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――攫うように、あなたに愛されたい。
――奪うように、あなたに求められたい。
穏やかな日常を飛び出して。
贅沢な夢を見る乙女の憧れは、想い人との揺れ動く愛を描く恋物語。
――柔らかな眼差しが射抜く強さを見せたなら、その瞳に惹きつけられたい。
――物悲しい声音が焦れるほどの想いを零したら、その唇で囁かれたい。
満ち足りた日常を抜け出して。
贅沢な夢を見る乙女の憧れは、想い人の悩ましい熱情に触る恋物語。
――魂から揺さ振られるように、想われたい。
たおやかなる恋人同士の間で、密やかに綴られる熱い想いを交わす。
夢を語るように愛を語る、そんな恋物語となるように――。
パラリ、パラリ、またパラリ、と指先から乾いた音が奏でられるように紡ぎ出され、室内へと響いていた。その音すら気にならず、急かされたように心弾む物語を、私は一心に読み進める。
時世は、世界が創世されたといわれる――人々の不可侵な、神々の時代。
ロマンチックな神殿の花園での許されない逢瀬を重ねる世界最後の女王と、類稀なる美丈夫な騎士が１人。
静かな赴きある花園は心を癒すものであったが、憂いを帯びた恋を抱える恋人達には物悲しく目に映った。
”――何でしょうか？”
翳りを帯び、未来を憂う騎士の横顔が動き、女王の目を捉えると、音のない世界に２人は佇む。
責めるような女王の視線を受け、騎士はただ静かに視線を交えた。一時続いた沈黙を破り、静かに口を開いたのは――女王最愛の人。
”女神である貴女に焦がれても、私が連れ出すことは叶いません。”
驚くように見開かれた女王の瞳に、映り込んだ騎士の表情が歪む。騎士がそう零した言葉に、女王は力なく頭を垂れた。その隙を突くように、騎士は力強く女王の手を引き、自らの腕に抱きとめる。
”ですが、今すぐに――貴女を攫うことは出来ます。覚悟は……宜しいですか？”
素早く女王の耳元へと唇を寄せた騎士がそう囁くと、その場で女王の御身を両腕で掬い上げ、足早に女王の私室へと向かったのだった――。
禁断の恋物語が綴られた本を手にしていた私は、文章を読み進めながら、深く息を吐き出し、小さくポツリと呟く。
「……ど、どうなっちゃうんだろう〜……」
紙面に綴られ、睦言のように繰り返される言葉は、想い人からの密やかな想い。
定番といえば定番の、ありきたりな設定の、女王と騎士の恋物語。
私の手にある気の遠くなりそうな分厚い本は、友人のちゃんが貸してくれたものだった。なんでも、２０代前半の女性達が支持している女流作家が書いた恋物語だという。本の分厚さに怯んだ私は、本を読むことに気が進まずにいた。
しかし、静かな室内で暇を持て余していた私は、気まぐれにパラリとページを捲った。そんな些細な行動が、物語への誘い水となり、今に至る。
時代背景はファンタジーそのものであれど、物語の主人公達の恋する想いは、十分に共感できたことが一因となったのか、その紙面を飾る文字達に魅入られるようにして話を読み進めていくことが、意外なほど容易だった。知らぬ間に物語の中へ、私は自分の身と心を投じていたのだ。夢中になるのは、やはりコレが若い女性の間でベストセラーと呼ばれる恋物語だからだろうか。物語の背景を美しく象るように描写されている文章に心が躍っていた。
「その本は、が夢中になるほど……その、面白いのかい？」
先程まで学習机に向かい、大学への提出用レポートを作成していた私の恋人が、お茶の用意をし、いつの間にか私の左横へ腰を下ろしている。
普段、読書の”ど”の字も口にしない私が、それで人を叩けば、さぞかし痛がるだろう分厚い本を、夢中で読んでいたのだ。それも恋人の行動を気付かないぐらいに、だ。当然、今居る部屋の主にとって、さぞかし物珍しい光景だろうと私は思った。
「え？ ……あ、はぁ、まぁ……それなりに」
咄嗟に、嘘をついた私。面白い、なんてものではない。女の子ならば、誰しも１度は思い巡らすだろう、恋のシチュエーションが所狭しと紙面に綴られているのだ。恋愛小説を好んで読むと言った自分の恋人を思い出し、慌てた私は言葉を濁した。
興味を持たれては……困る。
私は、そう思った。
この私が興味を持った分厚い本が、甘く、夢のような恋物語だと、恋人が知る事に、何だか気恥ずかしさを覚えたからだ。
ちゃんから借りた分厚い本の間に栞を挟み、自分の膝上へとそれを置く。
本の表紙を、私は名残を惜しむように眺めつつ、自分の長い髪の毛先を弄った。
「……そ、そうか……」
コトリ、と置かれた陶器のマグカップが、テーブル面へと接触する音と、どこか溜息交じりで、残念そうに呟く恋人の声が聞こえた。
そんなにも、読みたかったのかな？
でも、恋愛モノが好きだなんて、本当に意外だよねぇ……。
