対象外人物”――とか？！
服の裾と戯れてた指先を１度止め、今度はギュッと服の裾を握り締めた。嫌な汗が背を伝う気がしてならない。俯いたままで、私は唇を軽く噛み締める。
「言いかけて止められたら、気になるだろ。……一体どうしたんだ、？」
モジモジとする私を珍しそうに覗き込んできた大石先輩が、困ったような笑いを漏らした後、私の旋毛へと手を乗せ、そこを大きく撫でながら、柔らかな口調で私へと問い掛けた。優しい撫でに促されるように、私は顔を上げる。
「大石先輩は……”エッチなコトをしたい”って……思わないんですか？」
幾度か瞬きを繰り返した後、私は重々しく口を開いた。思い切って尋ねた問いに恥ずかしくなり、私の両頬へは急速に熱が集まる。目の前に居る大石先輩をチラリと見ると、私以上に顔を赤く染め、口をパクパクと開閉させていた。
「な……っ？！な、何だって〜〜っ？！！////」
目ん玉が飛び出そうな勢いの驚き顔を見せた大石先輩が、やっとの思いで出した声は、１階廊下まで絶対に筒抜けだっただろう。私は両手で耳を押さえ、熟れ過ぎたトマトのように赤くなってる大石先輩の顔を上目遣いで見る。
「だ、だってぇ〜……！」
私は目を細め、耳先まで真っ赤になった大石先輩の顔を軽く睨んで、唇を尖らせては不満げな声を上げた。目を剥いて赤い顔をしてた大石先輩は、目の前で大きく深呼吸を始める。３度程呼吸を繰り返した大石先輩が、視線を床へと落として口を開いた。
「は、その……」
言い辛い事なのか、大石先輩は喋る途中で言葉を切る。俯き加減になる大石先輩の耳先は、未だに赤いままだった。
「な、なん……ですか？」
私は背を丸め、両腕を額前で交差させた姿勢で身構え、その腕の隙間から、恋人の顔を覗き込んで、恐る恐る訊く。雷は、大石先輩の怒号だけとは限らない。時として、雹や霰のように拳骨が降ってくる可能性も十二分に有り得る。
――く、来るかな……？
大石先輩の、”怒れる雷”が―――。
大石先輩の怒声の大きさは、全く予想が付かなかった。私は落ち着きの無い大石先輩の素っ頓狂な声が、１階の玄関扉をぶち破って外まで届かない事を、目を瞑って必死に願う。しかし、私の願いは無用なものなのだと覚る事になった。
「……その……”したい”って、思うのか？」
平静さ取り戻そうとする大石先輩の声には、やや震えがあるものの、普段の声と、然程変わりの無いものだった。しかも、口調は声のトーン以上に、慎重さを極めている。大石先輩の真っ直ぐな眼が、私の目には提示される難題の内容を吟味してるかのように見えた。
「してみたいですよ！だって、ちゃん達も経験組だし、私だけ違うなんて！」
私は、真っ直ぐに恋人を見詰める。”私は子供じゃない”――そんな思いで、私が言葉を口にすると、まだ赤みの残る恋人の顔に、大石先輩の困惑の色が読み取れた。
「と英二が経験済みとしても、俺達には……何も関係無い。……違うか？」
頑なな意志が折れる事は無いと言わんばかりの表情で、大石先輩は私を諭す。真っ直ぐな眼で覗き込まれた私は、その途端、自分の考えが間違ってるような気になった。
「それは、そうですけどぉ〜……」
言葉を濁すような話し方をした私の尖った唇からは、尻すぼみな声が漏れる。不満タラタラな気持ちでいる私は、炬燵台上に置かれるお菓子の入った籠を両手に掴み、目の前に居る大石先輩から背を向けた。人質に取られたと言いたげに、お菓子籠の中では個別包装紙が摩擦を起こし、私の両手の中でガサガサと抗議の声を上げる。
――所詮、”他所は他所、ウチはウチ”……なのかぁ〜……。
私、また……お子ちゃま扱い、されちゃってるじゃん……。
私の好奇心は”何でも強請る子供の欲と同じだ”と、大石先輩はそう小言を言いたいのだろうか。私は俯き、両手の中にあるお菓子籠をジッと見詰めた。私がだんまりを決め込んだところで、大石先輩が大きく溜息を吐く。
すると、衣擦れの音がし、大石先輩が床上に座る姿勢を変えた。ゆったりと構えるように胡坐をかき、両腕を組む。最近になって気付いたが、大石先輩のこの座り方は、どうやら、しっかり膝を交えて話をしようと考えてる時が多い。今回の場合、じっくりと”お説教”する気なのだと、否が応でも私には解った。
「……それじゃあ、。お前、さっきは酷く驚いた顔したけど……何を思った？」
少しの間を空け、何やら考え込むような顔をした大石先輩が口を開き、私へ問う。その声はとても静かで、説教をする時のような怒りを含んだ声とは少し違っていた。何かを見極め、物事を冷静に捉えて判断を下そうとする時の声に近い。
「――え？」
大石先輩の質問よりも声音に気を取られた私は、思わず、俯くのを止めて背を振り返り、問い返してしまった。随分と間の抜けた顔を大石先輩へと見せていたようで、私を見てる賢しい双眸が、軽く見開かれる。
「俺が誤って、の手を掴んだだろう？……その時、だよ」
見開かれたはずの恋人の瞳が、音も無く細まる。慎重に問う声の低さに、私は漠然と嘘が吐けない気がした。大石先輩の眼は、私の心を覗いている。正確には、思考なのだけれど――。
急激な咽喉の渇きを感じた私は、両手の中にいたお菓子の籠を床上へと下ろし、炬燵台の上で汗を掻き過ぎたガラスコップへと右手を伸ばした。すっかりと溶けた氷は姿を変え、透明な膜を思わせるように、烏龍茶の液体の上に乗っかってる。薄まる烏龍茶を気にせず、私はその液体を咽喉の奥へと押し込む。酷く温いものが、咽喉元を通り過ぎた。ゴクリと咽喉を鳴らすと、不快な温い液体は跡形も無く、胃へと流れ込んでいく。
「あの時は、”食べられちゃう！”って思っただけで……」
口の中が潤い、ホッとした気持ちでガラスコップを炬燵台上へと戻し、私は話した。つい先程感じた気持ちを素直に口にし、大石先輩へと笑って伝える。すると、どうした訳か大石先輩の眉が急激に狭まり、表情が険しくなった。笑みを顔に貼り付けたままの私は、怒ったような恋人の顔から視線が外せなくなってしまう。
「でも、”怖い”とも……お前は感じたんじゃないか？」
私と視線を交え、また、大石先輩が私の心の中を覗き込んだ。賢しげな瞳は鋭さを増し、私の心に潜む何かを探し出そうとするかのように――。
――”怖い”……？
どうして、私が……？
何で……私が”怖い”って感じたと、大石先輩は……思うの？
真っ直ぐな強い眼に、怯みは無い。大石先輩の眼の強さが、何故か私を戸惑わせた。空気が奪われてしまいそうな感覚に、無意識に呼吸が浅くなる。恋人の室内で奏でられるコチコチと鳴る置時計の二重奏が私を責めるように聞こえ、やけに、私の癇に障った。
