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貴方に出逢って、たくさんの感情と幸せを知った。
私の両手には、抱えきれない程の”初めて”があった。
貴方と一緒に、1つ、また１つと、”初めて”を越えて行く。
私の両手には、抱えきれない程の”初めて”があった。
貴方の手で、１つ、また１つと、”初めて”が消えていく。
貴方にあげた”初めて”は、恋を知った私の特別なものばかり。
貴方にあげる”初めて”が、全て消えた時、私はどうなるの？
私の”初めて”に、とても、とても喜んだ貴方を知っている。
だから、”初めて”を全て失くした私が――怖い。
ねぇ、”初めて”を失くした私は、つまらないの？
ねぇ、”初めて”が何１つ無い私は、嫌い……？
貴方にあげれる”初めて”が、もう無いの。
貴方にあげれる”初めて”が、何１つ残ってないの。
私には、もう――。
貴方を喜ばせては、あげられないの……。
昼休みの騒がしい教室内に太陽光が差し込めば、とってもポカポカ。冬とは思えない程の陽気の良い教室の窓際で、私のテニスの好敵手であり、親友で恋の相談役でもあるちゃんが、こんな事を言った。
「恋愛における”初めて”って、プライスレスだよねぇ〜……」
浅い溜息を吐いた横顔が女性らしい。少し猫目気味な彼女の瞳が、太陽の日差しを受けて揺れている。
「”初めて”がプライス、レス……？」
きょとんとした顔の私は、親友を見詰めた。すると、彼女はこちらを向き、軽く笑う。
「そう、プライスレス！ 男って、”初めて”ってモノに弱いみたい……」
私を見ていたちゃんが、人差し指をピン！と天井に向けて立てると、そう話した。
「”初めて”に弱いって、何の”初めて”……？」
眉間を軽く寄せた私は、ちゃんとの間を挟む机へと身を乗り出し、声を潜める。
「例えばね、ちゃん。”告白”、”手を繋ぐ”、あとは”キス”とか！」
”解ってないね”って表情を見せたちゃんが、私の鼻先へと人差し指の腹を軽く押し当てた。
「フ、ファース……んがっ！！」
両目が零れそうな程に見開いた私は、驚きのあまりに大きな声を出し掛けるが、ちゃんの素早い右手が私の口を覆い、封をする。
「声が大きいよ！ ちゃんってば、もうっ！！」
”メッ！”なんて顔をしたちゃんが、私の口を押さえた右手をゆっくり外した。
「だ、だって！ ……それより、菊丸先輩と何かあったの？」
私は唇を少し尖らせたが、それよりも気に掛かることをちゃんへと尋ねる。
男女のお付き合いについては、私と大石先輩よりも、ちゃんと菊丸先輩のほうが長い。その上、恋愛行事については、格段と差をつけられていた。他の恋愛人より遅いとはいえ、つい最近、私も大人の仲間入りを果たしている。多少の恋の揉め事を勘繰るぐらいの事は、疎めの私にも出来ると言うもの。
「別に……」
素っ気無く答えたちゃんが私から視線を逸らすと、晴れた空を静かに見上げた。
「あっ、今、嘘吐きの顔した！ ちゃん、絶対に何かあった！！」
彼女の隠し事を見つけたような気持ちで、私は机を乗り越えんばかりにちゃんへと詰め寄っていく。
「う、うるさいっ！ ……大石先輩に大事にされ過ぎのちゃんには、解らないよ。私の気持ちなんて、きっと……」
猫目気味のちゃんが目をギロリと動かし、私を軽く睨んだが、それを直ぐに止めると、俯いてボソボソと喋っていた。
「ねぇ、ちゃん？ ……ど、どうかした？」
始めに怒った勢いそのままで、ものを言うかと思っていた私は、態度をガラリと変えたちゃんに戸惑いの声を掛ける。
私の声に、俯くちゃんが顔を上げた。猫目なちゃんの見せる表情が、心底悲しげで――。私は何も言えず、だんまりとしていた。
「『ハジメテは格別だよなぁ〜！』なんて、英二先輩が嬉しそうに言うから……」
私を見たちゃんが話し出す。少し拗ねたような口調なのは、彼女の心の表れらしい。
「え……っ？！」
ちゃんの言葉に、私は驚きの声を漏らしていた。いかにも菊ちゃん先輩らしい言い方だが、女の子としては妙に勘に障る言葉に感じてしまう。
「”初めて”じゃない私は、何だか”用済み”みたいで悔しいじゃない。”男は経験豊富じゃないと！”って言い返したら大喧嘩になった！」
ちゃんの拗ねた唇が言葉を語っていくと、更に尖りが増す。悲しくて、淋しくて――。刺々しく話す声に隠れる彼女の例えようも無い気持ちが、私へ静かに伝わってくる。
「ちゃん……」
慰めようも無く、私より背の低いちゃんの頭の天辺を、大石先輩の手付きを真似るように動かし、精一杯の優しさを注いだ。
部活を引退した後、自由になった時間を、試験勉強と恋人との逢瀬に費やす事に、私は密かに決めている。日課になりつつある恋人宅への訪問だが、大石家の誰もが、何時も私を快く出迎えてくれた。
今日は珍しく、大石先輩が直々に玄関先へと私を出迎えに来ると、高い位置から私の頭を一撫でし、「寒くなかったかい？」と、優しい笑みを見せてくれる。さすがに日没が近付くと、外の気温が下がるにつけ、寒さも増す。私の髪に触れ、外の寒さに気付いたのだろう。実に、大石先輩らしい心遣いだと思いながら手洗いを済ませ、私は２階へ続く階段を昇った。
