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この世には、望みを叶える言葉があるという。
記憶の彼方に埋もれた呪文を
思い出せ、思い出せ。
記憶の欠片に映る呪文を
唱えよ、唱えよ。
望みを叶えてくれるのならば、心から謳おう。
誰もが知ってる、この言葉を――。
――神様は意地悪、だ。
溜息交じりに、俺はそう思う。
自室の窓辺で揺れるカーテンの向こう側は、夜になっても雨模様。夏が、そこまで来ている。そんな蒸し暑さを感じる昼間も、濃紺の闇へと溶け込んだ夜が始まると、時折、心地よい涼しさを奏でる風が静かに吹く。
半袖から覗く二の腕の肌が未だ湿って重い空気を感じ取り、そのジメリとする空気が肌から感覚へと伝わり、暑苦しさを覚えるが、冷えた風が吹く度に、暑苦しさが肌の上と感覚から払拭されていく。
――夏の盛り、だよな……。
この季節になると、やはり水辺が恋しくなる。太陽の陽を浴び、海の波間に見える煌きも、人々の声が飛び交う、市民プールの水面の揺らぎも――。これらは、真面目でお堅い俺への、”誘い水”そのものだった。そして、”俺を誘うもの”が、また１つ――増えた。
「お・お・い・し・せ・ん・ぱぁ〜い？」
揺れるカーテンを見ていた眼を、俺の名を呼ぶ声の方へと移す。すると、俺の眼前にの好奇心剥き出しの双眸が現れた。 ベッドを背凭れにし、床上に両膝を立てて座る俺が思考に耽ている間に、俺の股の間に出来た空間を占領した恋人が膝を揃え、ちょこんと座ったようだ。
「……ぅ、うわあぁ〜〜っ？！」
可愛い唇から漏れる呼吸音が、微かに耳へ届く近さに驚いた俺は勢いに任せて右側へ上体を傾け、そのまま、床上へと倒れ込んだ。
「えぇ？！ はわわわぁ〜〜っ！！」
俺の股の間に出来た空間に居たも、当然なまでに、俺と一緒になって床上へと傾れる。いくら彼女が運動神経抜群であっても、俺の両腿に挟まれては、動き様が無い。
「――あ、イテッ！」
ドスッ、という音を鳴らした上体は、背からの衝撃を感じた。それで、俺は硬い床上へと落ちたのだと解った。冷えた床面が、何処と無く心地よい。しかし、それを感じていられたのも、束の間のこと。俺の年下の恋人が、容赦無しで俺の上体へと圧し掛かった。
「……う？」
床上へと落ちたと思ったのだろうが、思ったよりも衝撃が無く、痛くなかった事に気付いたようで、不思議そうな声を漏らして顔を上げる。痛くないのは、当然。上体を無意識に捻って床上へと背から落ちた俺の上に、は上手く落ちてきたからだ。怪我や痛みは無いだろうが、つい、俺は訊いてしまう。
「大丈夫か、？ どこも……痛くはないか？」
床上に背を預けたまま、俺は利き手を彼女の額へと寄せ、顔が見えるようにと手櫛で彼女の前髪を梳いた。彼女の顔を隠す髪を梳くと、そこから瑞々しい大きな瞳が現れる。俺の顔を見るなり、その大きな瞳が輪郭を柔らかに崩した。
「ハイ！ 大石先輩を下敷きにしたから、ヘッチャラでした！ えへっ♪」
ニコッと無邪気な笑顔を見せ、が笑う。人懐っこい笑みは、出会った頃と変わりは無い。その顔を見た俺も、同じように笑った。
「お前に下敷きにされてばかりの俺は、平べったくなりそうだよ」
俺の胸元に上体を預け、俺の顔を覗き込むへと、肩を竦めて話した途端、彼女が大きな瞳を更に見開く。
彼女と出会った頃の俺に比べれば、肩幅や胸の厚みも思春期の頃の細いラインとは、明らかに違う。彼女が乗っかってきたぐらいじゃ、骨が軋む事もなければ、折れる事も無い。当然、平べったくなる事も無い。時の流れと共に、俺の身体は完全な成人男性へとなっていた。
「えぇ〜？！ ……私って、そんなに重たいですか？」
俺の言った冗談に、が目を見開いて叫んだ後、視線を彷徨わせる。暫く、落ち着き無く動いた目がぴたりと止まると、俺の顔を心配げに覗き込んだ彼女は、声のトーンを落として話した。
「え？ いや、今のは冗談だぞ？ お前、昔から変わらないな。……は」
誰が聞いてるという訳でもない俺の自室で、声を潜めて話したを、可愛らしく思いながら、やんわりとした口調で俺は答える。女の子というものは、どうしても”身体の重さ”が気になるらしい。
俺の知る彼女は、小学校から上がりたての中学１年生の頃からだ。その頃からの背丈は、他の同級生よりも頭半分飛び出ていた。顔付きも、可愛らしくも気が強そうなタイプで、黙ってれば歳相応よりも、お姉さんっぽく見えたものだ。そして驚くべきは、その頃からほとんど変わらない彼女の体型。しっかりとスポーツをしてきた所為だろうか、食欲旺盛な割りにの身体は、横に太くなる事とは無縁だった。
実は、そんな彼女の細めの体型が、俺にとっては有り難かったりもする。俺自身もテニス部で運動はしてきたが、体格的には細身だ。今になって、やっと骨格がしっかりとしてきた気がする。背丈も当時と比べて、多少は伸びた。とはいえ、１年後輩の桃や同級生のタカさんと比べ、身体の厚みは、女の子から見れば、多少なりとも頼りなさを感じるものだろう。
同学年の女の子と比べれば、多少しっかりとした身体つきであるだが、胸板の肉薄な男の俺と比べてみても、華奢以外の何物でもなかった。昔からお転婆で目の離せない彼女が、怪我をしやしないかと、良くハラハラとしたものだ。
――いつの間にか、も……随分と女の子らしくなったもんだな。
目元を細めた俺は、そんな事を思って微笑んだ。
俺の目に映るは、昔と変わらない身体のラインは細く、しなやかだ。そして、歳を少し重ねた分だけ、柔らかさを増している。彼女が気にする胸元も、ちゃんと歳相応に成長過程を遂げているという事実を知る人物は、自分だけで良い――と思う俺は、独占欲の深い表れなのだろうか。