「そんな事、無いですよ？！”怖い”なんて、これっぽっちも感じな――」
嘘を吐いた訳でも無いが、口を突いて出た言葉に、私は違和感を感じる。だが、その違和感の理由を、今の私には上手く説明が出来そうに無かった。
「本当に……そうかな？」
大石先輩の眉間の皺が深くなり、賢しい瞳がますます細くなる。訝しげな顔を見せる大石先輩が、私へポツリと問いかけた。
「ほ、本当にって――キャッ？！」
”大石先輩を怖がったなんて、心外です！”と抗議するかのような顔をして見せた私は口を開き、言葉を言いかける。しかし、私は言葉を言い終える前に、口を噤むしかなかった。強引とも言える勢いで、身体の自由を奪われたと思った途端、大石先輩に抱き寄せられた姿勢のまま、今度は床上へと背から落下する。ジェットコースターに乗せられたようなスピード感に、目が回りそうになっていた。
私の背は床に着くが痛みは無い。私を抱きかかえた大石先輩の両腕が、衝撃を和らげていた。大石先輩の身体の重みが、何とも言えない不思議な感覚――。そんな事を思う私だったが、床面と大石先輩の身体に挟まれ、直ぐに窮屈さを覚える。軽い圧迫感にどうしたものかと私が悩んだ時、大石先輩の両腕が私を自由にするかのように解かれた。大石先輩の両腕は、私の顔の両側の床上へ場を移すが、何故か上体を起こす気配が無い。緊張感に欠ける顔で、私は考えた。
――ど、どうしたんだろう……？
まさか、身体のどこかを床にぶつけて、怪我なんてしてないよね……？
冷たい床面を背にする私は怪訝な面持ちで、自分の左傍にあるだろう大石先輩の顔を見ようと、首を左側へと捻る。すると、微動だしそうに無い大石先輩のくぐもった声が耳元で響き出す。耳朶を擽るような温かい息がかかり、私は首を竦めた。
「あの時は”誤り”だったけど、今、俺が……”本気”になったとしたら？」
私の耳元で囁かれた声は硬く、どこか緊張して聞こえる。自分の顔の両側に着かれていた恋人の両腕のうち、左腕が幅を狭め、私の頭を片手で抱え込んだ。押さえ付けられる感覚に、私は身動ぎする事が難しくなったのだと知る。この時、初めて――自分の身に何かが起ころうとしているのだと、私は感じ取っていた。
――え……っ？
い、今から……大石先輩が、ほ、”本気”になるの？！///
俄かには、大石先輩の言葉が信じられなかった。だが、自分と大石先輩の体勢、１つ屋根の下に２人きりの状況に、急激に跳ね上がる心音が、己の身の危険を察知して知らせるような騒がしさで鳴り出す。私の女としての本能は、大石先輩を十二分なまでに”危険人物”だと告げていた。
何も語らなくなった恋人の唇が真横に結ばれると、表情が素になる。一見、沈黙を纏った大石先輩はいつもの大石先輩のように思えたが、１つだけ、目に見えて違うのが判った。それはいつも賢しげに見える双眸が、猛禽類の獲物を狙うギラついた眼と同じだった事――。
「あの、その、ぁ……ん、んん……っ！///」
大石先輩の両肩に掛けた手に力を加え、先輩の肩を押し退けようとしてみたが、少しも離れてくれない。それどころか、身体の密着度が更に上がった。動揺した私の声を塞ぐように、大石先輩の形良い唇が重なる。身体の自由だけでなく、私から呼吸する為の空気さえも奪う勢いで、強く口付けられた。
ドクン、と心臓が一際大きな音を立てると、私は酷く息苦しさを覚える。それと同時に戦慄を覚え、ぞわりと鳥肌が立った。大石先輩の右腕が床上から離れると、その大きな手は、私の脇腹を服の布地上からサークルを描くように撫で、そこからゆるりと身体の脇を通って上へと這い上がる。私は固唾を呑み、更に、瞼を強く瞑った。
――こ、怖い……。
逃げ場の無い私は、とても無防備な形で男の欲に初めて晒される。声を出そうにも、恋人の唇が執拗なまでに唇を塞ぎ続けた。慄きを感じつつも、私はされるがままで居るしか術が無い。目で物を映せない代わりに、耳が必要以上の細かい音を拾い続けた。恋人の浅い呼吸音も、自分の鼓動の速い音も、正確に時を刻む置時計の秒針も――。
「……っ、ぁ……」
唇から微かに漏れるのは、濡れた息だけだった。恋人の動きに恐れを抱きながらも、床に縫い付けられたように身体が動かない。まるで獰猛な獣が、か弱い獲物を捕らえるような、吸血鬼が人間を喰らうような、そんな瞬間のようだった。脇腹を這い上がってきた恋人の手が肩を撫で、更に、私の首筋を撫でた後、首元の左側でぴたりと止まる。添えられるように置かれた大石先輩の掌が熱い。今にも私を焼き尽くしそうな大きな手が、添えられた場所から動かない事を、私は必死に祈った。
――恋人の愛撫に、怯えたくない……。
――恋人に触れられる事に、嬉しいと応えたい……。
それなのに―――。
好きだから、許せるはずなのに――何故だか、とても怖い……。
大好きなはずの、大石先輩が……。
私には……怖くて堪らない――。
震える呼吸で、私は息を呑む。こんな複雑な気持ちを感じたのは初めてだった。矛盾する２つの思いが、１つの心へ複雑に絡まり、同居しているかのよう――。恐怖に歪んだ顔を見せる私へと、大石先輩は掠れた声で呼び掛ける。
「…………」
私を優しく呼んだ恋人の声音が、心に沁みた。
心は私の名前を呼んだ人を好きだと叫んでるのに、身体はその人を受け入れる事を強く拒み続ける。恐怖が、私の何もかもを、バラバラに砕いてしまう気がした。私の置かれる状況がこれ以上悪くなるならば、私は大石先輩へ２度と近付く事が出来なくなるだろう。
”好きと、嫌いと、怖い”――私の感情は胸の内で膨れ上がり、弾け飛ぶ寸前まできている。
「お、大石せ……んぱ……ぃ……」
言葉は、涙声になって震えていた。許しを乞う事も出来なければ、逃げようも無く、もう食べられてしまうしかない。そんな状況下になって、私はとても後悔した。
――大石先輩も、”男”なんだ……。
優等生でも、ストイックでも……ない……。
”ひと夏の経験”に、全く興味が無い訳じゃなかったんだ……っ！！
泣き叫びたくなった私の呼吸が荒くなる。
逃げ出したくて、怖くて、身体が震え上がった。私は大石先輩の肩を押し返した両手をそこから外し、その手で自分の顔を覆う。
――だ、誰か……。
……誰か、私を助けて――。
胸の内で祈るように、私は必死に叫んだ。この声は神様に届くのか、それとも、猛禽に化して見える恋人の心に届くのか。誰にも届かず、虚しい響きとなるだけなのか――。息を詰めた私の首筋に大石先輩の額が当たる。”もう無理、嫌だ――”と、私が思った瞬間だった。