大石先輩の自室へと入った私は、まず学校指定コートを脱ぎ、部屋の出入扉横の洋服掛けへとコートを掛ける。数年前までは、大石先輩の制服が掛けてあった場所だ。
「え〜っと！ 今日の黄金ペアは、その……元気でしたか？」
綺麗にコートを掛けた後、私は両足を投げ出し、いつもの床板の上に敷かれる絨毯へと腰を下ろす。
「俺はともかく、今日の英二は……珍しく機嫌が悪かったよ」
困ったような笑みを口元へと浮かべた大石先輩は、私を見下ろして肩を軽く竦めると、炬燵台の上に用意されているオレンジ色のマグカップへと湯を注いだ。私は大石先輩の声を聞きながら、ホワホワと上がる湯気の行方を見詰める。
「……ふぅ〜ん？」
ちゃんと喧嘩した菊丸先輩が元気だったら腹も立つが、お互いに元気が無いのなら、私に文句は無い。気の無い声で呟いた私は、マグカップへと利き手を伸ばしていた。すると、私が伸ばしてた手を、大石先輩が急に掴む。
「お前……英二とが喧嘩した理由、知ってるのか？」
困って笑っていた顔に笑みが無くなると、今度は表情を一転させ、真剣な顔で私へと訊いた。
「大石先輩……知らないの？」
あの元気な菊丸先輩が不機嫌なら、喧嘩の八つ当たりをされていそうなものだが今回は違うらしい。ハイともイイエとも答えずに、私は大石先輩へと問い返していた。
「英二の奴、機嫌も悪いけど、それ以上に……口が固かったからな」
私の手を掴んだ大きな手が宙に浮くと、大石先輩は腕を組んで唸りながら話す。大石先輩の額には、軽い皺が寄っていた。それを見て、私は”頂きます！”と手を合わせた。マグカップの中身を覗くと、仄白い湯気と混じって香るのは、ミルクティーの香り。マグカップに口を付けると、やはり口内に紅茶とミルクの味が広がる。
「ふぅ〜ん……。あ！ ……ねぇ、大石先輩？」
コクッ、とミルクティーを一口飲んだ私は、軽く息を吐きながら、また気の無い返事をしたが、ある事に気付き、それを確かめようと思った。
「どうした、？」
大石先輩が愛用する白いマグカップに、ストレートティーが注がれる音と交じり合うようにして、大石先輩の声が私へと届いた。
「あの、ね……？」
今から確かめようとする事に、私の気が何だか落ち着かない。元気なオレンジ色をしたマグカップを両手に包み、私は気持ちを落ち着かせる為に俯いていた。
「が下を向いて黙ってたら、俺には何も解らないぞ？」
言い難そうにする私を見た大石先輩が可笑しそうに笑うと、白いマグカップに注いだ紅茶の香りを嗅ぎ、カップへと口を付けて紅茶を啜る。
「恋愛での”初めて”は、その〜ぅ……”価値”がありますか？」
気持ちが少し落ち着いた私は、マグカップをちびちびと啜っては、大石先輩を上目遣いで見詰めて訊いた。
「例えば？」
私の言葉に大石先輩は笑みを絶やさず、優しい顔をして問い返す。
「えっと……”デート”、”手を繋ぐ”、”キス”とかの”初めて”！」
自分が話している間に、両頬に熱が集まるのが解った。慣れない会話に、気恥ずかしさが私の胸の内へ込み上げる。大石先輩との会話は、テニスや部活、学業が日頃の大半を占め、お互いに苦手な恋愛事に関しては殆ど無いに等しかった。こうして、向かい合って問答するのは、とても珍しい。
「あぁ、そういう意味か。……そう言われると、”初めて”は”希少価値的なもの”って言えるだろうな」
マグカップを持たない方の手を顎先に当てた大石先輩は、1度瞼を瞑ると、まるで私の言葉を脳内で咀嚼して消化しているようだった。良く考えた上で出した大石先輩の結論に、私は軽く息を吐く。
――”ハジメテは格別”……。
菊丸先輩が言ったと言うちゃんの声が、不意に思い出された。その言葉に、また、私の心は小さな引っ掛かりを覚える。
「”初めて”って、やっぱり……凄いコトですか？」
私は大石先輩へと尋ねてみた。
「そうだな。まぁ、”凄い”と言うよりは、”特別”じゃないのかな？」
ふっ、と柔らかに賢しげな瞳を細める大石先輩が、軽く頷く。優しい声は、私の言葉のニュアンスを認めると、少しだけ言葉を言い改めた。
「”特別”……？」
不思議な気持ちで尋ねた私は、目の前の大石先輩をマジマジと見詰める。私と目の合った大石先輩が、先程顎先へと当てていた手の先を動かすと、人差し指をピンと立て、私へと笑った。
「よく考えてごらん、。一生の中で、”初めて”と感じられる事が、１度きりしか無い訳だろう？ そうなると、やっぱり”特別”だろ？」
大石先輩の優しい声が、私の心へと更に問う。
――一生の中で、”初めて”と感じられる事が、１度きり……。
大石先輩と出逢った私が、恋を知って、色々な”初めて”を経験してきた。告白も、デートも、手を繋ぐ事も、大喧嘩も、抱き締め合う事も……。人に話せる事だったり、話し難い恥ずかしい事だったり。それらは、恋を知らなければ、全て気付く事が出来なかったもの。
だから……。
恋愛事での”初めて”は――”特別”。
私にも、大石先輩の言いたい事が何となく見えたような気がした。ちびちびと啜ってたミルクティーが、マグカップの半分以下になった事に気付いた私は、それを１度炬燵台の上へと戻して、口を開く。