の重みを胸元に感じながら、俺は思案しつつ、天井を見詰めて唸った。俺の唸り声に驚いたらしいが、急にガバッと勢い良く上体を起こす。
「ど、どうした？」
胸元が軽くなった事に気付いた俺は、軽くなった胸元に視線を寄せた後、そこにいたはずのを軽く探した。それ程広くない室内で見付からない訳も無く、恨めしげな眼をし、俺の身体の右脇に座り込む姿を、直ぐに双眸が捉える。視線を定めた場所から目を外さずに、俺は上体を起こし、と向かい合うように、床上へと膝を立てて座り込んだ。
「私……昔よりは、育ってますもん……」
プゥと膨れる柔らかな頬は、大層不機嫌になったの気分を表す。彼女は膨れっ面をしたまま、薄手のコットン生地の服の中を、思い切り覗き込んだ。
薄手の生成り生地が光を吸うと、生地の向こう側を俺へ薄っすらと見せる。彼女の素肌の色、それよりも明るい白めのカラーは、胸元を覆い隠す下着だろう。どんなに疎い俺でも、色の見分けで見当ぐらいは付くというものだ。
――わわ……っ？！
ひ、人前で何てことしてんだ、は……っ！！
この季節は暑いから、肌を露出させて涼みたいと考える気持ちは、俺にも解るが、若い乙女が男の目の前で無防備な事をするのは、大問題だ。
「――っ！！」
”の、覗くなよ！”とツッコミたい気持ちが、咽喉元まで言葉を迫り上げるが、俺はそれをグッと堪えると同時に、何処に視線を遣れば良いのか困った。俺は窓の外へと目を遣り、とりあえず、気を静めようとした。だが、窓の外を眺めた途端、俺の視線は強制的にの方へと、向き直る羽目になった。それは、彼女の両手が俺の顔を挟み、強引に向きを変えたからだが――。
「聞いてますか？！ 私、昔よりは”絶対に育ってます”から！！」
の瑞々しく、元気な瞳が少し寄り目になると、俺の目を真っ直ぐにジッと見詰め、俺達の間を詰めた。不機嫌な声が彼女の尖り始める唇から漏れる。
「いや、誰も育ってないなんて……その、言ってないし……」
落ち着かない子供のように目を宙で泳がせた俺は、口篭るようにしてへと答えた。彼女がどれ程完全な大人の女性に近付いたのか、の1番傍に居た自分が、それを良く知っている。間近に見える大きな瞳を覗いたまま、俺が平常心で話せる筈も無かった。彼女の柔らかさを知る、今の俺には――。
――俺は、君の変化を知らない訳じゃないんだぞ、……。
それでも――。
”が変わった”と、気付かないフリをしたいんだ。
いつまでも、昔の君であって欲しいと思うから……。
”変わらない”が、傍に在る事を望んでしまう。
無理を承知で、俺は……。
留まれない時間の流れの中でも、”とても大切にしたい”――俺が、そう強く感じたあの頃の君で、在って欲しいと願ってしまう。”早く大人になりたい”と思ってるだろうには、凄く意地悪な俺なのかもしれないけれど――。
この腕の中で、ただ……閉じ込めておきたかった。
少女のままの君を、ずっと――。
思考に耽った俺が彷徨う視線の先を定めた場所は、無色透明なガラス板の向こうに銀糸のような雨を降らせる闇夜を見せる窓辺で、温い風と戯れ、不規則に揺れ続けるレースのカーテン。裾が行ったり、来たりとする様は、大人びる彼女と、あどけない彼女との狭間に起こる心の揺れを思わせた。窓辺から視線を外し、自分の傍に居るへ視線を移す。少し疎らに揃う前髪の先が揺れた。
「”昔と変わらないよ”って言って、笑ったじゃないですか！」
俺の言った事に対し、どうやらは腹を立てたようだ。尖る口元に膨れた両頬、勝気な双眸を目に映した俺は、昔から変わらないの不機嫌時の表情に、口元を緩める。すると、控えめに笑む俺の顔を見たが、ムギュリと音が立つ程に、俺の両頬を捻り上げた。
「アテ、イテテ……ッ？！ ちょ、ちょっと待ってくれ、！」
俺の頬を抓るの両手首を慌てて掴む。軽い痛みを感じながら、俺は眉を寄せた。すると、俺と同じようにが眉を寄せる。その表情が、何故か悲しげに見えた。
「大石先輩ばっかり、大人になって！ ハッキリ言ってズルイです！！」
俺の頬を抓る事を止め、両手をその場から離したが、俺へと不満げな声を聞かせる。
「……は？！」
ポカン、と口を開いた俺は何度か瞬きを繰り返した後、目の前のを凝視した。
――俺ばっかり大人になって、ズルイ……だって？
時間は俺との間を平等に流れている。俺が大人に近付いたと言うのなら、当然、も大人へと近付いているはずだ。何故、は俺だけが大人になってると言うんだろう……？
が俯くと、サラリと流れ落ちる横髪。それが彼女の表情を隠した。隠されてしまった顔を覗き込むように、俺は少し背を丸め、床上へと両手を着く。の正面に座る俺が彼女の顔を覗こうとすると、はプイッと顔を背けた。
「私ばっかり、置いて行かれちゃうなんて……あんまりです……」
ポツリ、と呟いたの声は、室内を淋しげに響いては溶けていく。俺との間を過ぎて流れる時の音が、ベッドの棚上に置かれる２つの置時計から聞こえていた。
「背や手も大きくなって逞しく、だんだん変わってるし……」
床上に着いたままの俺の右手の甲に、の左手の掌が、静かに触れて重なると、そこをゆっくりと優しく撫でる。
彼女と出会ってから片手以上の年月が過ぎる。目に見えて変化があったのは確かだ。しかし、それは俺だけじゃない。も同じだ。その証拠に、彼女の面は既に幼さが抜けていた。子供らしく、丸く愛らしかっただけの顔が、女性らしさを覗かせ始めている。
「そ、それは……」