「お前、今……俺を拒んだな？」
浅い息を吐き、小さな笑い声を漏らした大石先輩が、ゆっくりと顔を上げ、私の身体から離れるのが解る。私がそろりと瞼を押し上げてみると、恋人の賢しげな瞳は、傍らで私を見下ろしていた。
「だ、だってぇ〜……ぅ、ぅぇ……っく、ヒック！」
心底ホッとした私は、言い訳をするよりも早く、安堵感から涙が零れる。怖いと思った恋人は、猛禽から人間の姿へと戻していた。優しい眼は、向こう見ずな私の性格を責める事は無く、ただ労わるような、申し訳無さそうな、そんな複雑な色を見せている。
「あぁ、泣かなくて良いんだ！……、俺は怒ってるんじゃないぞ？」
慌てて上体を起こした大石先輩は、怒られた子供のような勢いで泣く私の身体を抱え起こした。強い引っ張りで起こされた私は、床上へと座り込んだ姿勢で大声を上げる。
「……ぅ、うわぁあぁぁ〜〜〜ん！！///」
額に貼り付く前髪をぎこちない動きで除けた大石先輩の右手が、私の頭を撫でる。怖いと感じた大石先輩の存在は、跡形も無く、どこかへと霧散していた。私は、それを確かめるように両手を広げて、恋人の身体を力の限り抱き締める。ギュッと抱き締めて解るのは、いつもの大石先輩の優しい体温と規則正しく働いている心音――。そこには、私が怖いと感じるものは、何１つ――潜んでなど無かった。
「今のは、確かめただけだぞ！もう大丈夫だ、な？怖い事は無いから……」
ギュウギュウと抱きつき、大声を上げてわんわんと泣く私の背を、大石先輩の掌が忙しなく上下に動く。私があまりにも大泣きする所為か、比較的落ち着いた声で諭すように話す大石先輩の声も、今回ばかりは上擦って大きくなっていた。私の背を撫でるだけでは、どうする事も出来ないと気付いたのか、大石先輩は大きな背を丸め、何も言わずに大人しく、私の身体をきつく抱き締める。
「ぅ、うぅ〜〜っ……っく！……ひぃぃ〜〜っく！！///」
どんなに恋人にきつく抱えられても、急に涙が引っ込む事は無かった。ジッと耐えるように私を抱く大石先輩の肩口に、私は赤らんだ顔を押し当て、鼻水が垂れるのもお構い無しで、自分の気が済むまで延々と泣き続けたのだった。
「……ズビーーーッ！！…………ふぅ」
えげつない音を立てて洟をかんだ私は、白いティッシュペーパーを小さく丸めて、ゴミ箱へと放り込む。ガサガサと鳴って落下したはずのペーパーの着地音がしないのは、私がそのゴミ箱に数え切れないぐらいのティッシュペーパーを丸めたゴミを捨てた所為だ。ティッシュ箱を空箱にしそうな勢いの私を、傍で見下ろす大石先輩の眼が、私を気の毒そうに見ている。
「も解っただろう？……俺を警戒したのなら、今は……まだ時期じゃない」
未だグズグズ鼻を鳴らす私に、困り顔を見せた大石先輩は、浅い息を吐いて話した。浅はかな私に見えてなかった結果を、大石先輩は最初から判ってたのだろう。”まだ時期じゃない”――そう言った大石先輩の表情から私自身が成熟した女性からは、未だ程遠い存在なのだと、改めて知った。
「……ご、ごめんな、さぁ……ぃ……」
萎れた花のように首を折り、床の板目を見詰めた私は、謝罪の言葉を告げるしかない。無鉄砲な私の振る舞いが、私自身はおろか、大好きな人の心をも傷付けてしまったのだから――。
「俺には、エドワードほどの自制心は無いぞ。……気を付けろよ？」
余計な事を知ってしまった私に、忠告する声音は低く、硬い音をさせていた。その声に得体の知れない怖さを感じた私は、思わず、身を竦める。つい先程感じてた生々しい恐れを思い出した私の目には、溢れんばかりの涙が浮かび上がった。
「…………ひぃ、っく！」
随分と泣きじゃくったはずなのに、透明の雫は簡単に頬を伝う。落ち着いたはずの気持ちが、いとも容易く乱れた途端、呼吸までもが震え、一緒になって乱れる。
「ほら、泣くな。全く、お前には参るよ。……の好奇心の強さはイザベラ並みだな」
再び、浅い溜息を漏らした大石先輩が、少しおどけた顔をして見せた。歪んだ顔を見せる私を覗き込む双眸は、優しさに彩られ、その輪郭を柔らかに崩している。可笑しそうに声を立てて笑う大石先輩が、ティッシュペーパーを箱から抜き取って、私の鼻先に押し付けた。
「わ、私、言ってる事と、やってる事……違って、ぅう……っく！」
私の鼻先に貼り付けられたティッシュペーパーを両手で押さえ、ズビーッと不細工な音を響かせる。目の前で笑う大石先輩は、先程まで私を喰らおうとした獰猛な獣の眼を見せた恋人とは、とても思えない。私に向けられる恋人の優しい笑みに何だか戸惑ってしまう。どちらが本物の大石先輩の姿なのだろうか。それとも、どちらも間違い無く、大石先輩の本来の姿だったのだろうか――。
――優しい先輩が、とても怖くなるなんて……思いもよらなかった。
私の大好きな人は、頑ななまでに――ストイック。
だからこそ、大石先輩は優等生の仮面の下を、刻が満ちるまで隠し続ける気でいたはず……。
それは、他の誰の為でも無く、大石先輩自身の為でも無い。
全ては、幼くて、我儘になりがちな私の為――。
なのに、私の余計な好奇心は、自らの手で、それを暴いてしまった。
こんなにも愚かで弱い私を想って、ひっそりと積み重ねられてきた努力を――。
大石先輩は、神様でも聖人君子でもない。”人間本来の男の欲”を持ち、他の人と何ら変わらない１人の男性に過ぎなかったのだ。他の異性に感じる”怖さ”を、私の女としての本能が感じ取るのは、ごく自然な事だったのだと、私は今になって知る。
「それで良いんだよ、。”怖い”と思ってくれなきゃ、俺が……困るんだから」
人間の男の本能をちらつかせた事を後悔したのだろうか。今まで可笑しそうに笑っていた大石先輩が、歪んだ心で微かに自嘲する顔を私へと見せる。その顔を見た私には、本気で怖がってしまった事が良かったなどとは、到底思えなかった。
――私の”恐れ”と”拒み”の色、大石先輩は最も……見たくなかったんだ……。
”人間に備わる欲求”を素直に見せた自分が拒まれるのは、辛いコトだよね。
自分の望みが相手から恐れられるのは、誰だって悲しいはずだもん……。
それなのに、私は……。
とても誠実で、真面目な優しい恋人を、酷く……傷付けてしまった。
自分の余計な好奇心と、身勝手さで――。
洟をかみ切ったティッシュペーパーを丸め、私はゴミ箱へと無言で放り込む。先程と同じようにガサガサと鳴った紙は、控えめな音でポトリとゴミの山に積まれた。私はあまりの申し訳なさに顔を上げる事が出来ず、未だ鼻先を伝って落ちる透明な雫を、ただ眺めているしかなかった。