「あぁ、そっか！ だから、”初めてのキスは何味？”って女の子達の間で永遠の議題になるんですね！ ”キス自体が何味か？”なんてのも、良く議題になりますけど……」
パン、と両掌を鳴らした私は、ヒラメキを信じ、感じた事を優しい恋人へと告げた。私の言葉を聞き漏らさないように、耳を傾けていた大石先輩の頬が、ピクリと僅かに動く。
「お、女の子って……そんな事、話し合うのかっ？！」
穏やかな表情を崩し去り、大石先輩が驚愕の顔をして見せると、炬燵台を乗り越えそうな感じで身を乗り出していた。酷く狼狽する声が、困惑の色と頬の赤味を濃くしていく。
「え？ たまに……。そんな恋話、しませんか？」
女の子というものは、恋に関するお喋りが意外と好きなもの。大層驚いた顔の大石先輩を不思議に思いながら、私は落ち着いた顔で普通に答えていた。
「し、しないよ……っ！！ ……っていうか、は何味って言う気だ？！ それを考えると、何だか怖いよな……」
短く答えた大石先輩が、明後日の方を向くと、何やらブツブツと小さな声で喋り出す。”どうせ、お小言”と思っていた私は、完全なまでに大石先輩の言葉を聞き流し、別の事を考えていた。
――なぁ〜んだ、恋愛話とかって、あんまりしないのかぁ……。
恋愛小説とか好きだって言う大石先輩でさえも、友人達とは、恋愛話をしないらしい。男の人って、そんなものなのかな？
男性と女性。
同じ人間なのに性別が違うだけで考える事が、極端に違うの？
心まで分かり合えそうで、心は分かり合えない。男性と女性が交わりそうで、交われない所以なのか。どんなに想っても、想いを交わせない――そんな風に感じた私は、何だか淋しくなった。
唇を尖らせて、私は炬燵台に置いたオレンジ色のマグカップを手に取り、ゴクゴクと勢いつけて飲む。
「男の人って、つまんないですね！ 恋愛事の”初めて”以外には、別に興味無いんですか？！」
男勝りな飲みっぷりを見せた私は、カラに限りなく近くなったマグカップを炬燵台へと下ろし、嫌味タップリな声で大石先輩へとチクチクとした言葉で喋った。私が目の前の大石先輩へ視線をチラリと遣れば、そこには俯き加減の大石先輩が見える。
「そ、そんな事は無いけど。まぁ、”初めて”の時は気持ちが必要以上に昂るから、印象深いと言うか、想い出に残ると言うか」
赤味の引かない大石先輩の頬が、ますます朱に染まる。額に汗を浮かべそうなほどの様子で、大石先輩が、しどろもどろになりながら、懸命に話していた。大石先輩を見ていれば解る。どれだけ、”初めて”というものが、”特別”なのかという事が――。
――”初めて”は、”想い出に残る”……。
それは、同じ事を何度繰り返しても、それに勝るものは無い。
そんな風に言われていると、私は思った。
「ふぅん？ ……それじゃ、大石先輩も”初めて”が良いんですね！」
何だか面白くない気持ちが膨らんできた私の言葉は、棘の鋭さが増していく。可愛げの無い声が、自分自身を蝕むのが解った。
大石先輩との恋愛は、私の中で何年もの時間を費やしてきた。その時間の中で、色々な”初めて”をたくさん教えてもらい、それを１つ、１つ、越えてきた。特に、たくさんの”初めて”の中で、とっておきと呼べる、最後の”初めて”を、先日知ったところだった。
私には、もう――”初めて”を感じる事は出来ない……？
ひやりとしたものを、私は背中に感じた。
『”初めて”じゃない私は、何だか”用済み”みたいで』――そう話すちゃんの気持ちが、今になって漸く解る。あの時に話していたちゃんは、紛れも無く、私自身を映している鏡でもあったという事を――。
――大石先輩は、”初めて”が無いと……つまんない？
不意な闇の訪れが、私の胸の内を酷くざわつかせる。嫌な感覚が、身体と心の感覚を鈍らせていくように思えた。
「恋愛に関しての良い悪いなら、”初めて”は良い事じゃないか？」
ハァ、と浅い息を吐いた大石先輩は気持ちを落ち着かせ、私に真面目な顔で答えてくれる。人の善い大石先輩は、私の胸中に潜む闇の広がりなど、気付いてもないのだろうか。
「そうですね！ 男の人って、”初めて”に興味があるらしいし！」
可愛げのない私の声は、より一層の棘を増し、相手を、自分を傷付けた。その証拠とも言えるのは、大石先輩が私の言葉に軽く顔を顰めたからだ。
「随分な言い方だな、。まるで俺が、”初めて”にしか興味無いみたいじゃないか」
明らかに少し腹を立てた大石先輩の声が、私の意地悪な言葉を咎める。
――だって、さっき……言ったじゃんよ！
”初めて”の時は気持ちが必要以上に昂るから、印象深いと言うか、想い出に残ると言うか――って！ しかも、赤い顔で、しどろもどろに！！
”初めて”の無くなった私の前で、”初めて”が”特別”だって……。
あんなに一生懸命、話してたじゃない……っ！！
悔しくて、苦しくて――。
”初めて”を持たなくなった自分が、こんなに惨めな気持ちになるなんて、私は思いもよらなかった。
「”初めて”は”想い出に残る”って、いやらしい顔で言った！！」
大石先輩に咎められた私は、詰るような声で言葉を放つ。
「い、いやらしい顔？！ その言い方、さっきよりも酷くないか？！」