どう説明しようかと悩み始めた俺は、言葉に詰まり、そのまま口を噤んだ。窓から吹き込む夏の湿気た温い風が、レースカーテンを揺らして、俺やの肌を撫でた。
「それに顔だって、昔と違うし！ 雰囲気だって……っ」
恋人の悔しげな声が俺の耳を打つ。俯いたままのが顔を上げる気配は今のところ無い。先程から俺の手の甲を撫で続けた彼女の手が、静かに止まった。
「そ、そんな事は、な――」
俺の目の前で項垂れたの旋毛を見下ろし、俺は彼女の言葉を否定しようと言葉を口にするが、言いかけた途中での声に遮られてしまう。
「ある！ ある、ある！！ 大石先輩は、変わっちゃったもの！！」
言い放つようにきつい口調でが言うと、真っ直ぐな眼をし、彼女は顔を上げた。息が軽く掛かるぐらいに、間近に見えるの双眸が、大きく揺れる。彼女の眼差しの強さに、俺は俄かに息苦しさを覚えていた。
「俺は、お前が思うほど変わってなんか――」
責められるかのような彼女からの強い視線に、目を外せない俺は、息苦しさを感じながら言葉を継ぐ。
――俺は、大して変わってない……。
少し背が伸び、体躯がしっかりしたぐらいだ。
朝夕覘く洗面室の鏡面に映る俺の顔は、昔と大差無いし……。
内面的な部分だって、ほとんど変わっちゃいない。
母親のように口煩い面とか、どうしようもない苦労性は、相変わらずだ。
どちらかと言えば、のほうが目に見えて、変わっていると思う。全体的に悪ガキと女の子が同居しているような印象を受ける子供らしい顔だったのに、今ではすっかり大人の女性の顔を覗かせる。伏目がちになる目元、すっきりとした頬から顎へのシャープなライン。”蕾綻び、花匂う”――今のを言葉で譬えるのならば、これが１番しっくりくると、俺は思った。
彼女が何を気にして口にした言葉なのかを解っていない俺は、自分の手の甲を先程まで撫でていたの手に触れようと、右手の先を床上から離す。すると、触れる寸でのところで彼女の手がするりと逃げた。その動きに軽い驚きを受け、俺は忙しない瞬きを繰り返す。
「――返してください！」
俺の右手が捕まえようとしたの手は、俺の首元辺りへと場を移すと、突きつけるように、ズイッと寄せられた。
「な、何をだよ？！」
の言葉に、驚きが続く俺は、動揺を隠せない声で言葉を返す。俺の声に、が眉間を寄せ、険しい表情をして見せた。彼女の背後に置かれる水槽では、俺達の緊迫する空気とは無縁な様子で、愛魚達が優雅に泳いでいる。無意識の隙を見せてしまった俺に、が更に目を吊り上げて顔を近付けた。
「私が知ってる大石先輩……”昔の大石先輩”を、今すぐ返して！」
可愛い口元がへの字になると、大きくて硝子球のように煌く双眸が俺の目を捉える。随分と不満げな声で話したが俺を責めるように、ジッと俺の顔を見詰め続ける。彼女から向けられる瞳の強さに、居心地の悪さを感じた俺は、心持ち背を反らし、目を丸くした。
「何だって？！ お前、そんな無茶苦茶な――」
の喧嘩腰にも聞こえる言葉に、俺は眉間に皺を軽く寄せた顔を彼女へと見せ、言葉を継ぐ。可愛い恋人の無理な要求を何とかして宥めようと、俺は素早く脳内で作戦を立てようとした。
「だって、だって……。……ズルイじゃ、ないですかぁ〜……」
俺が彼女対策を立てようとするよりも早く、眉を八の字にして見せたは、甘えるように俺の胸元へと額を摺り寄せる。くぐもった声音は、随分と勢いの無いものだった。
――何だって急に、”昔の俺を返せ”って言うんだ……？
それに、狡いだって？！ 俺の何処が狡いと、は言うんだ？
の知る昔の俺も、今の俺も、どちらも俺自身だというのに――。
どうして、は”昔の俺を今すぐ返せ！”なんて、言ったんだろうか？
”昔の俺”と”今の俺”――。
一体、何が違うと言うのだろうか？
――俺には、さっぱりと違いが解らないぞ？！
先程、俺に向けられた眼差しが物言いたげに見えた気がし、気に掛かる。そんな思いで、自分の胸元へと引っ付いた手の焼ける甘えん坊の旋毛を見下ろした。
「……？」
泣き出してしまうのだろうか――。漠然とした不安のようなものが、俺の胸の内で影を落とす。俺は何とも言い難い気持ちで、彼女に呼び掛けてみた。すると、はぎゅっと縮こまるように背を丸める。何だか、”意地悪をしているみたいだ”と、俺は思った。
「……だって、先輩だけが大人になっちゃうんだもんっ！！」
少し間を空け、が顔を上げる。眉間を寄せて上目遣いをして見せる彼女の顔を間近で見た俺は、暫し、瞬きを繰り返した。
――俺だけが、大人になる……？
だって、充分過ぎる程に見た目が変わってるのに……？
の真剣な双眸が、目の前に見える。それを真っ直ぐに見た俺は、投げ掛けられた言葉の意味を考えた。
――……まさか、君は気付いてないのかい……？
ほら、その大きな瞳で鏡の中を覗いてごらん。
にだって、自ずと答えが見えてくるはずだ。
大人への変化は、”俺だけじゃない”という事が――。
俺ばかりをジッと見詰めてくる恋人の視線へと、己のものを絡ませるように、俺は視線を合わせる。物言いたげな双眸が、いつも以上に強い好奇心を覗かせているようだと俺は思った。
「――――っ、はは……」
言葉で伝えるには味気なく、それでいて、もどかしい気持ちにさせられてしまう。”弱った”と言いたげな表情を見せつつも、俺は利き手で顔の半分を隠して笑ってしまった。俺の胸の内には、甘酸っぱいものが音も無く、静かに広がる。
「ココ、笑うトコじゃないですよっ！！」
俺がからかったと思ったのだろうか。酷く憤慨したが声を荒げ、顔を赤くした。大きな瞳が細められると、途端に不機嫌な顔をがして見せた。
――は、大人に……なりたいのか？
永遠に縮まらない年の差が、嫌なのだろうか？