「俺は吸血鬼じゃないから、を喰らい尽くす事は無い。それでも、無理強いして奪う事は、簡単に出来るんだ。……これでも、俺は……”男”、だぞ？」
先程２人で観てた”トワイライト”の主人公達を譬えに話す大石先輩が、顔を上げない私を、下から覗き込んできた。チラリと動いた大石先輩の賢しげな瞳が、またも柔らかく細められる。三日月にも似た細い目元は、陽の光よりも温かいものを、そこへと宿していた。
「そ、そんなの……知ってますもん……っ！！！///」
赤く潤み、垂れる雫を睨んでいた目を恋人へと向け、私は盛大に両頬を膨らませる。未だに、私が”何も解ってない”と、この恋人は思ってるのだろうか。恋の想いと身体が切り裂かれ、バラバラになりそうな思いを感じた、この私を――。
「それは良かった。……に解ってもらえたなら、ひと安心だな」
細められた賢しげな目元が私の怒り顔を見た途端、軽く見開かれると、また元の三日月を模る。どこかホッとしたような面持ちをする大石先輩が、私の鼻先に堪った涙を、利き手の親指の腹で軽く拭った。獣のような男の本性を見せたはずの大石先輩が、誰よりも理性的な人間の顔をして見せる。それが、私には何故か腹立たしく感じられた。
「大石先輩は……随分、意地悪な人だったんですねっ！！///」
負け惜しみで嫌味を口にした私は、悔しさを噛み締め、明後日の方を向く。フイッと私が顔を背けると、大石先輩は場所を移し、他所を向いた側から覗き込んだ。
「、その……。まだ……怒ってるのかい？」
”少し遣り過ぎたか？”と問いたげに、大石先輩が私へ機嫌を尋ねる。野獣じみた眼をしたかと思えば、今度は随分と気弱な羊を連想させる眼をしていた。自分で撒いた種とは言え、こんなにも脅される必要性があったのだろうかと思い返すと、だんだん腹の底から怒りが沸々と湧いてくる。白い眼をした私は、大石先輩をチラリと見遣った。
――えぇ、怒ってますよ……。
今は……とぉ〜っても、怒ってますとも！
それも、カンカンになるぐらいに、ねっ！！
エッチに対して恐怖心を覚えさせるなんて、あんまりじゃない……？
もし、次の絶好の機会で尻込みしちゃったら、どうする気なんですかっ？！
好奇心が強過ぎたからって、こんなに怖い”意地悪”……して欲しくなかった。
でもさぁ……。
皆がエッチなコトを経験するのに、私は”お預け”なんて……悔しいよ！
それに、ね……。
ダメな子みたいだし、大人の恋話すれば、仲間外れになっちゃうから、つまんないんだもん……。
……だから、ね。
ちょっとぐらいは、私の気持ちも……解って欲しいよ？
乙女心は複雑なのだと言わんばかりに、私は困った顔をする大石先輩の目をジッと見詰める。しかし、私の乙女心を覗こうとはせず、真摯な顔をする恋人は、”待ち”の姿勢で行儀良く、私の行動を注視していた。
「……プゥ〜ッ！」
私は、また膨れっ面を大石先輩へと見せるしかなかった。本当に、私は子供だ。大石先輩のように、自分の感情を抑止する術を持たない、未熟な子供なのだと思い知らされる。
「は……まだ、”怖さ”が足りないのかな？」
私の微かな反抗心を感じ取ったのか、大石先輩が急に訝しげな顔付きになって私を見詰めた。賢しげな双眸がゆっくりと細められると、そこに怪しげな光を見た気がした私は、途端に身が硬まる。
―――ビクーーッ！！
全身の身の毛がよだち、先程感じた”怖さ”が自分の体の動きを奪った。逃げられない――頭だけが、危機的状況を判断するだけで、声すらも上げられない。必要以上に見開いた目だけが、そこに映すものをリアルに描く。
今も、その身の内側に私の知らない大石先輩が――確かに、いる。
虎視眈々と獲物を狙う眼を持つ”男”が、直ぐそこに――。
何をされている訳でもなく、何かをされた訳でもない。私の目の前の恋人は、ただ、私を見詰めているだけ。その眼を見詰め返すのが、私の精一杯だった。息も絶え絶えになるぐらいに浅い呼吸を繰り返す私は、空気さえも奪われてしまうと本気で感じた。私は震える唇を大きく開き、これが最後だと言わんばかりに、胸一杯に空気をスゥッと吸い込む。
「な、何、言ってるんですかーーーっ？！！」
私は胸に入れた空気を一気に吐き出すように叫んだ。すると、出ないと思っていた声がアッサリと飛び出し、室内に大きく響く。私の声は良く通るのか、水槽の住人達が慌てて水草の陰へと隠れ込んだ。
「あははっ、冗談だよ。……そんなに、は……俺が怖かったのか？」
私の叫び声に目を丸くした大石先輩が、心底可笑しそうに笑い声を立てる。先程見せた怪しい光は、賢しげな瞳の中から霧散し、瑞々しさだけを映し出す。その双眸に、私は安堵して胸を撫で下ろした。
「す、凄く、怖い……ですよ///」
恋人の悪戯に、不穏なものを感じた自分の勘違いが恥ずかしく、私はポツポツと喋りながら俯いた。優しいはずの恋人には、全くもって無縁そうな言葉を聞かせながら――。
――大石先輩の内側に眠る欲は、”男”、そのもので……。
私の中に眠る”女”としての本能が、”自分が食べられてしまう側”なのだと、否が応でも感覚へヒシヒシと訴えてくる。
これから、ずっと……こんな怖さを感じながら、私は生きていける？
大好きな人の傍で、ずっと一緒にいられるの……？
”男女の契りは簡単なもので無い”――と、自分の身をもって知ってしまった。これから、私はどうしたら良いのだろう。漠然とした不安が私の心の中に漂う。それを感じ取ったのか、大石先輩が私の二の腕に触れ、右掌でゆっくりとそこを擦った。
「俺を拒んだの腕が、もし……受け入れてくれる気になったら――」
やんわりと動かしてた右手を止めた大石先輩が、私の様子を窺いながら話す。優しい瞳は、私を思い遣るような色を浮かべて――。
「……え？」
きょとんとした顔で、私は間近に見える恋人の顔を見上げた。私の様子を気に掛け、戸惑いの色に近い表情を見せた大石先輩が瞼を伏せる。賢しげな瞳を隠した大石先輩は、そのまま深呼吸をした後、ゆっくりと目を開けた。
「の願いを叶えると、約束する。……それで、許してくれないか？」
しっかりと見開かれた双眸で、真っ直ぐに私を見詰める。揺らぎの無い気持ちを見せるような喋り方は、私へと妥協案を提示した。
「大石先輩は……それで、良いんですか？」
大石先輩と視線を合わせた私は、恋人の問いに答えず、訊き返す。条件として得をするのは、私のほうだからだ。するも、しないも、私の気持ち1つで決まるということ――。大石先輩の言い方だと、私の気持ち１つで、それが天啓になると言ってるようなもの。
