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笑ってくれたら、にやける。
怒ったのなら、謝る。
拗ねていたら、宥める。
泣いているのなら、抱き締める。
地球が、日常が、君を中心に、グングンと回転速度を上げる。
そんな君の遠心力で、俺はいつも目が回ってる。
手が掛かる。世話が焼ける。過保護になる。
それでも楽しい、君との時間。
これが、きっと―――。
世間の人が言う、『惚れた弱味』というものだろう。
俺は、いつも思う。
何故、俺ばかりが、君に惹かれてしまうのか。
どうして、俺ばかりが、君に引き寄せられるのか。
それは重力の働きのようで、不思議な引力のようで。
俺ばかりが、彼女へと、いつも先に近付いてしまう。
今の立ち位置で踏ん張ってるはずなのに、どうしてなんだろう？
これじゃ、俺ばかりが、君の傍にいつも居たいと思うようで、とても切ないんだ。
そんな特別な魔法で、俺を引き寄せないでくれ。
どうして、君が先に近付かないんだろう？
何で、君を引き寄せられないんだろう？
簡単に起こる重力のように、不思議な引力のように。
俺には、君を引き寄せる力が足りないらしい。
俺らしく、あるがままでいるはずなのに、どうしてなんだろう？
気が付けば、俺ばかりが、いつも君に夢中のように思えて、とても苦しいんだ。
そんな特別な呪文で、俺を吸い寄せないでくれ。
こんな俺でも、たまには――。
俺の持つ引力で、君を……近付けてみたいんだ。
「――は？ ……な、何だって？」
いつものように、目の前に居るをぼんやりと眺めていたら、真剣に話を吟味していると思われたようだ。俺は慌てて、話の内容を聞き返した。
「もうっ！ ちゃんと聞いてましたか？」
が両頬を少し膨れさせ、俺を白い眼で見る。両手を腰に当て、彼女がそう問い返した。
「あ、いや。えっと……ごめん」
格好悪いったら、この上ない。俺は右手で首を掻きながら謝る。
退屈で話を聞かなかったんじゃない。繰り返し、繰り返し、の右手から左手へと落下する蜜柑を眺めていたら、何だかそれが自分のように思えてきた。
それで、ずっと考えていたんだ。
落下する蜜柑＝君へと落ちていく俺、という風に――。
当たり前に落ちる蜜柑も、当たり前のように恋に落ちた俺も、何だか似通っていて……。
君の手で遊ばれる蜜柑が俺のようで――少し悲しい、と。
テーブルの面に片頬を当てるようにして上体を伏せた俺は、そこから少し高いところにあるの顔を見詰める。
「だからですねぇ、”どうして、蜜柑は落ちちゃうんでしょう？”」
は未だ右手から左手へと、蜜柑をポテッと落としては転がす。それを楽しげな目で見詰めては、不思議そうな声を出し、そう俺へと訊いた。
「それは、地球では”重力”が働くからだろ？」
ポテリ、ポテリ……。何度も彼女の手から落ちる蜜柑を眺める俺が、の問いに問いを返した。に遊ばれる蜜柑を、気の毒に思いながら。
「落ちて当然の”重力”も、モノを引っ張る”引力”も、不思議……」
ポテリ、との左手に落ちた蜜柑は、彼女に食べられるために、皮という服を脱がされ始めた。彼女の周りでは、柑橘の香りが漂う。
「不思議なもんか！ 俺はいつだって、感じてるぞ……」
柑橘の爽やかな香りが、俺の鼻先を擽る。俺が見ている前で、が大きな口を開けると、”頂きまーす！”と言って蜜柑を一房、口へ入れた。美味しそうに目を細めたが、その甘味と酸味が奏でる味わいを感じているのだろう。
憐れな俺が、彼女に食べられてしまった。
食べられたら、そこで”終わり”なのに……。
それじゃ、と落ちた俺の恋は、何処で終わるのだろう？
俺も何処かに落ちた先で、食べられてしまうのか？
何故か酷く悲しい気分になった。