私の声に過剰な反応を起こした大石先輩が、更に気分を害した顔をして見せていた。微かな怒りを滲ませる大石先輩の表情を見ていた私は、そこから視線を外し、下を向く。
――”初めて”だから、”特別”だったの……？
ねぇ、私は……？
私自身は、恋愛事の色んな”初めて”よりも、価値がある？
ねぇ、私は……？
私自身に、意味は有る？
私の”初めて”は、もう無いよ？
私の”初めて”は、もうあげれないよ？
それでも、私自身には……価値が有る？
私……”用済み”になんか、ならない？
私には、恋の基準が何なのかさえも、解らなくなっていた。
浮き上がれない水の中に突き落とされたような思いで、ただ必死に私はもがく。
――何が”初めて”だったら、”特別”なの……？
自分が”初めて”を持っていたから、”特別”だったのか。
自分が”特別”だから、”初めて”に価値が有るのか。
自分が”初めて”を持たなくなったら、どうなるのか。
”初めて”が無くても、傍に置いてくれるのか。
”初めて”が無くなって、傍から離されるのか。
答えが見つからなくて、心が見えなくて。
尋ねる事が、知る事が――怖い。
心の闇が、自分の思考までもを支配し始める。ドロドロとした水を飲まされ続けるような状態に息苦しさを感じ、私は顔を上げて大きく口を開いた。
「だって、私……！ 私、もう……バージンじゃないもん！！」
肺の中へと息を思い切り吸い込んだ私は、炬燵台の上面を強く叩いて立ち上がる。バン！と大層派手な音が鳴ると、炬燵台の上にいたマグカップ達が震えた。
「そ、それは……ま、まぁ……。この前、俺が……」
賢しげな双眸を真ん丸にした大石先輩が私を見た後、急に顔を赤らめると、視線を泳がせ、モゴモゴと口篭る。私の持っていた最後の”初めて”を受け取った張本人は、何とも情けない表情を私へと見せていた。
「”初めて”に興味があるなら、バージンの女の子探せば？！」
”初めて”を全て使い果たした私は、酷く惨めな気持ちで言葉を口にして、唇を噛む。
「何？！ バ、バージンの女の子？！ お、お前、何言ってんだ！」
大石先輩の赤く染まる顔が、私の声で弾かれたように上向いた。私の言いたい事も、言ってる事も、何１つ意味が解らないと言いたげな大石先輩の眼が、私へと真っ直ぐに向けられる。
「”初めて”……もう、無いんだもん……」
酷く震え出す自分の唇から零れる声が、急に勢いを失くした。”初めて”というものが、どれ程の”特別”な価値あるものなのか。その事実を目の当たりにするのが怖くて、自分の視界端が歪み出したのが解る。
「お、おい？ ……おい、？」
急に意気消沈したような私の様子に、心配になったのだろう大石先輩は、床上から腰を上げると、私の腕へと大きな手を伸ばしてきた。
「大石先輩に”初めて”を、もっと頂戴って言われたら……」
自分自身の中身と向き合い、私はポツリと悲しく呟く。視界の端で留まっていたはずのものが、音も無く落ち、私の足先を濡らしていく。
「……どうしたんだよ、？」
膝を少し折った大石先輩が、私の傍らから覗き込む。大きな手の先が零れ落ちるものに伸びると、それを優しく拭った。温かい指先の温もりが、ますます、私自身を惨めにしていく。苦しさも、悲しさも、その温もりの前に、私は晒け出すしか術が無かった。
「あげられないんだもん！ ”初めて”……もう、無いの……っ！！」
自分の目元に触れた大きな手へと、救いを求めるように縋る。癇癪を起こしたような私の声は、静かな部屋に大きく響いた。
――もっと、もっと……大事にすれば良かった……っ！！！
私の”初めて”……もう、無くなっちゃった……。
今時の女の子に比べれば、私の恋愛は遥かにゆっくりとした時間を刻んでいる。それでも、自分の１番大好きな人に、与えられるものが無くなるぐらいなら、”初めて”なんてあげるんじゃ無かったと後悔の念が生じ始めると、私の胸には心苦しさばかりが募っていく。
「あのな、。”初めて”っていうのは、な――」
必死になって大石先輩の手にしがみ付く私の背を、大石先輩のもう片方の手が柔らかく撫でると、私の荒れた気を静めるように話し出す。しかし、私には話を聞けるだけの余裕は無かった。
「私、もう持ってない！ ”初めて”持ってないの……っ！！」
何も持たない自分が本当に酷く惨めで、それを相手に伝える事は何と悲しい事なんだろうか。申し訳なくて、どうしようもなくて、尚更、私は大石先輩の腕に強く縋りついた。
「だからな、。”初めて”の有る無しじゃなくて、な――」
”弱ったな”と言いたげな溜息が私の旋毛に掛かると、大石先輩が私の荒れた気を静めようと、根気強く、優しく話し出す。
――それでも、”初めて”は有ったほうが、良いんでしょう？！
歪みを伴う私の心は、捻くれた答えしか出さない。震え続ける唇を、私は悔しさを込めて噛んだ。
「”初めて”を貰えたら、先輩だって嬉しいでしょ！ 違うの？！」
もう詰るしか無い。そんな声は、八つ当たりもいいところだ。凄い剣幕で顔を上げた私に、目をパチクリとさせる大石先輩がいた。
「え？！ そ、そりゃ、俺も男だから……”初めて”は嬉しいけど――」