「あぁ。もし、と男女の関係をもっても、今の俺は……何も護れないし」
私が怪訝な顔で問い返した所為か、大石先輩が困った顔をして、苦笑を漏らす。少し歪んだ恋人の口元が、先輩自身を嘲笑うように見えた。
「……護る？」
私は大石先輩の言葉に、さらに首を傾げる。私が大石先輩と身体を繋げる事により、何か危険に晒されるというのだろうか。真面目な恋人が、また困った顔をして私を見詰めた。
「仮に、が妊娠しても責任すら取れない。今は、互いに未成年だから……」
困り顔をして見せた恋人が言葉を語り終える頃には、随分と真剣な表情に変わっている。彼の言った内容よりも、ある1つの単語を聞いた私は、それに対して、過剰な反応を起こした。
「に、妊娠って……？！///」
目を零れるぐらいにカッと見開き、私は心底驚いた顔をして見せる。唖然とした私は、生々しい言葉に言葉を返せず、声を詰まらせて顔を赤くした。
――に、妊娠って……。
それって、赤ちゃんが……お腹の中に出来るって、コトよね？
…………あ、赤ちゃん？
あ、赤ちゃぁあーーーーーん？！！///
何を言葉にすれば良いのか判らず、恋人が愛でる魚達を真似るように、口をパクパクと動かす。頬に集まる熱が上昇するのを感じ、複雑な思いを感じながら、大石先輩を見る。私とは対照的で、酷く落ち着いた大石先輩が険しい表情で沈黙したまま、私を見詰め続けていた。
「――避妊したからと言っても、妊娠しない訳じゃないんだぞ」
重々しく動く唇から漏れる音は、朗々とした大石先輩の声とは似ていない。私の慎ましさの欠片も無い行動を諫める声は、まるで”慎重になりなさい”と話す母親のそれだった。
「……そう、ですけど……///」
ほんの少しの過ちが自分達の今後を歪ませる――。大石先輩は、そう言いたいのだろうか。リアルな言葉を目の前に見せられたような気持ちになり、私は恥ずかしさで、更に頬を染めた。
「せめて、俺が成人するまでは……その、だな……待ってくれないか？///」
神妙な面持ちだったはずの大石先輩だが、急に口をモゴモゴとさせ、言い難そうに言葉を濁す。具体的な期限を決めないのは、先輩自身の気持ちが定まらない表れなのだろうか。真剣な表情が崩れ、何とも情けない眉尻の下がる赤い顔で私へと問うと、そのまま、目を伏せ気味にして私から視線を外した。
「……”エッチなコト”を、ですか？」
私は下から大石先輩の覗き込み、念の為に訊く。気まずそうに伏せ気味になる大石先輩の目がチラリと動くと、私の瞳を捉えた。ストレートな私の発言に口元をキュッと結んだ大石先輩は、一拍の間を置き、深く息を吐く。
「あぁ、そうだ。も、それなら良いだろ？……今後、無茶な誘いは厳禁な？」
気持ちを落ち着かせた大石先輩は日常の顔に戻ると、私へと説教じみた声で念を押してきた。眉間には、浅い皺が刻み込まれている。
「はぁ〜い……」
仕方なく、今回は折れる事にした。私は渋々な声で心優しくも生真面目な恋人へと返事を返す。
「お前、随分と……気の無い返事を返してきたな」
大石先輩へ聞かせた声音通りの膨れ顔をする私を、白い眼をした大石先輩が一眺めして浅い息を吐き出すと、今度は一転し、弱り顔で笑って見せた。
「だぁ〜って……」
口元をへの字に変え、私はだんまりとする。口を噤んだ私の左肩に大きな手が乗ると、そこへ少し強めの力が加わった。
「俺に……食べられてしまいたいのかい？」
弱り顔をしていたはずの大石先輩の口端が微かに上がると、賢しげな双眸に宿る光が歪みを生じ、濁る。すると、恋人の纏う雰囲気と印象がガラリと変わった。
「……あの、やっぱり……怖い、です……///」
私は自分が思うよりも、防衛本能の勘は良いのだろう。雰囲気を肌で感じ取ると、随分と弱虫な自分が顔を出すらしい。強気だったはずなのに、何故か急に尾を巻く羽目になるのが恥ずかしい。しどろもどろで、私は答えた。
「仕様が無い奴だな、は……」
クッ、と可笑しそうに咽喉を鳴らした大石先輩が、不穏な空気を霧散させると、優しい目をして笑う。どうやら、大石先輩は”私が怖がるコツ”を習得したらしい。私に見せる顔を、随分と巧みに使い分けていた。茶目っ気なのか、お仕置きなのか――。恋人の見せる顔の裏側にある真実は、私には到底解りかねるものだ。最終的に押されてばっかりなのが少し悔しい。私はそんな思いで、逆転の策を練る。
――私が仕掛けた作戦なのに、このままじゃ……負けっぱなしだよ？！
それに、いつまで経っても恋愛濃度は密度増さないよね……？
私が怖がった時点で、今後の展開は終始不利になっちゃってるし！
なんとな〜くだけど……この脅しが有効だってコト、先輩も判ってるようだし？
大石先輩を、”ギャフン！”って言わせれるようなネタかぁ〜〜……。
驚かせるとか、ちょっと困っちゃうようなネタ、ねぇ……？
…………あ、そうか！
ヒラメキを得た私は、大石先輩を前にし、にんまりとした笑みをして見せた。私の笑みに怪訝な顔を見せた大石先輩が首を捻る。そんな大石先輩の目の前へと、私は両手を出し、”頂戴”のポーズをとった。
「それじゃあ……エッチしない代わりに、”親愛の印”をください！」
エッチと同じぐらいに価値のあるものは思いつかなかったので、そこは大石先輩へ委ねる事にした私は、先程までの不機嫌な顔を一転させ、ニコニコと機嫌良く笑って見せる。ご機嫌な私の声音は、ピンク色のハートマークが見えそうなものだった。
「し、親愛の……印？！」
私の様子に、驚くのは大石先輩の番だったらしい。素っ頓狂な声を上げ、目を点にした大石先輩が私の顔を凝視する。
「そうです！エッチの代わりになる、”親愛の印”が欲しいです！！」
真剣な顔をした私は、ズイッと両手を前へと押し出し、大石先輩の顎先へ突きつけた。私の両手の押し出しに、やや背を仰け反らした大石先輩が思案顔をして見せる。私を前にし、賢しげな瞳が、落ち着き無く揺れる。私の恋人の脳は、今、実に忙しなく働いてることだろう。私は可笑しさを必死に堪えていた。
「そ、そうだなぁ……？……あぁ、それなら――」
”弱ったなぁ”と言いたげに思案した大石先輩が、何かを思いついたらしい。模範的な学生である恋人が口を動かし始めると、私の双眸はそこへと注視をしていた。
「”エッチなコト”と同じぐらい、刺激的なものですか？！///」
わくわくとする好奇心剥き出しの双眸で恋人を見詰め、私は大石先輩へと体全体で詰め寄る。