私は大石先輩の短い呟きに、内心苦笑していた。
いつも穏やかで真面目な優等生である大石先輩は、恋愛も専ら優等生だった。ロマンチストなのかも知れないけれど、ドラマチックな展開に耐えれなさそうだ。それは、人のことを気にかけて心配する先輩が、恋の駆け引きに興味を惹かれるようには、甚だ思えないからだった。
恋愛下手な大石先輩が、恋愛小説に興味を示すとは未だに信じ難く思う私がいる。まぁ、恋の駆け引きのことを言えば、私も大石先輩のことを言えた義理じゃないけど。
とはいえ、今読んでいる本は、恋愛に重きを置いた神々の紛争を題材にしていて、面白いのは確かだった。
もう少しだけでいい、物語を読み進めたい。
そんな気持ちを隠すようにようにして、目の前の恋人へと問いかけようと、私は口を開く。
「そ、そういえば……大石先輩の課題は、もう終わったんですか？」
「ん？ ……あぁ、終わったよ。俺が思った以上に、が静かにしてたからかな？」
左隣に座る大石先輩が、からかうように話し、くすっと軽く笑った。私も用意してもらったマグカップへと手を伸ばし、紅茶を一口飲む。
相変わらず、優しい雰囲気を漂わせる室内は、部屋の主に似ていた。穏やかな時間を刻む２つの置時計の秒針は、長い間輪唱を続けている。今読んでいる恋物語と私の恋の日常は、まったく以って無縁だった。
確かに、私の恋だって多少の波風が立つことはあったが、驚く程のドラマティックな展開となるような出来事は皆無に近かった。それはきっと、恋人――大石先輩――の性格が充分関与しているとも思える。慈しむように恋をすることはあるだろう。その献身的なまでの想いを注がれている自分には、よく解る。
だが、身を焦がすような恋をする彼を想像することは難しかった。一言で言えば、大石先輩のイメージではなかったから――。いつも穏やかでいて、背を正せば、颯爽とした雰囲気を纏う大石先輩には、どこか”恋”そのものが、とても無縁なものに感じられた。今思うと、いかにも”恋がしたい”女の子と並んで笑い合い、デレデレとした図を思い描く事が出来なかった。
――私とならば、恋愛臭さを比較的感じなくて済むと思ってる……とか？
”恋”、すなわち”恋愛”と無縁だと自ら決定打を放った思考に、私は若干顔を歪める。
心に浮かぶ疑問に軽く凹まされた私は、分厚い恋物語の本へと視線を落とし、更に隣へ座る大石先輩へと目だけ動かして盗み見た。静かな横顔は、この部屋の空気に馴染み、優しさをほのかに漂わせている。
私の視線に気付いたのか、大石先輩が私よりも若干高い位置にある目を動かし、チラリと見下ろしてきた。その目が、私の思うことを読んだような気がし、胸の中でドキリと音を鳴らす。
「――何だい？」
短い問いかけに、どこか冷えた音を感じた。大石先輩が私を見下ろす目から、何故か視線を外せずにいる。私はすぐに答えられず、ただ少しだけ目を見開く。
窓から差し込む光に陰る大石先輩の顔に、私の知らない空気感が漂い始めると、先輩の口元がふっ、と微かに緩んだ。そして、大石先輩の唇が私の左耳へと不意に寄せられた。
「俺とじゃ――退屈、かな？」
―――ドキリ……。
言葉少なく、考え事をしてしまった自分を気にしての言葉なのだろう。
けれども……それは、どういう意味なのだろう？
先程まで読んでいた恋物語の続きを気にしている自分が、バレたのだろうか？
それとも、自分と大石先輩の恋そのもの自体が、たおやか過ぎることにだろうか？
ドキドキする胸の内を必死に抑え、何か答えようと思う私を悲しく見下ろす双眸と、大石先輩の目へ向けた自分の視線が交わる。
――あ……れ？ この感じ、どっかで……？
感覚を辿るように、記憶を呼び覚ます。
どこで感じたのだろうか、と私は思考に耽けようとした。
「、退屈なんだろう？ ……退屈から――解放、されたいんだろう？」
先程問われた事すら、すっかりと忘れてた私に、珍しく焦れた大石先輩の声が耳を打ち、ハッとして慌てて意識を手元に戻した。
「そ、そんなこと――ひゃっ！」
そんなこと無い――と、言葉を続けようとした私の心を見透かした大石先輩が、私の肩を急に抱き寄せ、そのまま２人で床上へと傾れた。優しさの滲んだこの部屋が、途端に、ただならぬ雰囲気で室内を包む。この特別な空気に未だ気恥ずかしく、慣れない私は、床上で仰向きになった姿勢でパクパクと口を動かし、何とか声を絞り出す。
「あ、あの、あのあの……っ！」
あたふたとしている私の体のラインを服の上から大きな手が沿って動くのが、視界の端に見える。
「お、大石先輩？ ……ねぇ、大石先輩！ 大石先輩って――ん……っ！」
どうして急にこんなことをするの、と責めるような声で、私は恋人の名を口にした。何度かの声掛けも聞く耳持たずと言わんばかりに大石先輩は、うるさい私の口を文字通り塞いだ。