それとも、俺と対等な関係になりたいのか？
俺、いつもを子供扱いし過ぎたかな……？
でも、等身大の……今の君が、好きなんだ。
だから……そのままの君で、良いんだぞ？
それに、さ……。
いずれは、誰でも大人になってしまうんだから――。
顔を隠していた利き手をそこから外し、その手を機嫌の悪いの頭上へと置いた俺は、彼女へと笑いかけた。
「だってな、。……”笑うな”って言うほうが、無理だぞ？」
子供らしい拗ね顔を見せるが俺を睨む。そのきつい視線を受けても、どうしても笑いを堪えられず、笑ったままで俺は話した。すると、案の定、彼女が勢い良く明後日の方を向く。
「もぉ〜、怒りましたからねっ！ 大石先輩なんて知りません！！」
頭から湯気が噴出しそうな程の勢いでが言い放った。それも、子供らしい拗ね顔で唇を尖らせる。俺が目を瞬かせる間、急に下を向くと、瞼を伏せた。の横顔に、俺はハッとさせられる。悔しそうで悲しそうな横顔のラインに子供の拗ね顔は無い。代わりにそこから感じ取れるのは、何 かを我慢するような、諦めようとするような、苦悩に満ちた女性の顔だった。尖っていた唇がキュッと音を立てそうな程に左右へと引っ張られ、平べったい姿になる。
「昔から気が強くて、へそ曲がり。それなのに……。お前には参るよ」
息苦しさを覚えた俺は、目の前に居るから顔を逸らした。彼女を見ていられなくなったからだ。俺の知るいつものがいない。それだけで、知らぬ間に心が動揺してしまう。彼女が女の顔を覗かせた途端に、胸の内が騒ぎ出す自分の”男”としての本能が自分勝手で俺は怖くなった。そんな思いを覚られまいと考えながら、俺は盗み見るようにの様子を伺う。
「………………」
頑なの態度が解かれる事は無いようだ。今も目の前で、だんまりを貫き、静かに俯いていた。項垂れた彼女の頬を撫でるように流れ落ちた髪の先が、不規則に小さく揺れる。
「でも、俺だけが……大人になってるのかな？」
浅い溜息を１つ零し、彼女から背けた顔を元の位置へと戻した。”には解らないか？”と、問う顔を見せて――。
「…………えっ？」
俯いていた彼女の頭が、やんわりと動く。大きな瞳が見開かれ、唇は疑問に思うの心の音を漏らしていた。
「丸かった顎のラインが細くなって、手足がスラリと伸びた」
小さく微笑んだ俺は、目元を細める。眼差しに愛しさを込め、俺の手は視線の先に映るものをやんわりと一撫でした。
「大石……先輩？」
シャープなラインを描くの顎先を俺の親指の腹が滑ると、不思議そうな声音で俺の名を口にする。彼女の大きな瞳は、そこに映り込む好奇心の色を見せ、俺の言葉の意味を探ってるように思えた。
「無邪気なが恋を知り、愁いを覚えた横顔には……時折、苦しくなる」
の横顔は、悲しそうで切なげで。誰の為、何の為に、君は耐えるのか。しかし、それが他の誰でもなく、俺の所為なのだと俺自身は知ってる。自分の弱みを見せるようで、言葉を口にする事に躊躇ってしまう。その証拠に、俺の声は尻すぼみとなった。彼女の顔を直視していられない自分を感じ、俺は煌きの強い瞳から眼を逸らした。
――神様は意地悪、だ……。
俺は胸の内で、ポツリと呟きを漏らす。
本当は――大人になんて、なりたくない……。
身体だけが先に成長し、性交ばかりを欲するような恋は嫌なんだ。
だから、俺は……。
思いの痛みを感じ取る己の心に、俺は口元を歪める。苦しくて仕方が無い。そんな自分を弱く思えた。
――ゆっくりと……ただゆっくりと育てたかった。
閉じ込めていたい程に、透明で純粋な拙い恋。
君への――確かな、この想い……。
一途に、ただ真っ直ぐに……貫きたいんだ。
君と通い合う、この……恋心を――。
それなのに、俺は……。
不意に、カタンと窓が鳴った。思考の森から生還した意識は、窓辺でレースカーテンをユラリと揺らした風の音が止んだのを知る。
「……それって……？」
風の音に耳を欹てるのを止めた俺は、床の木目をジッと見詰めた。そんな俺へと、がどこか戸惑いがちな声で呼びかけた。
「俺だって、昔のお前を……返して欲しいさ」
恋よりも信頼の色が濃い双眸が、真っ直ぐに俺を見たあの頃のに――。そんな気持ちを含んだ俺の声で、言葉を継いだ。
「な、んで……？」
昔の俺を思慕するは、好奇心の強い大きな双眸でパチクリと瞬きを繰り返す。不思議そうな表情を見せるの顔は、その考えまでも声に表していた。
「こんなに苦しい想いを……知りたくなかった」
自嘲気味な笑みを漏らした俺は、本音を隠すように利き手で顔の右半分を隠す。未だ視線を逸らしそうに無いの目に、居心地の悪さを感じ、俺は小さく身動ぎした。
――神様は……本当に意地悪、だ。
もっと素直に、もっと純粋に――君を、心から想いたかった。
それなのに、透明なガラスを思わせるような、一途な美しい想い方は、もう限界なのだと、己自身の心が告げている。時の流れを前にして、俺は何て無力なのだろうか。君を腕に抱けば抱く程に、己の全てが欲深くなる一方だ。それを――嫌と言うほど、思い知らされる。
大人へと近付く程に醜く歪んでしまう、俺の一途な――。
……への、恋の想い。
目に映らない仮面を剥がすような動きで、俺は利き手を顔から外した。その動きを黙って見ていたが、小さく唇を動かす。
「……先輩……」
どう言葉を掛ければ良いのかと、戸惑ってるのだろう。の表情が曇って見えた。間近にある双眸の輝きが、室内灯の灯りを受けて揺れる。それを見詰め、俺は口端を小さく上げた。
「俺を大人にしたのは、時間だけじゃない。……お前の所為だ、」
俺は空いた利き手をの頭の頂きへ乗せ、そこをやんわりと一撫でする。