「刺激的では無くても気持ちが篭ってれば、も文句無いだろ？」
瞳を輝かせる私を前に、名案が浮かんだらしい大石先輩は、爽やかな笑みを見せていた。大石先輩の言葉に大きな溜息を吐き出し、私は落胆する。
「なぁ〜んだ、つまんないのぉ〜〜……」
プゥーッと軽く頬を膨らませ、唇を尖らせた私は不満げな声で言い、大石先輩をチラリと上目遣いで見た。私の声に、大石先輩の優しい目がパッと軽く見開かれると、パチパチと素早い瞬きが起こる。
「まったく、お前は。……さ、右手を出してごらん？」
口元をへの字にし、呆れ顔をした大石先輩は、浅い溜息を漏らしながら、私の目の前へと大きな手の先が寄せられた。
「へ？”右手”、ですか……？」
きょとんとした顔を見せた私は、表情の通りの声を出して恋人へと尋ねた後、大きな左手の先に、素直に自分の右手を乗せた。私の手を軽く握ると、私の手の甲が、大石先輩の口元傍までクイッと引き上げられる。
大石先輩側に引き上げられた右手が、押し返されるように私の顔傍へと寄ると、その動きに併せ、大石先輩の顔が近付いた。
「は、身体の部分に口付ける”キスの意味”を知ってるかい？」
賢しげな瞳が柔らかく崩れると、三日月のような姿を見せる。やんわりとした笑みで大石先輩が私へと問う。私は心優しい恋人の顔を間近で見詰め、そのまま、首を右へと傾げた。
――”キス”の意味……？
えっと、えっと……キスの意味、でしょう？
…………う、うぅ〜〜ん？
サ、サッパリと解らない……。
２秒程考えてみたものの、答えに辿り着かないと判断した私は、直ぐに諦めて大石先輩に問い返す。
「キスには、エッチなコト以外の意味があるんですか？」
確かに、キスが特別な愛情を示す好意である事ぐらいは、いくら私でも解る。ただ、何気なく与えられているだけだと思っていた特別な温もりに意味があった事に驚いたのだ。私は大きな目を見開いた顔で、瞬きを繰り返し、大石先輩の返事を待つ。
「そりゃ、あるよ。まず……手の甲には、”尊敬”の意」
可笑しそうに微笑んだ大石先輩は、私を見詰めたまま、言葉にした通り、私の右手の甲へと軽い口付けを１つ落とす。まるで、中世の騎士とお姫様のような遣り取りだ。
「これが、”尊敬”……」
どこか他人事のように呟いた私は、”ほわぁ〜”と心底間抜けな顔で大石先輩の動きを眺めていた。すると、私の右手は大きな手に握られたまま、大石先輩の左足の太腿の上へと下ろされる代わりに、私と大石先輩の空いていた距離が、更に近付く。
「それから……額には”友情”、瞼には”憧憬”が――」
私の目前に近付いた男性らしい咽喉元の緩い尖りが見えると同時に、額へは温かい息が吹きかかり、それに続いて、柔らかなものが押し付けられるのが解った。私の額に押し当てられた恋人の唇が場を移す。それに併せ、私は瞼を閉じた。すると、私の瞼の上に、また１つ温もりが落ちる。
「後は……他には、どこにするんですか？」
大石先輩の唇が自分の瞼から離れたのを感じた私は、ゆっくりと瞼を上げた。お姫様のような扱いを受け、ややウットリと夢心地のように緩んだ顔をする私は、ここから続きがあるのかを恋人へと尋ねる。完全にガードの緩んだ私を、見下ろし、可笑しそうに笑う大石先輩が腿上へと先程下ろしていた私の右手を握ったまま、互いの視界へ入るように持ち上げた。
包むように握られてた手の向きが変わると、掌が室内の空気に触れる。今度は、手の甲を覆う形で、私の右手を掴んだ。無防備に晒された私の手の内側に、恋人の唇が寄せられる。
「掌には”懇願”、腕と首には……”欲望”――」
言葉通り、場所を確かめるかのように柔らかな唇をゆっくりと押し当てる大石先輩は瞼を軽く伏せ、その後、私の様子を窺うような眼をして、こちらを見た。
「――！！///」
大石先輩の言葉に、心底飛び上がる程に驚いた私は、大きなリアクションを起こす。ビクッと体を揺らした後、しっかりと硬直した私は息を呑み、目を零れんばかりに見開いていた。私は自分がシッカリと隙だらけだったのだと、この時に初めて自覚した。
――よ、欲望ーーーーっ？！！/////
な、何か大石先輩の眼が、怖いような……。
あわ、あわわ〜〜……っ！！///
掴まれる自分の右手を危険な恋人の手から急いで引き抜こうにも、シッカリと握られていて、全く引き抜けない。赤くなる顔もそっちのけで、私が焦ってみせると、大石先輩の顔付きが日常のものに戻った。
「大丈夫。には”悪さ”をしないよ。……も”悪さ”を誘う事、しないよな？」
優しい目元は、いつもの柔らかな光を宿すと距離を詰め、私を覗き込む。
「は、はい……///」
そんなにも考えが顔に出るのだろうか。私は気恥ずかしく思いながら答えた後、俯こうとした。すると、私が俯くのを止めさせるように、大石先輩の右の掌が私の頬に静かに添えられる。柔らかな温もりが、くすぐったい。
「それじゃ、じっとして。そう、動かないで――」
私が首を竦めると、大石先輩が鼻先を寄せ、首を右側へゆっくりと倒す。動きに併せ、私も瞼を閉じた。少し乾いた唇が私のものを軽く覆うように触れ、１度離れると、今度は上唇を撫でるように、優しく吸い付く。湿り気を帯びる唇の触れ合いに、ちゅっ、と軽い音が響くと、恋人の唇が私から離れようとした。
何だか勿体無い気がした私は、”もう少しだけ――”と強請るように、２人の唇の間に出来た隙間を埋めるように自分の唇を寄せて、大石先輩の下唇を食む。私の左頬に添えられ、大人しくしていた恋人の大きな手が、頬にやんわりと円を描くと、そこから首筋へと緩やかな速さで首元へと下りてきた。温かな掌が私の首元を優しく温める。その間も止む事の無い唇の交わりの心地好さに、私はウットリと陶酔していた。
――うわあぁ〜……。///
何だか……ほわほわあぁ〜ってして、凄く……気持ち良い、かも……。
このまま寝れたら、私……絶対に、幸せ……。
理性と本能の間を行ったり来たりするような意識が、途切れ途切れになるのが解る。この気持ち良い状態のままで眠りにつけたら、極上の夢が見れる――と、私が思った矢先、力一杯に体を押し返される。日頃使わない”やぁん”と鼻に掛かったような甘えたの声を出したら、大石先輩が私を白い眼で見た。呆れ顔にも、怒り顔にも見える恋人の顔付きに、私の霞がかったようになっていた意識が、シッカリと覚醒する。それと同時に、掴まれてた自分の腕が、いつの間にか自由になってた事を知った。
「あ、えっと……唇のキスは、どんな意味があるんですか？///」