ただ泣き崩れると思っていたのだろうか。大石先輩は、予想外な私の様子に、面食らうようにして話す。
「ホラッ！ そうでしょ？！ ”初めて”が、１番嬉しいんでしょ！！」
夫の浮気を見つけた妻のように、私は詰め寄ると、大石先輩の言葉尻を真似、キャンキャンと小さな仔犬が吠えるように、噛み付いていた。
「それは、他の誰かの”初めて”が嬉しいんじゃなくて――」
私の勢いに押されながらも、大石先輩は背を少し反らし、落ち着いた声で話しては、私に詰め寄られる距離を空けようとする。自分と先輩の間に出来る隙間が、まるで自分を切り離そうとして見えた私は、それが嫌で慌てて大石先輩の胸元へ飛び込んだ。
「だって！ 私の持ってた最後の”初めて”も、あげちゃったもの！！」
”あげるんじゃなかった！”と失ったものを心底惜しむ気持ちで、私は言葉を口にする。怒りたいのか、悲しいのか、悔しいのか。言葉にならない気持ちだけが、私の中で膨らみを増していた。
「！ 頼むから、少しは落ち着いて俺の話も――」
懇願に近い声で話す大石先輩の腕が、私の身体をやんわりと包む。その温もりを失いたくない一心で、私は大石先輩に抱き付いた腕へと力を加えた。
「”初めて”持ってない私なんて、もう興味無いの？！」
口にすれば、自分に余計な傷が増える。解ってたはずなのに、それでも言葉を口にしてしまう。事実を知るのが怖くて、覚悟も無いのに、尋ねないでいる事が出来なかった私は、何て愚か者なのだろう。
「おい、誰もそんな事は言ってないだ――」
困り果てた声が深い溜息を零す。やや、呆れたように口を開き、大石先輩が話そうとしていた。
「ねぇ、”初めて”なんかじゃない私は、もう”用済み”……？」
充分泣き濡れ、腫れた目で、私は大石先輩を見上げ、問い掛けていた。
――”用済み”なんて、”興味無い”なんて、言わないで……。
神様に祈るように、私は必死になって大石先輩へと祈る。私の祈りが通じたのか、大石先輩がゆっくりと口を開いた。だが、私が祈っていた言葉とは程遠いものが室内に響く。
「――いい加減にしてくれ！」
抱き付いていた私の両肩を強く掴んだ大石先輩の腕が、無情にも私を引き剥がすと、堪忍袋の緒が切れたように怒鳴った。
「……っ！！！」
部活中では怒鳴られる事も多かったが、プライベートでは無いに等しい。凄い剣幕で怒鳴られた私の身体は、金縛りにあったように、その場で固まった。
「さっきから、何だ！ は”初めて”以外、価値の無い女なのか？！」
聞くに堪えないと言いたげに、大石先輩が声を荒げ、言葉を継ぐ。その声を聞いた途端、私の心の何かが、ぷつん、と切れた。
――やっぱり、”初めて”以外……価値の、無い……女……？
室内の景色が、私の胸を抉る痛みを伴って、ぐにゃりと歪む。その気持ち悪さが、私の心の傷を更に広げた。
「価値の、無い女って……言ったぁ……ぅ〜、うわあぁぁ〜ん！！」
恋人が唱えた言葉を復唱すると、私の両足の膝は、カクンと折れた。力無く、その場にへたり込んだ私は、胸に込み上げるものに負け、大粒の涙を零して号泣する。
わんわんと大泣きを始める私に驚いた大石先輩が、私の傍で床へと両膝を着き、子供をあやす母のように、私を力強く抱き締めた。
「そうじゃない！ 少なくとも、俺はそれが目当てじゃない！」
キッパリと断言する声が私の耳を打つが、私は大石先輩の本当の気持ちを知っている。恨めしい気持ちで、私は口を開いていた。
「でも！ ”初めて”貰って、凄く嬉しそうな顔したじゃんよぉ！！」
悔しさを滲ませて言った私は、大石先輩の胸元を悔し紛れに両手で叩く。私の”初めて”を、何１つ取りこぼさずにきた大石先輩が、どんな顔で”初めて”を受け取ってきたのかを、私は見続けてきていた。
「そんなの、当たり前だろう？ ……男なら、誰だって喜ぶよ」
然も当たり前のように大石先輩が話す。直ぐに照れたりする 割りに、妙なところで堂々としている大石先輩を、私は何だか憎らしく思えた。
「ホラッ、やっぱり！ ”初めて”が、1番嬉しいんでしょ！！」
私は悔し紛れに、大石先輩の胸元を、また１つ叩く。どんなに強めに胸元を打っても腕を解かない大石先輩は、まだ私を怒ってるのだろう。目を合わせるどころか、顔すら見せてくれない。
「相手が”大切にしてたもの”を貰って喜ぶ、それの何が悪い？」
私の言葉に、きちんとした理由をつけて返してきた大石先輩が、私へと問い返すと、私が身動ぎ１つ出来ない強さで抱き締めた。
「―― っ！」
あまりの強い抱き締めに眉間を寄せた私は、声を発せられずに身体を硬くする。きつく抱かれた痛みは、まるで与えられる罰のようだと、私は感じた。
「”初めて”に価値があるのは、”お前”に価値が有るからだ」
それ以上のものでも、それ以下のものでもない。そう語った声に続いて、大石先輩が深い溜息を吐き出すと、私の旋毛を撫でた。
――”私自身”に、”価値が有る”ってこと……？”
それじゃあ、”初めて”は、”私自身”っていう価値の、次……？
言葉の真偽を確かめようと、自分を抱き締める人を見上げる為に、私は首を少し動かした。けれども、それを許さない大石先輩の顎先が、顔を上げようとする私の動きを封じるように、私の頭の上へ乗っかる。