――ただ、を……想うだけで良い。
そんな風には、もう想えなくて……。
君に触れなければ、自分自身を保てない。
君の中に沈まなければ、俺は安寧な心を得る事が出来ない。
狡猾で貪欲な人間にし、俺自身を、俺の想いを、歪曲させていく。
真っ白で在り続けたいと願う俺を、少しずつ、静かに――汚す。
君という存在が、俺を――。
急に撫でられたは首を素早く竦め、上目遣いで俺を見た。彼女と視線を交え、俺は柔らかく目元を細める。
「わ、私の所為……ですか？」
小首を傾げるような仕草をしたの前髪が、揺れて流れた。その動きを見詰めていた俺は笑みを崩さずに居る。止んだ風が、吹く気配が無い。カチカチと正確に時を刻む２つの置時計の音と、大きな水槽のエアーポンプの音だけが響いていた。
「俺を”男”にしたのも、お前……だけど、な」
時の流れる音が、やけに耳につく。そんな事を思いながら、俺は言葉を口にした。静かな、けれど、しっかりとした声は、他の音に掻き消される事は無い。自分が話した言葉の意味を思い返し、俺は己の内へ向かって自嘲気味な笑みを漏らした。
――綺麗事だけじゃ、掌に掴めない想い。
人として、ただ想い続けるだけでは、足りない想いがある。
汚れては、歪みを伴う――俺の想い。
もう、何も知らない頃までは……引き返せないんだ。
それに気付いた時点で、俺は……大人になってしまったのだろう。
ただ、それでも俺の想いは――。
性別の相違から、新たな想いを芽生えさせた。
不器用ながらも大人になろうとしている、俺と……。
俺達の間に成り立つ２人の恋が、そっと混じり合い、姿を変える。
これが、”愛”――と、呼ぶものなのだろうか……。
一瞬、俺との間に、何とも言えない空気が流れる。微妙な距離感を感じてしまう沈黙が、俺を居た堪れない気持ちにさせた。そんな俺の心の内に気付いていない様子のが両頬を勢いよく膨らませ、白い眼をして見せる。
「そ、そこは……その、”私も”、なんですけど？！」
唇を尖らせたの大きな双眸が宙を彷徨うと、不機嫌な声でボソッと話した。すると、彼女の頬がほんのりと桜色に染まり始める。
「……そう、だったかな？」
時間が経つにつれ、本格的に赤くなるの頬に、俺の目は丸くなった。その所為で、俺は彼女へと酷く気の抜けた返事を返してしまう。
「そ、そうですよっ！ もうっ！！」
片眉を跳ね上げたは、ズイッと膝を進め、俺との距離を更に縮めた。随分と文句を言いたげな表情をした彼女が、ぶっきらぼうな物言いで、俺を軽く睨む。
「俺が大人になってるなら、お前も……そうなんだぞ？」
彼女は――本当に気付いてないのだろうか。そんな気持ちで俺は口を開いていた。
――あと、ほんの少しだけ……。
君という花を手折らずに、俺は待てば良かったのか？
想いは……濁り無く、美しい程の透明度を誇り――。
この恋は、一途な恋のまま……だったのか？
けれども、後悔したところで――既に、遅い。
時間を刻みつつ、俺やは、少しずつ大人へと歩んで行くのだから……。
瞼を１度伏せた後、俺はへと視線を向ける。大きな瞳を好奇心で満たしたが、ジッと俺を見詰めて唇を動かした。
「私も、ですか？」
心当たりの無さそうな顔をして、が彼女自身を指差すと小首を傾げる。そんな彼女を見ていた俺は、苦笑交じりのような笑みをへと見せて、両腕を軽く開いた。
「は気付いてないだろうけど、俺は……お前の変化なら知ってるよ」
開いた両腕の中にを閉じ込めると、彼女が顔を上げたので、その額へと左頬を寄せる。との距離を縮めた俺の咽喉元に、彼女の息が微かに触れた。
――ずっと傍で見てきたの変化なら、知ってるさ……。
ちょっとした仕草や愛らしい表情、しなやかな肢体の温もりも。
この両腕に抱えても足りないぐらい、愛しく思える君の事ならば――。
抱き寄せたの体温を吸い上げるような錯覚を、俺は両腕に覚える。じとり、と身体が汗ばむのが解った。それでも、から何となく両腕を解けない自分が可笑しく思え、こっそりと口元を緩める。”この両腕を解いたら、冷房のリモコンスイッチを押そう”――と、俺が思った矢先だった。
「えぇっ、ホントに？！」
急に嬉々としたが窮屈そうに俺の両腕の中で、身体をモゾリと動かす。彼女が少し可哀想に思えた俺は、仕方無しに両腕を開き、身体を引いてを見下ろした。すると、が真剣な顔で、服の胸元を覗き込んでいる姿が見える。 先程まで薄手の生地を通して見えた彼女の下着が、クッキリとした形で俺の目に映る。不意に見えたものに対し、心底、俺は焦った。
「バ、バカ！ 誰も、ソコの変化だって言ってないぞ！」
上擦った声をに聞かせながら、彼女が服の胸元を引っ張てる両手を、胸元へ押し付ける勢いで、俺の手はのとんでもない動きを制止させる。その間に、俺の顔へ熱が急速に集まるのを感じた。
――こんな、心臓に悪い事……止めて欲しいぞ……。
グッタリと首を折り、項垂れた俺は立ち上がり、部屋に設置されているエアコンのリモコンへと手を伸ばした。電源ボタンを押し、ピピッと電子音を響かせた後、エアコンが稼動し始める。送風のような生温い風を受けながら、隙間を開けていた窓ガラスを閉め、カーテンもきっちりと閉めた。振り向き、を見下ろせば、つまらなさそうな顔付きで唇を尖らせる。
「何だ、違うんですね……」
元気が萎れ、しょぼーんとした空気を纏うが、ポツリと呟いた。やけに悲しそうに見える分だけ、質が悪い。
「いや、そんな事も無いんだが……って、待て！ そうじゃくて、だな！」
しょんぼりとした顔をするの目の前に片膝を着き、しゃがみ込んだ俺は、思わず、本音を漏らしそうになり、慌てて首を横に振った。