性急なまでの彼の手の動き、口を塞ぐような口付けが執拗なまでの貪りに変わり、私の背からは、汗が噴き出そうになる。恥ずかしさのせいではない。どちらかといえば、怖さが先立っていたからだ。
――”退屈”
その一言を解消するためのだけに、抱き合うの？！
”まさか”、と思いつつも、退屈凌ぎに抱き合うなど、私には考えられなかった。 抱き合うという事は、愛情を確認するための手段だった。――そう、今までは。
慈しみ、優しく包むように扱われるのは、確かに物足りなくも感じたのは事実だ。でも、それは大石先輩が優しいからであって、致し方無い事だと思っていた。自分と大石先輩には、焦がれるような恋愛は――性格的に合ってない、と。
穏やかな恋をするのは、実に難しい。それは理性で納得しても、感情がついていかない。
あれほど大事にされ、尚、何を求めるというのだ、贅沢者が、と自分達の恋を知る者達から見れば、さぞかし罵られることだろう。
世界最後の女神と美丈夫の騎士が紡ぐ禁断の恋の激しさに惹かれるのは、自分の日常とは切り離された世界観だからだ。だからこそ、あの分厚いまでの恋物語に没頭してしまうのだろう。
想いの深さが、感情の揺れだけで解るものではないとはいえ、自分の想い人から想いの強さ、激しさを見せられることに、恋を知る乙女であれば、誰もが１度は憧れを抱くというもの。
求められる強さに身を委ね、愛されている事を知りたい――と。
――大好きな人の、想いを受けたい……と。
するりと熱い掌が自分の腹部を撫でた感触に首を竦めた。優しさを忘れたその掌は、私の肌の上をもどかしく蠢めく。私の唇を貪った形良い唇が今度は首筋辺りを滑っていた。為すがまま、されるがままの状態で思案を巡らせていた私は、ふと気になった。
――俺とじゃ、”退屈”？
鮮明に思い返せる言葉と、その声。
どこか、いつもの大石先輩らしからぬ雰囲気を纏い、翳る瞳。
大石先輩からの問いは、やっぱり……”この恋に飽き始めた”というニュアンスが含まれていたのだろうか、と。
たおやかな恋愛は飽きる――そう、思われたんじゃないの？
考えが纏まった途端、私は彷徨わせていた視線を大石先輩へと定めようとした。
でも、今更……何て言えばいいの？
そう思うと、私の身体が強張った。
その強張りに気付いたのか、私の首筋を辿っていた唇を離した大石先輩が、私の顔を見る。何も言葉を発しない、閉ざされた形良い唇が憎い。
大石先輩は、私が”先輩との恋に飽きた”と思ったから、退屈凌ぎに抱くの？
”飽きた”なんて……１度も言ってないのに――腹癒せのように、私を抱くの？
こんな時だけ、そこらの男のような意地悪をするなんて……っ！！
大石先輩らしくない、恋人への仕打ちが悔しく、思わず唇を噛んだ。私の顔を見ていた目が、ふいっと明後日の方へ向いたかと思えば、グイッと上着を捲られ、胸の膨らみへと唇が寄せられた。ねっとりとした感触に、肌が粟立つ。
いつもと違い過ぎる性急な愛撫でさえ、反応してしまう自分の身体が恨めしい。ギュと目を瞑った私は、更に唇を噛み締める。
――ただ求められたかった、奪うように。
――ただ攫われたかった、愛される想いと一緒に。
誰だって、憧れる。
そんな風に恋人に求められたいと思うから。
焦がれる想いを見せて欲しいのも、特別でありたいと願う気持ちがあるからなのに。
それなのに……っ！！！
瞑っていた目を力一杯見開いた私は、先程まで膝上に置いていた分厚いソレへと勢いよく手を伸ばす。
「――バカ〜〜〜ッ！！！」
――バコッ！！！
色々な意味で血気盛んになってた私は、自分の上へ覆い被さる恋人の頭を目掛け、分厚い本で力任せに打撃した。何もかもを、全て忘れて。そう、その本がちゃんからの借り物であるのも、憧れ止まぬ恋物語なのも――。
―――カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ。
私と大石先輩がどうなろうと知ったことではないという感じで、２つの置時計の秒針は仲良く追いかけっこを続けている。そして、その秒針の音が耳につくほど、室内は静まり返っていた。脱がされそうになった服を正し、床上へと座り直した私と、”退屈凌ぎ”には十二分になっただろう大石先輩がのろり、と身体を起こした。当然、私と大石先輩は、言葉の１つも交わさず、背中を合わせて座っている。
沈黙が――重い。
無理強いのような性交を求めた彼、それを文字通り打破した自分。どちらが折れるか、すでにそういう次元の乾いた空気が２人の間を漂っていた。
カタン、と無造作にテーブル面に置かれた陶器のマグカップの音が響く。かなり冷めたと想像に難くない紅茶を、大石先輩が口にしたようだ。
大石先輩の頭へ打ち付けるという殺人紛いのことをしでかす切っ掛けとなった分厚い本を手に取り、栞の挿まれたページを開く。ペラリ、と紙が捲れる時の特有の音が室内に響いた。夢中になった文面の続きを目で追うと、途端に秒針の音すら聞こえない。今の私には、物語への中へと身を沈めるのは容易なことだった。