「で、でもね……？」
私は見上げる事を諦め、仕方なく口を開いた。
「”でも”も、”ヘチマ”も、無い！ お前、そんな事も解らないのか？」
私が問うよりも先に、大石先輩が呆れた口調で間髪入れずに言葉を挟むと、先輩の両腕が緩み、私の身体に自由をくれる。先輩の両腕から急いで抜け出した私は、大石先輩の肩に手を掛け、怒っているだろう顔を覗いてみた。
私の予想に反した大石先輩は、優しい眼をして私を見詰め返す。何も言わないで私を見ているだけの大石先輩の優しい顔を見ていたら、私の心で育った鋭く尖った棘達が、丸くなっていくのを感じた。
「”ハジメテは格別だ”って、菊丸先輩が嬉しそうに言ったってちゃんが言うし、大石先輩も”初めて”は”良い事”だって……」
不安で固まったものが溶け出すと、私の口から溢れ出た。たどたどしい私の言葉では、感情を上手く説明出来てなくて、大石先輩が理解に苦しむものになるだろう。そうは解っても、私には、ただ全てを吐き出すように喋る事しか出来ない。
「”初めて”じゃないと”用済み”みたいで悔しいって、ちゃんが言ってて。良く考えたら、私も”初めて”が全部無くって……」
私の口から出た思うままの言葉は、次から次へと勝手に連なる。
ちゃんの嘆きは、鏡に映る私自身の姿でもあった。もう1人の自分を映した鏡は、私自身が気付いて無かった姿をとても綺麗に映し出してしまったから、私は大好きな人から切り離される怖さと痛みに気付いてしまった。
「私、ホントに空っぽ……ぅぇっ、”初めて”、全部……もう無くって……」
大切なものを失くし、あまりにも惨めに感じた気持ちが、また胸の内で蘇る。苦い気持ちが、私の感情を大きく揺らした。
また泣き出しそうになる私の目元に右手の甲を宛がうと、私の額に掛かる前髪を除けた大石先輩が、顔を近付け、私の瞳を見る。賢しげな双眸は揺れず、まるで私の心を覗いているようだった。
「……は、何にも失ってないだろ？」
ややして、大石先輩が私に訊く。
「え……？」
スンッ、と鼻を鳴らした私は、大石先輩の言葉に首を傾げて見せた。
「の”初めて”は、此処にある。……大丈夫、覚えてるから」
私の瞳を覗き終えた大石先輩が、大きな手を胸元辺りに添えて、やんわりと目元を三日月に模り、笑って答える。
――私の”初めて”……無くなった訳じゃない……？
大石先輩が、私の”初めて”を、ちゃんと預かってくれてるの？
私は、優しい恋人の言葉に、深い安心と例えようも無い嬉しさを同時に覚えた。
「お、大石……先輩……」
嬉しさで、自分の頬が緩むのが解る。にへらとした不細工な笑みを作った私は、懸命に恋人へと笑って見せた。
「”初めてが格別”なのは、”大切な相手”がいるからこそ、だ。英二が言った意味、俺には解るよ……」
そう話した大石先輩は、菊丸先輩の言葉を謎解くように、私へ話して聞かせる。女の子には計り知れない男性の気持ちを、大石先輩がほんの少しだけ教えてくれた。
「大石先輩には、もう”初めて”をあげられないよ？ ……平気？」
念を押すように大石先輩へと話した私に、大石先輩が笑って頷く。
「あぁ、もちろん。俺は……がいてくれるなら、それでいい」
あんまりにも嬉しそうな顔で大石先輩が笑うから、私は少しだけ、そんな彼に意地悪を仕掛けたくなった。
「”初めて”あげられなくても、私……”用済み”に……ならない？」
少し拗ねた顔を恋人に見せ、私は可愛くない声で、再度問う。
「”用済み”になんか、しないさ」
また軽く頷くと、大石先輩が機嫌よく、ニコニコとした顔で答えた。そんな顔を見ていると、私は何だか心配になる。
――何で……さっきから、ず〜っと笑い続けてるの……？
私の胸の内で、大石先輩に対する僅かな疑問が生じた。
「大石先輩を喜ばせてあげられる”初めて”……本当に無いよ？」
今度は訝しげな眼をし、私は大石先輩の様子を用心深く見詰めて訊く。
「ははっ。……バカな奴だな、は」
私を見ていた大石先輩が、一際大きく笑い声を立てた。どうやら、ご機嫌の種明かしをする気になったらしい。
「バカじゃ……ないもん！」
私が先に意地悪を仕掛けたはずなのに、それよりも先に、大石先輩に軽く遊ばれてたんだと思うと、ちょっぴり悔しくなった私は、プイッと明後日の方を向いて、頬を膨らませた。
「俺とが、このまま続けば、”初めて”は……まだ、あるぞ？」
私の機嫌を損ねた大石先輩が、少し困ったように笑うと、やけに意味深な言葉で私の気を誘う。
「えっ？！ ……本当に、あるの？！」
大石先輩の言葉に、何度か瞬きをした私は、大石先輩へと凄い勢いで視線を戻した。
「２人が一緒になる約束も、家庭を築くのも、家族が増えるのも。きっと”初めて”な事ばかりだろうな。……そう思わないか？」
臍を曲げた私の頭をゆっくりと撫でながら、大石先輩は私が思いつきもしないような事を、楽しげな笑顔でサラリと言う。
――えっと……？
それって、つまり……結婚、しちゃうの？
私を驚かせた大石先輩は、私が答えるのを、ただニコニコと笑って待っていた。私は上手く働かない思考を、懸命に働かせて、何とか口を開く。