思い出したかのように取り繕うような笑みを顔に貼り付け、私は慌てて話の続きを問いつつも、だらしなく涎を垂らしてないかと心配になった私は、口元に両手を寄せ、唇を確かめる。すると、大石先輩も私を見るなり、少し気恥ずかしげに他所を向き、利き手の親指の腹で軽く口元を触れ、確かめていた。ジッと見ているとはしたない気がした私は、視線を外そうとしたところで、大石先輩に話かけられる。
「俺はに誓ったし、お前も”悪さを誘う事はしない”と、俺に……誓ったよな？」
随分と真面目な顔に戻った大石先輩が、真っ直ぐな眼差しで私を見詰めると、念を押すかのように話した。
「は、はあ……？」
大石先輩の様子に疑問を持った私は、訝しげな顔をしたままで頷く。
――確かに、さっき頷きましたけど……。
それが、何なんだろう……？
私が大石先輩の言葉の意味を理解していないのが、先輩にも解ったのだろう。小首を傾げそうになる私へ解り易く話す気になったのか、クスッと小さく笑った大石先輩は口を開く。
「唇のキスは、”愛情”。それから”互いの唇で言葉を封印して守る”という意味もあるんだ」
三日月以上に細まった目元は、まるで糸のようだ。文字通り、ニッコリとした笑みを見せた大石先輩が、随分と意味ありげな話し方をする。
「言葉を封印して、守る……？」
私は大石先輩の言葉を考えながら復唱してみた。何かウラのありそうな話し方が私には気に掛かる。私がだんまりとした途端、私の頭を大きな手で一撫でし、私のご機嫌を伺うかのように顔を覗き込んできた。
「結婚式でキスをするだろう？あれは、”誓いの言葉を封印して守る為”なんだ。この例えなら、も……解るよな？」
私がむくれて口を噤んだと考えたのだろうか。大石先輩は、小さな子供へ話して聞かせるかのような優しい語りで私へと喋る。真っ直ぐに私を見る眼は、慈愛に満ちているような柔らかさがあった。
「えっと、それじゃあ……今ので、私……」
大石先輩の顔から視線を外した私は、右手を額に当て、もう１度良く考えてみる事にした。順を追って、今までの会話と行動を思い返す。
――大石先輩と唇同士でチュウしたから、言葉を封印したんだよね……？
”悪さを誘う事をしない”っていう誓いを立てたってコトで――。
――むむ……っ？
アレ、もしかして……？
”エッチなコトをしたい”と、言っちゃダメってコトなのーーっ？！
思い当たった答えに、押さえた額をパチンと軽く弾いた私は顔を上げた。そこで私の目に真っ先に映ったのは、どことなく嬉しそうな顔をしてみせる恋人の柔らかな笑み。その笑みがもたらす真意に辿り着いた私の顔は、この上なく、不細工な顔付きになった。
「や、やられたぁ〜〜！！」
自分の思惑が不利になる方へと上手く誘導されてしまった。それに気付いた私は臍を噛む思いで唸りながら、床上へと突っ伏す。ひんやりとする床に額を着けると、私の荒れた気が少しだけ落ち着くようだと思えた。
「人聞き悪いな、。……ま、念には念を入れないと、な？」
床上に伏せた私の頭に温かな掌を乗せて撫でると、大石先輩が可笑しそうに笑い声を漏らす。
「ど、どこまで慎重なんですか、大石先輩ってば！！///」
私に手を焼いて困ってたはずの大石先輩が、”最後の勝利者”だったのだと、解った私は、心底悔しさを滲ませた声を上げ、床上から額を離して上体を起こした。少しムクれた顔を見せる私に、眉を寄せた大石先輩が困った顔をすると、私の額を優しく撫でるように、ゆっくりと前髪を梳いた。切り揃ってない前髪が、恋人の指の隙間から銀糸のようにサラサラと零れ落ちていく。
「あのなぁ、俺だって抑えるのに必死なんだぞ？お前、本当に解ってるのか？」
賢しげな双眸が少しだけ細まると、浅い溜息を漏らして大石先輩が言う。訝しげな眼をした大石先輩は話し終えた後、私の様子を窺うようにジッと見詰めた。自分の欲を抑える事に長けた大石先輩は、私の目から見ると、到底必死には見えない。それどころか、どこか余裕があるようにさえ見えてしまう。それが悔しい私は短く唸った。それと同時にある事を急に思い出した私は、またもや、ヒラメキを感じた。
「うぅ……そ、それじゃあ、大石先輩を”チンパンジー”に、しちゃうもんね！」
これ見よがしに、私は勝ち誇ったような顔をして鼻先を天へ向け、声高に喋る。とある教育テレビ番組で、動物の生態特集を観た事がある。その時のチンパンジーの事を、私は思い出したのだ。
「はっ？どうして、俺が……”チンパンジー”に、なるんだ？」
どうやら、大石先輩は私の言いたい意味が解らないのだろう。私の言葉に、満月のような丸い目を見せて驚いた大石先輩が、不思議そうな声を出して問う。
「チンパンジーの唇へのキスは、”相手への服従”の意味があるんですよっ！」
”へへん！”と得意げに笑った私は、大石先輩を”チンパンジー”に変える事の意味を教えた。チンパンジーも人間と同じように唇を触れ合わせる術を持っている。それは――”相手への服従”を指し示す行動。
「へぇ〜？だけど、俺がチンパンジーなら……も、それになるしかないな」
驚いた目で瞬きを繰り返す大石先輩が心底感心した声を出すと、腕を組んで考え込んだ。その後、私の目を覗き込むように上体を前屈みにして、顔を覗き込む。
「む、むぅ〜〜……っ！///」
また悔しくなった私は、顔を赤く染めて唇を尖らせた上に、両頬を膨らませた。どんなに頑張っても、この年上の恋人への勝算は、私には皆無だ。
――完全に墓穴掘ってるじゃんよ、私……っ！！
人間でも、チンパンジーでも……結局は、私だけが損してるんじゃないの？！
もおぉ〜〜……！
こんなの、悔し過ぎるってば〜〜っ！！
両頬を膨らませたままの私は、大石先輩へと背を向ける。完敗過ぎる自分が、何とも情けなく感じられた。膝を抱えた私が膝頭へと顎先を乗せると、小さな子を宥めすかすかのように、恋人の長い腕が私の体へと巻き付く。
「膨れなくても良いだろう？チンパンジー同士、仲良くしようじゃないか！」
可笑しそうに笑みを零す声を聞かせながら、大石先輩が私へと話した。その間も、私を背後から抱きかかえ、左右へと楽しげに揺する。
「大石先輩はチンパンジー扱いでも、随分と……楽しそうなんですねっ！！」
リズムを刻むように揺らされる自分の上体を煩わしく感じながら、私は虫の居所の悪さを教える声で喋った。刺々しい私の声音には、”心優しい恋人が少しぐらいは困れば良いのに”――という思いが、密かに含まれる。
――私がこーんなに怒った振りしても、余裕な顔してるんだもん！
……こんなの、つまんないよぉ〜〜。