女王を両腕に抱えた騎士は、女王の私室である寝室へと足を踏み入れた。華麗なる室内に配置される華やかな調度品は、世界最後の女王と崇められる彼女の心の慰めになっているのだろうかと思い巡らせた騎士が軽く息を吐き出した。
”ここは退屈じゃ。何もかもが揃っているようで、我の愛するものは何も無い”
自分の溜息１つで思うことが解るのか？
騎士は驚きを隠せず、ただ静かに目を見開いて両腕に抱いた世界最後の女王をベッドへと下ろした。
”退屈……なのですか？”
少し可笑しそうに笑う美丈夫の騎士を見詰めた女王は、小さく微笑む。
”そうじゃ、退屈じゃ。……そなたは、我の退屈凌ぎになるかのう？”
その微笑みは美しいものであり、同時に悲しさをも、物語っていた。
”退屈凌ぎ”―そう彼女が口にした言葉は、世界最後の女王と崇められる彼女の、恋する者達が迸る想いを交わし合う密な時間への隠された憧憬なのだろうか。崇められ、至高の座に就くこの人が――愛を知らない。麗しの姿も、今は迷い子のように目に映ると思いながら美丈夫の騎士は、ベッド脇へと片膝を付き、騎士の礼をとる。
”今から、貴女を攫い、退屈から解放致しましょう。――女王の御心のままに。”
騎士は己の身体に纏う鎧に手を掛けて立ち上がると、神々しく、美麗な己の女神の唇を素早く盗んだ。
女王と騎士の許されない恋が、そっと寄り添い、交わる想いが明らかになった辺りで、夢から覚めたように、私は読んでいた本から顔を上げる。
――『俺とじゃ、”退屈”かな？』
――『”退屈”から――解放、されたいんだろう？』
少し掠れるような大石先輩の囁きが、今も耳に残る。
…………まさか。
大石先輩は、この本は”私が、夢中になるほど面白いのか？”って聞いたよね？
それって、本の内容を知らないからだよね？
本の内容を先取りするような言葉を言われていたことに私は気付き、首を傾げる。
それじゃ、偶然……？
でも、そんな……。
あまりにも酷似し過ぎる話の流れに、私はドキリ、とする。背を向け、今も怒っているだろう大石先輩の姿を見たくなり、私はそろりと振り向く。しかし、そこには困ったように優しく笑う大石先輩が目を細め、静かに私を見ていた。
……え……っ？
その表情だけで解ってしまう自分が恨めしい。
……何で、なのよぅ……。
この恋物語に夢中だったことも、夢中になる理由も、隠す事しか念頭に無かった私への罰としか言い様が無かった。女の子らしからぬ私が、美しく、甘い恋愛小説に憧れることを、笑う人でもないのに――。そもそも、恋愛小説を好んで読むと言った大石先輩が、ベストセラーを読んでない訳がない。
――『その本は、が夢中になるほど……その、面白いのかい？』
そう、問われた時から――大石先輩には、お見通しだった。
そう、既に――何もかも、が……。
私は恥ずかしさに、泣きたくなった。
どうして問いかけに対し、咄嗟に嘘をついてしまったんだろう？
一言尋ねれば良かったのに……。”先輩は読んだの？”って。
ただの気恥ずかしさからとった私の行動は、優しい先輩をしっかりと傷付けただろう。
本の中の女王がして見せた頭を垂れた姿を、私も同じようにして見せた。項垂れた私の目の前で、長い指先がトン、と軽い音を出し、分厚い本の上を跳ねる。
「騎士は――世界最後の女王の想いに気付いたか？」
その問い掛けが、全てを物語る。
大石先輩は――やはり、知っているのだ。
世界最後の女王と美丈夫な騎士の、許されない恋の話を――。
私は声も無く、首を縦に振り、顔を上げた。
女王は、密やかな恋人である騎士へ、”退屈凌ぎ”と称し、愛を求めた。それは、ただの退屈凌ぎでは無い。この世での最も贅沢な時間を費やす”退屈凌ぎ”なのだ。それは――自分達を触れ合わせた先程の時間を、隠喩していた。
「妹が読んでたんだ。”お兄ちゃんは恋愛下手だから”って言われて勧められた」
肩を竦めて苦笑し、困ったように寄せた眉間が、大石先輩の表情を悲しく見せた。黙る私を目の前にして、大石先輩は尚も話を続ける。
「が夢中に読む顔を見てたら、その……さ。やっぱり女の子だなって思ったんだ」
言われた私が赤くなるなら兎も角、そう話した大石先輩本人が頬を染める。居心地が悪いのか、軽く身を捩った大石先輩が、私の目を遠慮がちに覗き込む。
「あんな夢中に読むくせに、俺が面白いのかと聞くと、”それなりに”なんて曖昧に答えただろう？ 訳が解らなくてさ。……妹は”こんな恋したい！”って言ってたぞ？」
何で隠すのか、と聞きたがる賢しげな双眸と交えた視線を私は逸らした。
「だって、恥ずかしい……それに……」
しょげたような声で答えた私は、上目遣いで目の前に居る人を恐る恐る見た。
「恥ずかしいのか？ ……どうして？」