「いいですよ、お世辞なんて。……はぁ」
急に慌てた俺に見向きもしないは、洋服の胸元をもう１度両手で引っ張り、そこを覗き込むと、また深い深い溜息を零す。服の胸元を引っ張る彼女の手へ自分のものを寄せた俺は、眉間に皺を刻み、を軽く睨んだ。しかし、俺の睨みなど怖くも何とも無い彼女は、真っ直ぐな眼で俺を見る。
「コラ、。だから、そういう事は止めるんだ！ ……その、だな……」
右眉を少し上げた俺は、軽い咳払いをしての行動を窘めた。すると、彼女は少し不満げに唇を尖らせる。どうやら、へ怒る理由を説明しないと、許してもらえないようだ。正直、困ったと思いながら、彼女から目を外した俺は口篭ってしまった。から逸らした視線を彼女の顔へと戻すと、 きょとんとした大きな瞳が、俺の目の動きを捕らえる。
「どうか……しましたか？」
が怪訝な顔で俺へと問い掛けた。こういう時、さらりと逃げるだけの話術が巧みであれば問題無いのだが、どうもその手は俺に向かない。ここは、正直に話すしか術が無さそうだった。自分が気にしなければ、問題無い事だとはいえ、一応は、俺も男だ。見ちゃ駄目だと解ってても、やはり目がいく。それがバレてしまうのは、何だか恥ずかしい。とはいえ、この無防備過ぎるには、やはり、今直ぐに小言が必要だろう。
「み、見えるんだよ！ 見るつもりでなくても……光で透けるからっ！」
眉間を寄せ、ひどく真面目な顔をした俺は、へと言葉を口にする。俺の言葉に神妙な顔を見せただが、直ぐに口元を緩めると、ニヤッと笑った。
「今更、そこで……照れちゃうんですか？」
悪戯っ子のような表情をするが、俺の双眸を覗き込んで問う。興味津々で楽しげな様子のに、俺はガックリと肩を落とした。
――そりゃ、抱いて眠ったのは、両手で数えても余るけど……。
根本的に、こういう事は……”イケナイ事”の範疇だろ？
少々、頭の固い優等生気質の俺には、得意な分野じゃない。大人になれば平気になるというものでも無いという事に、最近になって薄々気付いてたりもするけどな……。
これ見よがしにの前で盛大に息を吐き出した俺は、目くじらを立て、軽い拳骨を彼女の頭の頂へコツンと落とした。
「今更じゃない！ そんなの……当たり前だろっ！！」
ジロリ、とした眼でを見る。恥ずかしいやら、腹立たしいやら。そんな思いで居る俺の顔は、かなり真っ赤に染まっているのが解る。両頬は、酷く熱い。まるで、発熱しているかのような気になった。
「――ぷっ！ アハハハハ〜ッ！」
何かに耐えるように我慢していたの真一文字に結ばれた唇が震えた途端、勢い良い笑い声が室内を賑やかにする。心底可笑しそうに笑う彼女は、両手で腹を抱えた姿を俺に見せた。 こめかみへ右手の先を宛がい、の良く通る笑い声を聞きながら、俺は心を落ち着かせるように、１度瞼を閉じた。
「……、お前ってヤツは！ 無防備にも、程があるぞ？！」
”反省の色なし”――そんな態度のは、全く悪いと思ってない様子だ。どう怒れば効果的なのか。頭が痛いと思いつつ、今度はしっかり怒鳴ってみた。俺の怒りを含んだ声に、も俺が本気で怒ってる事に気付いたのだろう。口元の笑みを消し去り、随分と沈んだ顔を見せる。その顔は、何か思い悩んでいる顔に思えた。
「そんなに、私って……無防備ですかね？」
小首を傾げたは、大きな瞳を瞼で隠す。今にも唸りだしそうな顔は、眉を寄せ、そこへ浅い皺を刻んでいた。左手の人差し指を顎先に当て、未だ瞼を閉じたままの無防備過ぎる恋人を、俺は浅い溜息を吐いて、両腕で抱き寄せた。
「―――ギャッ？！」
不意に身体を攫われたが、つい先程まで瞼で隠してた双眸を、大きく見開いて短く叫んだ。彼女の色気の無い声を聞いても、２つの置時計は驚く事も無く、正確な時間を刻み続けている。
向かい合う姿勢で抱き寄せた彼女の顔が、俺には見えない。その代わり、彼女へと言葉が１番良く伝わる耳が、俺の口元の傍に在った。そこへ唇を寄せた俺は、の髪でくぐもる声を聞かせる事にする。
「”ギャッ”じゃ、済まないんだぞ。……解ってるのか、？」
くぐもった声は思いのほか、低く聞こえたのだろう。は俺の腕の中で急に身を硬くした。そろり、と自分の両腕を緩め、背を引いての顔を覗き込むと、しゅんと沈んだ顔のが見える。
「は、はい……」
の瞳を覗き込んで、ジッと見ていると、彼女が小さく身動ぎをした。チラリと俺の顔へ視線を寄越して、”ごめんなさい”と言いたげな目をする。
――やれ、やれ……。
そんな顔されちゃ……怒るにも、怒れないじゃないか……。
１度緩めた腕で、再び、彼女の温かな身体を抱き締めた。冷房の良く効き始めた室内だからこそ、尚更、の体温が心地好い。俺の心を揺さ振っては優しく誘う彼女という存在を、愛しく想い、その柔らかなの唇へと、己のものをゆっくり重ね合わせる。床の板目を翳らすシルエットは、個々の人間を調和させるように、大きな影を１つ作っていた。
エアコンの稼動音が、２人の息遣いと相俟って、静かな室内で響く。室内灯を消した代わり、点灯させた卓上式スタントの灯りを頼りに愛しい恋人の肌へと触れ続けていた。肌を冷やすだろう冷気にさえ負けない身体の熱は、内側から人体を焼き尽くすような、そんな錯覚を起こさせる。波打つ白いシーツに落ちる汗が、焼き尽くされていく己の内側から、何か大切なものを落としてるように思えた。
己の掌の汗ばみは自分のものか、それとも、彼女のものか――。そんな事を思いながら、の滑らかな脇腹の肌上を優しくなぞり、その掌を上へと移していく。柔らかな丘の輪郭を一撫でし、更に、その頂を親指の腹で、ゆっくりと撫でる。過剰な反応を起こした彼女の背が大きく仰け反った。