「……お、思います」
あまりにも遠い先の話に、私はポカ〜ンと口を開けた後、呆けた顔のまま、コクンと首を縦に振っていた。
「の”初めて”を……俺は、まだまだ貰う気なんだけどな」
少し欲張りな顔を覗かせた大石先輩が、照れ臭そうに笑うと、私の頬を軽く利き手の甲で撫でる。
――私、先輩を喜ばせる”初めて”……本当に持ってるんだ！
大好きな人を喜ばせられる”初めて”が、まだ自分の中にある事が判り、心底嬉しかった。私の頬を撫でてくれた大石先輩の首へと、両腕を回して抱き付く。
「私の”初めて”、大石先輩に……たくさんあげるからねっ！！」
私は片頬を大石先輩の耳元へとギュッと押し付け、愛しげに頬擦りしながら喋った。すると、少し擽ったげ首を竦めた大石先輩が、軽い笑い声を立てる。
「今感じてる気持ちも、”プライスレスなもの”なんだろうな……」
優しい声でそう語ると、大石先輩が顔を私の方へと向けた。すぐ傍にある私の頬へと、大石先輩が柔らかく口付ける。
「大石先輩、大好き……っ！！」
ホワホワとする温かい気持ちと一緒に、もう１度、私は大石先輩の首元を思いっきり抱き締めて、そう言った。私の大好きな人は、”制服にヘンな皺が増えるぞ？”と、おどけた声で話しては、可笑しそうに笑い続けていた。
ぴちゃん、と軽い水の跳ねる音がすると、大きな水槽の中の魚達が、一斉に水草の中へとかくれんぼを始める。それを気に止めるでもない２つの置時計は、ベッド棚の上でカチコチと輪唱を楽しんでいた。床上に敷かれた絨毯の上には、大石先輩が履いていたジーンズパンツ、上着のパーカー、長袖の 白シャツと、私の紺色の制服に赤いリボンスカーフが、無造作に広がっている。
「……ぅ、あ……んん……っ」
大きな掌が私の肌を滑り落ち、這い上がった。規則正しい置き時計の秒針音の間を縫うように、気恥ずかしくなるような声が、その度に唇から細く漏れる。
いつも以上に柔らかな動きで私に触れる大きな手が、脇腹の肌を緩やかに撫で上げていた。少し骨張った手の先が、そこから愛しげに、愛しげに、場所を移しては、私の肌上を何度もなぞっていく。
――何か、ちょっと……初めての時、みたい……。
あまりにも優しく、愛しげに触れる手の先に、私はそんな事を不意に思い出した。
「今日は……したくない？」
恥ずかしくて他所を見ていた私の顔を急に覗き込んだ大石先輩が、困った顔で言い難そうに私へと訊く。
「っ、え……？」
自分に触れていた手が離れたのを感じた私は、ゆっくりと上体を起こした。大石先輩の優しい表情が、どこか淋しげに見えた気がした私の前で、大石先輩が浅く溜息を零すと、私の頬へと指先を伸ばす。
「泣きそうな顔、してるから……さ」
そっと触れた大石先輩の指先が、繊細な硝子細工の表面をなぞるような手付きで、私の頬上を動くと、そんな事を言った。
「あ、あれれ……？」
慌てて眦に手の甲を当てた私は、そこを濡らしたものが何かを知る。
「無理する事なんて、無いんだぞ？」
私の頭を大きな手が一撫ですると、苦笑する大石先輩が、私を気遣った言葉を掛けてくれた。
「ち、違うの！ これは……」
ベッド下に落とした私の下着や制服に手を伸ばした大石先輩の背へ、私は乗りかかるようにして、涙の訳を探りながら恋人の動きを封じる。
「気持ちと身体がバラバラな時は止めておこう。……な、？」
愛情を優しい態度で示す大石先輩が、彼の背に貼り付いた私を、小さな子を背負うように後ろ手を組みながら言った。
「だって、大石先輩が……っ！！」
何で涙が出たのかは、正直、私にも解らない。でも、泣きたくなる気持ちが、何となく解るような気がした私は、唇を尖らせて、大きな背に寄り掛かった。
「……俺？」
意外そうな声で呟いた大石先輩が下着達を拾う手を止め、上半身を捻ると、引っ付き虫になっている私を振り向く。
「は、”初めて”の時みたいに……触るんだもん」
目をチラリと動かし、私は大石先輩に小さな声で言った。
「そうか？ 気のせい、だろ？ ……俺は、いつもと一緒だよ」
忙しない瞬きをした大石先輩が首を捻ると、軽く笑う。三日月に模る瞳が、柔らかな眼差しで私の姿を捉えた。
「気のせい、なのかなぁ……？」
しゅんとした表情で小首を傾げる私が、浅い溜息を漏らして呟いた途端に、大石先輩の片腕が私へと伸びる。その腕が攫うように私を掴まえると、難無く、ベッドの上へと、私は転がされた。
「、お前……後悔……。いや、何でもない……」
驚いた私が目を見開く間に、私の首筋に顔を埋めた大石先輩が軽く首を横に振り、先程の続きに戻るかのように、私の肌上を艶かしく唇で這っては、大きな掌を蠢かし始める。
「大石せんぱ……っ、ぁ、ぅあ、……やぁ……あぁ、っ！」
優しい触れ方は、何処か繊細な想いを奏でるようにして、私の身体の隅々を触れていた。私は、濡れた浅い息を繰り返しては、言葉にならない声を漏らす。恥ずかしさを我慢し、薄っすらと瞼を押し上げて恋人へと視線を移せば、瞼を伏せ気味にする大石先輩の男らしい表情が、少し離れて見えた。
――いつもと、同じ顔……してる。
私の身体の上で動く人は、知らない人の顔ではない。私を優しく包んでくれる腕を持つ、大石先輩以外の誰でもなかった。その事に心からホッとした私の眦から、温かい雨が降る。