続きが気になるらしい大石先輩が、私との距離を詰め、パチパチと瞬きをする。興味津々な表情をする先輩を目の前に、私は困惑を隠せないでいる。
恋物語のヒロインのように愛されたいと言ってしまうことが、何だか先輩を傷付けてしまう気がしてならなかった。それは、ヒロインの恋人が情熱的で、穏やかな大石先輩とは、対極に位置する存在だったから――。それこそ、貴方との恋はのんびりとして、穏やか過ぎると言っているようなものだ。
「…………はぁ」
答えに窮してしまった私は、大きく溜息をついた。これ見よがしな溜息を吐く私を見ていた大石先輩が視線を外し、落ち着き無く目を泳がせている。暫く続くかと思われた沈黙を、思いの外、早く破ったのは大石先輩だった。
「……えっと、その……。は、そういうのは……あの……やっぱり……」
しどろもどろになって言葉を懸命に探している大石先輩を、私はきょとんとした顔で見詰める。焦る大石先輩の頬どころか、両耳や目の辺りまで見る見るうちに赤く染まっていく。
「”やっぱり”って、何がですか？」
話す事に四苦八苦する大石先輩へと、私は小首を傾げて尋ねた。
「……だから……っ！！」
語気を荒げた声を出し、真っ赤な顔で真剣な表情をする大石先輩が可笑しかったが、笑いを吹き出す事を堪え、私は先輩の言葉を聞き取る努力をした。大石先輩は自分自身を落ち着かせるように一拍置くと俯き、首を軽く振った。
「……いや……何でもない」
俯いたまま、力なく零れた大石先輩の言葉に、私は耳に手をあて、先輩へと身体を寄せる。
「はい？！」
何でもない――そんなことは、無いだろう。何も無いなら、しどろもどろに話す事も、顔を必要以上に赤らめる事も無いはずだ。大石先輩が言いかけて止めるなんて、余程のことだろう。そう思い、いつもなら諦める私だが、今回は違う。ハッキリとしない態度に、私は俄かに苛立ちを募らせた。
「……嘘吐き」
自分の行いを棚に上げた私の口からは、声のトーンが下がった言葉が、ボソリと重たく落ちた。その言葉に過敏な反応を見せた大石先輩が、勢い良く顔を上げる。
「……っ！！」
若干歪めた大石先輩の表情が、とても悔しそうに見える。
「言いたい事があるなら、言ったら良いじゃないですか！ 大石先輩らしくもない！」
ムッと口元を尖らせ、語気を荒げて言い放った私は、ムスッとした顔で横を向く。可愛げの無さを確率で言うならば、１２０％越えは固い。
「そんな風に……言わなくても、その……良いじゃないか……」
弱々しく、切れ切れに紡がれる声も、やはり大石先輩らしくない。自分にとって都合が悪くても、相手へ言い難くても、大石先輩は凛として話す。穏やかさと一緒に、誠実さも兼ね備える恋人だ。だから、私は言いよどむ大石先輩を”らしくない”と言ったのだ。
「俺には――無理、なのかな……？」
気まずそうに口を開き、首を掻いた大石先輩。
「何が、ですか？」
私が空かさず言葉を挟むと、尚も気が重そうに、先輩は言葉を続ける。
「――そういう事は、やっぱり……似合わない、よな……」
１人問答する大石先輩を見たまま、私はその言葉の意味に思い当たる。
――”そういう事”
それは、美しくも甘い恋物語に登場する類稀なる美丈夫な騎士の言動を示し、”真似てみた”と、いうことだろう。女王の心を軽やかに奪い、やや強引に女王の全てを求める、あの騎士を――。
「どうして……そんな事、を……？」
大石先輩の言葉に、私は面食らった。そして、すぐに疑問が浮かんだ。何故、”騎士の真似事”をしようと思い至ったのか、と。
「が……」
彼の瞳は、驚きを露にした私の顔を映している。やや躊躇いの色を滲ませて私を見た大石先輩が、私の名をポツリ、と口にした。
「……わ、私……？」
大きめの目を更に見開いた私は、自分の顔を指差した。
「夢中になって読んでるのが判った。隣から覗いた顔は、とても楽しそうだったから」
その言葉で、今までの先輩の行動が納得できた。
２人の恋に夢中になってページを捲り、女王のように想い人に求められる事を望み、憧れをもって熱心に読み進めては、またページを捲る私の隣で大石先輩は――。
浮かされるような熱で求められたいと感じた密かな願望を見透かされていた事実に、恥ずかしさだけが募る。
「……その、俺だって……。やっぱり、男……だから……」
たどたどしく連なる大石先輩の言葉を、私は俯いて聞く。
「……優しく、だけじゃなくて……その、たまには……」
つっかえ、つっかえ続く言葉が大石先輩の”男臭さ”な部分を妙に感じさせた。言葉を１度切られると、私は居た堪れなくなった。警鐘を鳴らすような激しさで、心臓が脈打つ。
「……た、たまには？」
大したことのない沈黙ですら我慢できない私は、大石先輩へと問う。しかし、大石先輩が答えるよりも彼の大きな手が伸ばされるほうが早かった。ぐいっ、と簡単に身体を抱き寄せられた自分に、私は驚く。