「ぅ、ん……っ！ ……は、ぁ……っ！！」
荒い愛撫などせずとも、嬌声じみた声が愛しい彼女の唇から漏れる。その甘く漏れる声音に、俺は困った顔をして笑った。
「これで……充分解ったかい、？ 男は……誰であっても怖いんだぞ？」
の顎先へと口付けを落とし、そこから俺は唇を這わせるように、彼女の耳元へと移動させて話す。その間も、両手は間断無く、愛しい彼女の身体の輪郭を隅々まで撫で続けた。擽ったそうに身を捩るが、上気した頬と悩ましげな裸体を晒して、俺の言葉に笑う。
「でも……大石先輩の前なら、平気ですよね♪」
つい先程まで、白いシーツを握り締めてたの指先が開き、今度は唇を覆った。笑ってるのを隠そうと思いついたのだろうが、到底、隠しきれてなどいない。第一、好奇心の強い瞳は、先程から嬉しそうに笑いっぱなしだ。
「な、何でだ？ ……、何で……そうなるんだ？！」
の肌上をなぞっていた両手を止めた俺は、彼女の言葉を聞き、大きな溜息を吐き出した。を組み敷いた姿勢から、彼女の身体の右脇へ側臥の姿勢へと変えた俺は、額を隠すように右手を当て、自分の直ぐ傍に居る恋人をチラッと見下ろす。
「え？ だって、大石先輩は……”恋人”でしょう？」
きょとんとしたの眼が、天井を見詰めた後、俺へと移った。不思議そうな口振りで俺に問う。
「あ、あのなぁ……。恋人でも、”安全な男”とは限らないんだぞ？！」
完全に思考が説教タイプになった俺は、密な時間を過ごしている事も忘れ、無防備になり過ぎる彼女へと、小言を漏らした。
――”恋人”だからって、信用して良いものじゃないだろ……？
どんな男であっても男である限り、”安全”なんて言葉からは、程遠い生き物だ。それが大人であれば、ある程に、狡猾極まりない。それを、俺自身の身を以って教えてるというのに、は……。
困り顔を前面に押し出した俺は、を見て溜息を吐く。すると、”心外”と言いたげな表情をしたが、大きく口を開いた。
「そ、そんなの解ってますよ、もぅ！！ 子供じゃないんだから！！」
一気に喋り倒したがソッポを向くと同時に、彼女の柔らかな頬が膨れ上がる。実にらしい反応だが、その態度こそが、彼女を”子供”なのだと証明しているようで、苦々しい思いがしてならなかった。
「絶対に解ってないだろ、その態度！！」
側臥していた上半身を起こした俺は、両手をベッドシーツの上へと勢い良く着く。聞き分けの無い子供のようなの態度に、少し苛立った顔付きで彼女を上から覗き込んだ。
「わ、私の服を脱がした人が、”安全な男”の訳が無いですよ！！」
”負けませんから！”と言わんばかりの表情で、噛み付くように話すの左手は、俺とベッド下に放り出されている彼女の服の間で、忙しなく行き来する。彼女の指先の動きを目で追った俺は、イライラとしていた気が急に殺がれた。
――安全じゃない男に、身を任す……か。
そこには、”情愛なるものの存在”――が、在る為だろうか？
もし、そうだとするならば――。
の俺に対する愛情は、とても深く、成熟したものなんだな……。
本人の見た目よりも、心は……もっと大人だったという訳だ。
怒った所為で赤くなったのか、それとも、気恥ずかしい気持ちで赤くなったのか、の朱に染まる両頬を見てると、怒った自分の方が、随分と子供じみた行動を取っているんじゃないかとさえ思える。
「……あぁ、まぁ……その通りだな、うん」
少し間を置き、気を落ち着かせた俺は、へと素直に頷いて見せた。怒っていない証拠をへと示すかのように、殊更優しく、の前髪を利き手で梳く。
「次は、もう少し……気を付けます。あの……ごめんなさい……」
も無防備と呼ぶよりも、自分の行動が”はしたない”と言われる類の事だと気付いたようだ。申し訳なさげな表情を見せ、恥ずかしそうに謝りの言葉を口にした。淑やかさと無縁に思えた彼女だが、意外とそうでも無いのかもしれない。
「あぁ、そうしてくれよ。……特に、”他の男の前”では、な？」
子供扱いばかりしていては、案外、の成長の妨げになるのかもしれないと思いながら、俺は苦笑交じりに話す。
「あれ？ それじゃ、大石先輩の前では――っ、んんっ？！」
俺の言葉を聞き、が大きな双眸をキョロリと動かしながら、何事かを考えているようだ。ただ、その答えを彼女が導き出すよりも早く、中断をしていた続きを急かすように、の唇へと同じ柔らかなものを押し付ける。大きな瞳を見開いた後、は何かを思い出したようで、大人しく瞼を閉じると俺へ身を委ねた。
完全な丸みを帯びるには、まだ時間の掛かるだろう愛しい肢体を包むように抱き寄せる。少女のベールを捲り上げるように、前髪を優しく梳き、の額へと、俺は温もりを１つ落とした。触れられる熱が心地好いのか、彼女は未だ好奇心の強い瞳を見せない。瞼を閉じたままの彼女の柔らかな頬へと、自分の片頬を摺り寄せた。
――本当の君は少女なのか、それとも、大人の女性なのか？
本人さえも気付かずに、は随分と巧みに２つの仮面を付け替える。
振り回されてしまうのは、いつも……俺のほうだな。
ならば、今だけは……大人の振りを通してくれないか？
俺にだけ見せてくれる、特別な顔で――。
ほら、俺とにとって、今は……”大人の時間”だから――。
不思議な呪文で、今、扉を開いてしまおう。
君の、大人になる為の扉を――。
片頬を彼女のものへと寄せていた俺は、そこから頬を１度離し、改めて唇を寄せた。の幼さ残る頬のラインを滑るようになぞりながら、唇を這わした後、彼女の耳元の髪を軽く梳き、そこへ何度と無く口付ける。口付けの回数を重ねる間に、自分の２つの掌で、彼女の肌上を隈なく触れ続けた。