負けっぱなしなのが悔しくって堪らない。私がだんまりを決め込むと、左右に揺する私の体を、後ろ側へ引っ張った。下から上へと私の視界が、ユラリと揺れる。膝を抱えていた両手を素早く解き、私は背から後方へ倒れ込む衝撃へと備えた。
床上に落ちるかと思った私の背は、大石先輩のお腹辺りへと不時着した。両腕は十字架に貼り付けされたキリスト様のように、恋人の左右の足の付け根の上へと、遠慮無しに乗っかっている。どうやら、大石先輩の座っている姿勢は、胡坐でなく、体育座りらしい。大石先輩を椅子に見立てて座った私の格好は、踏ん反り返る王様みたいだ。自分の長い髪のお陰で、ずるりと背が滑る。更に窮屈な体勢になり、私は身を捩った。
「そうかな？まぁ、”への服従”は……今に始まった事でも無いからな。今更、何に姿を変えられても変わらないよ。……この愛情は、な」
自分の居心地の良い場所を探るように動く私の額へと、大きな右手の掌を添えた大石先輩がそこを愛しげに撫でて、ゆっくり語る。その心地よさに、一瞬、私は我を忘れた。窮屈な体勢で、私は自分を上から覗き込む人物を見詰める。すると、額を撫でた掌が外された途端に、今度は、私の脇の下へと恋人の両腕が滑り込んだ。アッという間に、窮屈な寝そべりの体勢から私は引きずり上げられる。目の高さがそれ程変わらなくなったと解った私は、素早く背を振り返り、恋人と向き合って座った。
「だ、誰が、誰に？！どのへんが、”服従してる”って言えるんですか？！」
我に返った私は、指先1つで自分が大石先輩を従わせているかのように話す恋人の口振りに、目を剥いて呆れた。何１つ、私の思い通りの結果じゃない。要所は、大石先輩が全て押さえてるのだから――。
「俺が――”に”、だよ」
一言ずつ区切って話しながら、形良い唇が近付く。恋人が右側へと首を傾げるのを見届けないうちに、私は眠りにつくかのように瞼を静かに下ろした。私の顎のラインを沿って動く大石先輩の手の先が、私の耳裏辺りを撫で上げる。まるで繊細な硝子細工を扱うような手付きで――。
――チュッ。
柔らかく触れた互いの唇が、湿った音を立てる。
「それとも……答えが違うかい、？」
私の耳元で囁くように喋り、恋人は掠れた言葉を聞かせた。私の耳裏辺りを撫でた大石先輩の指先が私の首筋を艶かしく滑り落ちると、恋人は首の傾きを変え、更に私の唇を愛でた。
――チュッ。
求めるというよりは、何かを与えるような動きで私の下唇に触れる。そっと唇を離す間際に、大石先輩は私の唇を食むように甘噛みをした。
――どう考えてみても、この場合……。
先に、”愛して欲しい”と駄々をこねたのは、完全に……私でしょう？
恋人の愛を乞い、”服従”してるのは、どう考えても私のほうだよね？！
それなのに、どう考えたら――。
大石先輩が……私に、服従してるってコトになるのよーーーっ！！！
そんなの、絶対に的外れじゃな〜〜〜い！！
でも……悔しいから、口が裂けても――。
……絶対に、”タダ”で教えてあげないんだからねっ！！
大石先輩が目の前に居なかったら、私はこの場で絶対に地団駄を踏んだだろう。接吻を交わした気恥ずかしさで赤く染まる頬を隠すように、私は唇を尖らせて俯いた。こんな時ばかり、察しの良い大石先輩は、私の頭に大きな手を乗せると、ゆっくりとした手付きで大きな円を描いて撫でる。私の臍曲がりを宥めすかす為の、私をご機嫌にしたい為の、いつもの――常套手段。
「……いいえ！悔しいですけど、本当に……そうですねっ！！///」
両頬を膨らませて顔を上げた私は、負けん気の強い眼をして大石先輩をジロリと睨む。顔を上げた私の様子を見るなり、大石先輩は賢しげな瞳を隠すように瞼を伏せると、やんわりと口元を綻ばせて微笑む。その表情は、愛情を深く示せてると勝ち誇っているようにも思え、また、私よりもずっと大きな愛情を注げていると満足しているかにも思えた。私の大好きな人は愛情に満ちた微笑を湛えたまま、伏せていた目を動かす。
「も……そう思うだろう、な？」
慈愛に満ちた表情は穏やかで、私を見詰める眼差しは柔らかい。どこか眩しげに目を細めた心優しい私の恋人は、随分と嬉しそうな声で私へと問いながら、その腕の中に私を掴まえた。私の鼻先に、同じものを寄せる大石先輩が、そこで軽く擦り合わせる。少しくすぐったい気持ちで首を竦めて瞼を伏せた私の鼻先へ、大石先輩の唇が軽く触れた。
――チュッ。
可愛らしく音を立て、口付けの温もりを落とす。それは、まるで仔犬と戯れ、遊んでいるかのように――。そろり、と目を開けた私が大石先輩を見てみると、優しい眼をして、私を愛しげに見下ろしている。
――”愛してる”なんて……柄でもないのに、ね……。
私には、そう聞こえちゃうんだから……。
特別な愛情を囁くように伝えてくれる大石先輩の唇の熱がとても愛しい。未熟なまま抱き合わずとも、想いを交わす術はある。特別な人と言葉にならない想いを、こうして口付けで伝え合う事が、恋人同士には許されているのだから――。
私は大石先輩の首元に、小さな子供がしがみ付くように両腕を回し、先輩と同じように鼻先をすり寄せた。賢しげな瞳が丸くなった後、細い三日月へと姿を移す。あまりにも嬉しそうに恋人が笑むから、私も負けずに口端を持ち上げて笑った顔で、小鳥が啄ばむようなキスを１つ贈った。私を抱え直す大石先輩が、贈り物のお返しと言わんばかりに、やんわりと唇で私の上唇をなぞる。
”全てを捧げたい”――。
”貴方だけに、服従したい”――。
そう素直に思う私の心の声は恋人の愛しい唇が重なり、封じられてしまう。悲しい訳ではないが、私はもどかしい気持ちに駆られた。１度拒んでしまった腕を広げる事は、許されていない。今は、まだ――その時期じゃない。
――もし、その時がきたら……。
拒んでしまった心優しい大石先輩を、この腕で……丸ごと受け入れて抱き締めるね。
重ねが静かに解かれた唇を噤み、私は誓いの言葉を胸に秘める。恋人の首元に回した両手を解いて下ろし、強い優しさが宿る腕に抱かれる私は、瞼を静かに伏せ、温もりを確かめた。力強く響く、大好きな人の鼓動の音に耳を傾けて――。
――全てを捧げられる日が来るまで、あともう少し……。
それまでは――。
絶対に待っててよね、大石先輩……。
温かな恋人の息が旋毛に掛かるのを気にせず、私はご機嫌な顔で微笑みを零し、私より幅のある大石先輩の胴へと両腕を回す。私の愛しい人は、私を柔らかく抱き返し、恋愛に未熟な私にとって、等身大の愛の伝え方を教えてくれたのでした。
【END】