「――許して欲しい」
私を容易く抱き寄せた張本人は、私の肩へと額を押し当てて呟く。くぐもって響く声は、いつも以上に掠れて聞こえた。人前で朗々とした声を聞かせる大石先輩の声には、似ても似つかなかった。大きな背を抱き返せず、また先輩の言葉に答えられず、身動ぎ１つ出来ずに黙った。
――”許して欲しい”、だなんて……。
大石先輩の本能は、”男”なのに。
”支配欲”や”征服欲”だって、人並にあるはずなのに……。
結局、”強引に”出来ない人なんだと、改めて知ってしまった。
今更、許しを請う必要なんて無いのに……ね。
私は胸の内で、真面目で誠実な先輩の人柄を微笑ましく思った。
「……”そなたは、我の退屈凌ぎになるかのう？”」
唇を綻ばせた私は、大石先輩の耳元で囁いてみる。弾けるように頭を上げると、私を抱いていた腕を緩め、私の顔を見詰めてくる。賢しげに煌く瞳は、大きく見開かれていて、驚きの色を映し出していた。その様子が、私にとっては可笑しいこと、この上ない。
「えっ？ ……あっ！ ……あぁ、そうだ！ ”女王の御心のままに”！！」
わたわたとし、何かを思い出そうと額に手を当て考え込んだ大石先輩が、今度は言うべき言葉を見つけ、破顔すると言葉を口にした。正解を言い当てたその表情は、スッキリとした、清々しいものと譬えるべきだろう。言葉を探すことに懸命だっただろう大石先輩へと、本来の意味の解釈を促す。
「えっと……。”そういうこと”、ですよ？」
――”そういうこと”
すなわち、それは恋物語の女王と騎士の関係を意味し、２人が行う行為を同じように貴方が自分に行っても”許す”という意味を含んでいるということ――。
直接的な言葉を口にすることに憚りを覚えたとはいえ、そのニュアンスを漂わせるのも気恥ずかしいものだった。
パッと目を逸らした私の頬に、唇を黙って寄せてきた大石先輩の息がかかる。少し乾いた感触のする形良い唇が、私のものに近付き、そっと触れた。その触れ方は、いつも以上に優しい。
近い距離で、澄んだ瞳が揺れる視線と交錯すると、大きな手が私の頬を撫でる。私は何かを告げられた訳でもないのに、恋人を見詰めていた瞳を音も無く静かに閉じた。それを見届けた恋人は、息を少し深めに吸い込むと、彼の唇が私のものを緩く捕らえ、その広い胸元へと私の身体を強めに抱き寄せた。
――カチ、カチ、カチ、カチ、カチ……。
仲良く追いかけっこする２つの置時計の秒針の音が奏でる曲が１つになったかと思ったら、いつのまにか聞こえなくなっていた。
寒々とするはずの床上が、熱の上がる身体には存外心地よかった。どちらかと言えば、床の冷たさを気にかけていられなかった、と言うほうが正しいのか。
「ぅ……あ、ん……」
肌の上を容赦無く滑る掌と唇に焦らされ、口の端から音が零れる。触れる手の動きはしなやかで、いつもと然程変わらない。
ただ、いつもより強引なのは、恋人の瞳だった。大石先輩に組み敷かれた私を見下ろす彼の瞳は、私の何かを暴こうとする眼。今までそんな風に見られた覚えが無いので、少し不安を感じた。私の何を暴こうとしているのだろうか、と――。
胸の丘に強く触れ、顎先に舌を這わす。恋人から与えられる生々しい感触は、慈しんで触れているとは言い難いものだった。
喰われる、という表現のほうが、私の今の状況に、しっくりとくるものがある。そう考えながら、自分の上に覆い被さる恋人を見た。
「……怖い？」
視線を感じたのだろう大石先輩が、困ったように口元を歪ませ、短く問うが、その間も惜しむようにして、大きく熱い掌は私の肌の上を這う。首元を、腹部を、胸の丘を、と――。
――怖くなんかない！
そう強く答えられない自分がいる。
だって、こんな先輩を……見たことない。
そう、私は今まで知らなかったのだ。恋人の剥き出しになる”男”の素性を。
戸惑うのは、当然のことだった。
――本当は、少し……怖い……。
口に出すことは簡単なことだ。しかし、”許す”と言ったことを覆したくも無かった。
――”許して欲しい”
大石先輩に、そう請われたはずだ。――”許して欲しい”、と。
それは、身勝手になること、優しくなく、慈しめないことであり……。
そして――。
私自身から何かを奪うように、貪るような激しい求めになること、を――。
私の知る限りの大石先輩は、自分を抑えることにかけては、誰よりも長けていた。私の小さな我儘に、いつも笑って付き合ってくれる人だ。他人へ与える物は多い人だが、他人へ求めることは極端に少なかった。
その腕に守るように優しく慈しんで抱いてくれるその人が、”許して欲しい”と年下の自分に請い願う。何を躊躇い、何を怖がることがあるというのだろう。数少ない、ささやかな我儘を”許す”ことが出来ずして、何を与えることが出来ると言うのだろうか……。
「……わ、私……怖くなんか、ない……」