「……Sesam，oeffne dich！」
浅くなり始めた呼吸から漏らすように、俺はポツリとした呟きを零した。
「え？ ……ぁ、せ、せんぱ……いっ、やぁ……っ」
俺の声に素直に反応したが、呟いた言葉の意味を問うような声を出したが、それに気付かない振りをした俺は、何も言わずに彼女の首筋へと額を寄せる。汗ばみ、熱を取り戻す愛しい恋人の身体が、これ以上冷えないように、深い刺激を与えようと、柔らかな茂みへと指先を滑り込ませた。身体を硬くしたの切り揃ってない前髪が静かに流れ落ちる。俺はゆっくりとした動きで近付き、露になったの額へ唇を寄せて愛しさを込めて口付けた。
電気スタンドの仄かな光に照らされ、水槽のガラスや水、テレビのブラウン管の表面が浮き上がって見える。チッ、チッ、チッという置時計の音を耳にする俺の意識は、落ちかけ寸前のところにあった。そんな俺の耳傍でシャッと白色のベットシーツと何かが擦れ合う音を起こす。俺は重い瞼をそろりと押し上げた。
「――”開け、ごまっ！”」
の話し声と一緒に、彼女は天井へと両手を勢い良く翳す。その動作に驚いた俺の眠気は、一気に吹っ飛んだ。
「……えっ？！」
ほとんど落ちかけた瞼を完全に押し上げた俺は、瞬きを繰り返す。驚いたのは、の行動だけでなく、が口にした言葉にも理由があった。
「何となく、そんな気分かなぁ〜♪」
ふふっ、と楽しげに笑ったが上体を起こすと、ベッド端へと身を乗り出し、下に落としていた服を拾い上げ、素早く身に纏う。
「、今のって……？」
流石に着替えの様子を直視するのは気が引けるので、の衣擦れの音が止むまで、不自然に視線を宙に彷徨わせながら、彼女に背を向けて問い掛けた。
「アラビアンナイトのお話に出てくる呪文ですけど、知ってますか？」
着替えを終えたは、ベッドへと潜り込みながら喋り、俺へと問い返してきた。背後にが近付いた感じを覚え、俺も身体の向きを彼女の方へと変える。
「それは知ってるけど……。また、何で……？」
彼女の問いに俺は首を縦に振った。その後、怪訝な顔をして見せた俺は、更にへ問う。彼女が何故、”開け、ごま！”の台詞を言ったのかが、凄く気に掛かったからだ。
「大人になるって、何かの扉を開けるようなものかな〜って……」
楽しそうに笑って話すの双眸が、スタンド電気の灯りに照らされて煌く。闇に浮き上がる彼女の柔らかな頬を見詰め、俺は右手の掌でそこを軽く撫でた。
――にとっては、”大人になる”のは、何かの扉を開けることなのか。
確かに、大人と子供の線引きは、そういうものなのかもな……。
今、大人への扉を開けてる途中の君が言うのだから、確かなのだろう。
そう、大人になる事へ憧れを抱く君が、そう思うのだから――。
眦を下げ、柔らかな表情を見せる俺は、の言葉に真実を見付け、軽い笑いを零す。
「――っ、ははは……っ」
可笑しそうに笑い続ける俺の声に目を丸くしたは、直ぐに目を細め、眉間を寄せた。
「また、”子供”だと思って、私を笑いましたねぇ〜？！」
笑う俺の真意を捉えようとしたは、面白くなさげに唇を尖らせる。悔しさを滲ませた可愛い恋人の声が、静かな室内に広がった。
「いや、違うよ。俺と同じように、大人になってるんだと思ってさ……」
俺は緩く頭を振り、の考えをやんわりと否定する。枕の表面と短髪が擦れ合う音が、自分の耳元で騒がしく起きた。
――誰にも、が大人になるのを止める権利は無いんだ。
たとえ、にとっての……唯一無二な恋人である俺でさえも――。
それならば……。
今、俺の持つ想いの全てを、君へ惜しまずに注ごう。
女性としての変化を遂げ始めたの為に――。
何もかもを惜しまず、君に…………。
小さな決意にも似た思いを掌に込め、俺は利き手を握った。
「えっ？！」
呟きにも似た驚愕の声を漏らしたが、大きな双眸を更に見開く。
「独逸語では、”Sesam，oeffne dich！”って言うんだよ」
好奇心の強いに余計な詮索をされないうちに、俺は話を逸らした。握り締めた掌を彼女に気付かれないように開いた俺は、その手での頭を静かに撫でる。
「”Sesam，oeffne dich”って言うんだ、ふぅ〜ん。……あ、でも！」
良い事を聞いたと言わんばかりに、話に耳を傾けたの双眸がキョロリと落ち着き無く動くと、何かを閃いたような顔付きになった。俺を驚かす事にかけては、天才的な能力を発揮する彼女の言動には、目が離せないという気にさせられる。そんな思いで、俺は目の前で横臥するを見てた。
「何だい、？」
優しい口調でへと尋ねた俺は、言葉の続きを彼女にやんわりと急かす。
「まだまだ大人への扉を、開け続けるんですかね？」
ワクワクとした顔のが俺へと問いながら、タオルケットを鼻先近くへと引き上げた。俺は彼女の背にしっかりと掛かりきらないタオルケットを右手で引き上げ、の背中をきちんと隠してやる。
「そうだとしたら、は……扉を開ける呪文を、もう決めてるかい？」
冷房の風から身体を守るように身を丸くするの身体を包むように、緩く両腕を彼女の身体へ回しながら、俺は尋ねた。目の前に見えるの煌きの強い双眸を覗けば、答えなど訊くまでも無いのだが――。
「もちろんです！――”Sesam，oeffne dich！”、しかないですよ？」
嬉しそうにニッコリと笑ったが、軽やかな声で呪文を口にする。その声を聞いた俺は、「そうだな」と一言答え、瞼を伏せて笑った。
身体を寄せ合い笑う俺達の耳に届いたのは、未だ降り止まず、優しく歌うように響き続ける夜更けの雨音の調べだった。
【END】