「…………」
私の瞳から零れたものを見つけた大石先輩が、眉間へと浅い皺を刻むと、心苦しそうな表情で私の名を囁いた。切なげに聞こえた声とは裏腹に、恋人からの性急なまでの愛撫が続く。
「ぅ、あぁ……っ、やぁ、せんぱ……っ！！」
仰け反る咽喉元を曝す私が甘えたな声を上げると同時に、私の身体の奥へと、無遠慮に欲の塊が押し込められた。質量の増すモノに、無意識に腰が引ける。私の腰を逃がさないように、大石先輩が私の太腿を深く抱えた。
「”初めて”、本当は……失くしたく、なかったか？」
繰り返される律動が私を責めるように、私の内側を強く侵していく。痛みに近い享楽で、混沌とする私の意識は、恋人の胸の痛みさえも聞き逃させ、甘さと悦びだけが私の中を支配する。私は軽くなっていく肢体を委ねるかのように、静かな快楽の淵で、ゆったりと漂っていた。
「”初めて”が無いなんて、は言ったけど……」
珍しく、抜け殻のような表情でぼんやりと天井を見てた大石先輩が、ポツリ、ポツリと話し始める声がする。
「えぇ？！ まだ、考えてたんですか……？」
大石先輩の声は、気だるいまどろみに、ウトウトとしかけてた私の頬を強く打った。私の中では、既に、消化し終えてた悩みを、心優しい恋人が未だ抱え込んでいた事に、私は殊更驚く。
「よくよく考えると、俺もに全部あげたし……。お前にさ、”初めて”が欲しいって言われたら、俺も……与えられるものが無いと思って、さ……」
与えたがりな恋人が、少し悲しそうに話すと、私を見た。室内灯の灯りが、大石先輩の柔らかな眼差しを揺らす。
私が”初めて”を失くしたと泣いた事に、責任を感じたのだろうか。そう思うと、自分勝手なまでに泣き喚いた事が申し訳なく思えてきた。きっと、優しい大石先輩は、私が大泣きしていた横で、酷く胸を痛めていたに違いないだろうから――。
私も、大石先輩も、お互いが”初めて”の恋人で、運と努力を積み重ねてきた付き合いで、今日までに至る。当然、恋愛の何もかもが、互いにとって”初めて”だった。
ただ、男にとっての”初めて”は、何もかもが早く脱ぎ捨てたい服のようなものであり、女にとっての”初めて”は、宝石のように大切なもの。私以上にその違いを理解しているだろう大石先輩を、私が目一杯に困らせたのだという事実は、今の大石先輩の言葉で解った。
――大石先輩、ごめんね……？
私はそんな気持ちで、掛布団下に隠れる大きな手を、強く握り締める。すると、私がギュッと握った大きな手が、やんわりと私の手を包むようにして握り返してくれた。
「私、大石先輩の”初めて”……もう、いらないよ？」
さっきまで”初めて”に散々拘っては、わんわんと泣いてた私がケロリとした声でアッサリと言って、隣で寝ている恋人へと満面の笑みで笑って見せる。
「そう言われると、それはそれで……少し凹むよな」
私の表情を見るなり、どこかホッとした息を漏らした大石先輩が、軽口にも近い物言いで苦笑しながら話した。
「その代わりに、ね……」
安堵の息を漏らした大石先輩を見詰め、繋いでいた手を離し、私はその手を掛布団の下から出して、大石先輩の目の前へと翳す。
「ん？！」
目の前へと急に出された私の掌を、少し寄り目にして見ていた大石先輩が、驚き顔をして私の顔へ視線を移した。そんな顔を見ていた私は、少し偉そうな態度を醸し出し、口を開くと同時に、小指だけを立てる。
「大石先輩、約束して！ 私に……”先輩を全部くれる”って！！」
私は強気の姿勢で言い切り、小指だけ立てた手を、更に大石先輩の顔へと近付けた。
小指の役割は、約束を結ぶこと――そう、”指切り”。
今昔から変わりなく、約束を結ぶ為に多くの人達が、してきた事のあるもの。
「……ぷっ、ははっ！」
ズイッと近付いた私の小指を見た後、大石先輩の目が動き、その瞳に私の顔を映すと、可笑しそうに笑う。
「ねぇ、約束……してくれますよね？！」
大石先輩の態度に焦れた私は、小指だけでなく、自分の身体ごとを寄せ、笑い続ける大石先輩との間を詰めた。
「そうだなぁ……約束するには、条件が１つあるぞ？」
大石先輩が瞼を軽く伏せると、少し悩むような顔を見せる。私への意地悪とも取れるその態度に、私の口元がへの字に曲がり出した。ただ、それが完全に曲がり切るよりかは、早めに結論を出した大石先輩が、真面目な顔をして言う。
何でも与えたがりで、身内には甘く、無条件になりがちな大石先輩が、”条件”などという珍しい言葉を口にした事に、私は目を剥いた。
「じょ、”条件”ですか？！」
あまりの事に驚きを隠せず、素っ頓狂な声で、大石先輩の言葉を私は唱える。
「それは、だな――」
私の小指に同じ指をするりと絡めた大石先輩が、内緒話をするように私の耳元へと唇を寄せ、囁いた。温かな息が私の耳を優しく撫でると、いとも容易く、私の両頬を赤く染めていく。
「を、”俺に全部くれる事”、だよ？」と、睦言を唱えた私の世界一大好きな恋人は、照れ臭そうに笑った声を私に聞かせた。その後は、私の耳元へと甘く優しい口付けを、そっと１つ落としてくれたのでした。
【END】