そう告げ、ちょっとだけ唇の端を上げる。ぎこちなく笑う私の顔を見た大石先輩の目が、”嘘吐き”と優しく笑った。
窓辺には沈みかけた陽の光が長く差し込み、室内は赤々と染まっている。肌の打ち合う音を聞きながら、しがみ付くように伸ばした自分の腕の肌が、陽の光に染まる様は、まるで燃えるようだと思った。
「……ん！ ぁ……っ」
強く攻め立てられるように抱かれ、逃げ場を失うように追い詰められる感覚が、言葉にならない。肌を重ねる荒々しさが、身体の奥に潜む熱を増す。
強く求めながらも、その手に入らないのがもどかしいのか、胸元へ掻き抱くように肌を寄せる大石先輩へ視線を移す。すると、不意に視線が絡んだ。
その途端、少し手荒く腰元を押さえられ、打ち付けられた。そこから、更にグッと奥へ押し込められる。その執拗なまでの動きは、身体を貪ると譬えられるものだった。
上体を僅かに起こした大石先輩は、私の両膝の上に手を掛け、必要以上に左右へと広げる。向かい合う姿勢をとって抱き合っているのだから、相手が何をするのか見て取れる。大きく開いた私の足元を見下ろす大石先輩の顔が見えた。その視線の先を辿ると、普段は人目に触れることの無い茂みだった。更に、間が悪かったのは繋がったままなのだ。今までに無い恥辱を受け、私は身体が震えた。
「……やっ！」
上体を捩ったところで、両膝を押さえる大石先輩の手が緩むことは無い。
「嫌？ ……”許す”って言ったのは、なのに？」
起こしていた上体を前倒しにした大石先輩が少し笑みを含む声音を出し、私の耳元で呟く。その言葉に、自分の顔がカッと赤くなるのを感じた。羞恥心を煽られた私には、胸に込み上げてくるものがある。
こんな意地悪な大石先輩なんて、もう……知らないっ！！
若干腹立たしい苛立ちを眼に込め、自分の上にいる人を見た。視線を受けても素知らぬ振りを決め込んだのか、涼しい顔をする大石先輩が憎らしい。
恋人から与えられる意地悪な悦びに身体が支配されると解っていても、つい、身を委ねてしまう。それがたとえ理不尽な愛撫でも、素直に応じてしまう自分がいる。そのようにして、恋人が”ただ優しいだけの男でない”ことを、彼自らに教えられるのは、存外嫌なことではなかった。そう考えながら、軽く睨んでいられるのも束の間だった。
私の両膝を押さえていた手を動かし、膝裏へ腕を通した大石先輩が、これまでに無い激しさで艶かしく腰を揺らし始めると、それは白濁したものを零すまで続けられた。
――ペラッ、ペラッ、ペラッ。
何処からとも無く、乾いた紙の捲れる音が聞こえてきた。
うっすらと瞼を押し上げた私の目に映ったのは、煌々とした灯りで満ちる室内。窓の外へ目を遣れば、どっぷりと日が暮れている。
少し肌寒さを感じるのは、ここが床上だからだろう。自分の脇でそびえるようにあるベッドが見えた。私は掛けられた毛布に潜るようにして、傍にある温もりに身を寄せた。
「……あ、起きたのか？」
明るく、よく通る声が頭上から降ってくる。気だるい身体を動かす気になれない私は、毛布を目元まで下げ、じとりとした視線を声のした方へと送る。
「えーっと……」
視線を合わせた声の主は、罰の悪そうな声を出し、明後日の方を見る。その横顔が、うっすらと赤らんだ。
――今更、赤くなることあるのかな……？
文字通り、奪えるものを何もかも奪っただろう当の本人が、こうして恥ずかしがる理由が解らない。そして、攫うように愛され、奪われるように求められた私は、今、性も根も尽きた顔をしていることだろう。これも文字通り”全て奪われた”と言える。そう考えると、可笑しかった。
「…………」
毛布から少し出た目元で黙って見上げる私の目を、チラチラと忙しなく大石先輩が見てくる。
多分、私が怒ってると思っているんだろうなぁ〜。
”理不尽な事をした心当たりがある”って顔をしてるんだもん、大石先輩のアノ顔。
ホント、可笑し〜の！
笑いを堪えようと、１度毛布を頭まで被った。しかし、堪えきれない私は、布下で忍び笑いを零す。
毛布を被った私の身体が揺れた事に驚いたのだろう大石先輩が、慌てて床上へ身体を戻すと、丸まって忍び笑う私を抱き締めた。
「な、泣かないでくれよ……」
力の無い、弱りきった声がした。しかし、抱き締める腕の力は、思いの外、強い。その腕の強さは、守ろうとするものを傷付けた時に抱き締めるそれに近かった。大石先輩は、私へオイタなことをしたという自覚がある。だからこうして、彼は私を抱き締めているのだ。
毛布を被ったままで大石先輩の胸元に抱き寄せられるとは思ってなかっただけに、私は少し息苦しさを感じている。
……結局、大石先輩の意地悪は、どうやら”ベッドの中だけ”らしい。
そう思い、私は更に忍び笑った。
「……は……ああいうのは、その……許せない？」
私の頭上では、小さく息を吐き出した大石先輩が、言い難そうに問う。
どこをどう許せない、と答えればいいのだろう？
許せないも、何も無いのだ。答えようが無い、と私は思う。俄かに毛布内の温度が上昇しているのか、息苦しさが増してきた。せめて腕を緩めて欲しいと思いながら、私はもぞもぞと動く。
「ああいう事をする俺は……その、嫌……かな？」
――”ああいう事”
”激しく抱きたい”、とハッキリ言われるほうが、幾分マシだと思った。先程の行為をオブラートに包むように表現する分だけ、恥ずかしさと生々しさが、更に増す気がしたからだ。
まぁ……ハッキリ言う大石先輩なんて、在りえないけど。
こっそりと笑った私は出来るだけ大石先輩との間を空け、息苦しさを解消しようとし、先輩の胸元に、自分の掌を当てる。思ったよりも早く脈打つそれに、私は驚いた。触れた胸元が叫ぶように、ドクドクと音を鳴らす。
……悲しい、って聞こえた気がした。
心音から伝わる響きに、切なさが募る。途端に、私の胸が軋んだ。息苦しさは、毛布に潜ったからだけではない。息を吸う自分の声が、思うよりも大きく震えた。
「…………もう、これ以上、泣かないでくれ……」
頭まで潜った毛布を除けた大石先輩の目が、私を申し訳なさそうに見詰めた。
――シャ、シュル……。
静かな部屋には、衣擦れの音は意外に響いた。
無言のまま服を着終えた大石先輩に、口を開く気配は無い。そして、また私も口を開く勇気が無かった。２人して、ベッドを背もたれにし、ただ並んで座っていた。
抱き合った後に、これほど気が重いこと、今までにあったかな……？
そう思い返した私は、溜息をついた。はぁ、と出した息に過敏に反応したのは、またしても大石先輩だった。ぼんやりとしていた私の左肩を掴み、私の正面へと大石先輩が座り直す。
「俺、後悔してないから……」
真っ直ぐな視線が痛い。その真剣そのものな表情が、少し怖いぐらいに感じられた。
「……え……？」
パチパチと忙しない瞬きを、私は数回繰り返した。
「俺だって……ああして、お前を抱きたいと思うんだ。……無理強いだ、と知ってても」
ニコリともしない大石先輩の口元を見詰めた私は、言葉の意味を噛み砕く。
「え……？ え、えっと〜……。……えぇ〜〜〜？！」
額に手をあて、やや考え込んだ私は、大石先輩の突然の告白に驚愕した。その意味が解った途端、私は真っ赤になった。
「……そ、そうですか……」
答えようが無かった。まさに、”あぁ、そうですか”としか……。身体から汗が一気に噴き出しそうだった。
「が知らない俺は、意外と……浅ましいんだよ」
可笑しそうに唇を歪ませ、そう己を評価する大石先輩から目が放せなかった。
「……らしくない、ですよ」
私は困った顔をして、そう告げる。
「そうかな？ ……”知らなかった”だけ、なんだよ。……が、な」
そう話しながら、大石先輩の掌が私の右頬を撫でた。その動きは、無遠慮などではなく、とても愛しいと語っている。
「そうして、が知らない俺で抱いてみると、やっぱり……俺の知らないがいた」
頬から掌を離した大石先輩の長い指先が、私の前髪を揺らす。どうやら、私が気付かないうちに、私の何かは彼の手で暴かれていたらしい。
「……え……っ？」
ドキリ、とした。その言葉の意味は、自分にも幽かな覚えがあった。
「が知らない”男”の顔をする俺は、嫌い……かな？」
そう言うと、大石先輩は優しく目を細める。
――このっ、確信犯……っ！！
隠し事も、賭けも、この恋人には通用しない。やはり、彼は腐っても”元・ダブルスプレーヤーの名手”なのだ。
腹立たしさに思いっきり顔を背けた私の横顔へ、大石先輩が素早く口付けを落とす。
「の色々な表情が見たいし、知りたい……。全部を、攫いたい……」
優しさを滲ませた声で、大石先輩が静かに囁く。横を向いた私の視界の端で、大石先輩が口端を上げるのが見えた。
「――もう……っ！ ……バカ……」
抱き合う時の表情すら見落とさない恋人が、愛しくて、憎らしい。私は身体を捻り、背後にあるベッドへと顔を伏せ、隠した。
「だから、”許して欲しい”って……俺は言ったんだぞ？」
話す大石先輩の顔を盗み見ると、私を覗き込むようにして、この上なく甘く、緩んだ表情で、嬉しそうに笑っていた。
――攫うように、あなたに愛されたい。
――奪うように、あなたに求められたい。
穏やかな日常を飛び出して。
贅沢な夢を見る乙女の憧れは、想い人との揺れ動く愛を描く恋物語。
――柔らかな眼差しが射抜く強さを見せたなら、その瞳に惹きつけられたい。
――物悲しい声音が焦れるほどの想いを零したら、その唇で囁かれたい。
満ち足りた日常を抜け出して。
贅沢な夢を見る乙女の憧れは、想い人の悩ましい熱情に触る恋物語。
――魂から揺さ振られるように、想われたい。
たおやかなる恋人同士の間で、密やかに綴られる熱い想いを交わす。
切れない糸を紡ぐように、絆を紡ぎ、深き愛知る恋物語となるように――。
【END】