「大石先輩も、食べます？」
蜜柑を一房にするが、俺の口先へとそれを運んできた。ニコッと笑う顔は、俺の瞳に無邪気そのもので映る。
「……うっ」
短く呻いた俺の目の前で、プルプルと皮の剥かれた蜜柑が揺れる。共食いになるが、やはり、蜜柑は蜜柑。甘くて美味しい、瑞々しいそれを食べたいのが、人間というものだ。俺は少し口を開き、の持つ蜜柑を分けてもらおうとした。
「ダ〜メ！ あげないよぉ〜♪ ……パクン！」
俺の目の前でプルプルと震えていたはずの蜜柑が、ひょいと宙を移動すると、の唇へと吸い込まれる。俺は間の抜けた顔で、彼女が蜜柑を食べるのを眺めていた。
「おいひぃ〜〜！！vv」
口をモゴモゴとさせたが、蕩けそうな表情をすると、両手で頬を押さえる。いかにも、美味しいといわんばかりの表情。俺には、それが少し憎たらしく思えた。
「何なんだ、自分ばっかり……」
俺は少し溜息を含んだ声で言う。の子供じみた悪戯だが、少しカチンと頭にきた。いつもなら”子供だ”と笑う俺も、今は勝手が違う。
「……う？」
次々と口に蜜柑を放り込んでいくが、俺の溜息を聞いたのか、夢中で頬張る蜜柑が無くなると短い声を上げた。それから、大きな彼女の目が、きょとんとして俺を見下ろす。
あどけない、ガードの少し緩いの表情が可愛い。先程の憎らしい表情も、今の愛らしい表情も、その仕草１つで俺の感情を簡単に支配する。まるで、彼女の掌で転がされていた蜜柑のように――。
「俺も……蜜柑が食べたいなぁ……」
テーブルの表面に片頬を当てたまま、目の前に居るへと話し掛けるような独り言を、嫌味タップリに大きな声で言った。皮の剥けた蜜柑が食べたいというよりは、意地悪された仕返しをしたかったのだ。それは、当たり前にモノを落下させる重力に、抗おうとしているような気持ちに近いものだろう。
「はい、どうぞ♪」
は床上に置かれる蜜柑の入った籠から、橙色の丸いものを取り出すと、俺の目の前に、デン！と置いた。俺の目の前の蜜柑が邪魔をし、の顔が視界に入らない。
「……俺、”食べたい”って言ったよな？」
俺はテーブルへと伏せた上体を起こし、眉間を少し寄せ、へと訊いた。
「ハイ！ だから、置きましたよ？」
ホラ、とがテーブルの上に鎮座する蜜柑を指差す。ニコッと愛想良い笑顔を見せ、俺へと答える姿が誇らしげだ。
「……いや、だから……。あのなぁ〜……」
”他意はない”、彼女の表情からは、意地悪をしたという感情が微塵にも感じられない。俺はどう説明しようかと本気で悩んだ。俺が悩んでいるうちに、は籠からもう１つ蜜柑を取り出すと、先程置いた蜜柑の隣に、仲良く並ばせるように置く。
「ねぇ、大石先輩！ 私にも、蜜柑を剥いてくれますよね？」
ニヘラ、と笑った顔を見せるが、楽しげな声音で事も無げに、俺へと言った。小首を傾げ、俺へと訊くの瞳がキラキラと輝いて見える。
――それこそが、”俺のセリフ”だ！
そう主張して止まない言葉が、俺の脳内で反響する。臍を噛む様な思いの俺は、心を落ち着かせようと瞼を閉じた。
――諦めろ、俺。
いつだって、俺の”負け”なんだから……。
薄々、その事実には感付いていた。しかし、それはあまりにも味気ない現実だった。
いつも物事が有利に運ばれるのは、彼女のほうだ。
これまでだって思い通りになるのは、彼女のほうだった。
無条件なまでに、俺は――の為に、尽くしてしまう。
そんな自分が嫌いでは無いが、少し納得出来なかった。
同じ早さで、惹かれ合って恋に落ちたのなら、互いを引き合う力は、常に等しいもののはずだ。
こんな一方的なまでに、俺がに引き寄せられるはずがない。
彼女に負けない”引力”が、俺の何処かに眠ってるはずだ。
きっと、俺にだって――。
「――、お前が剥いてくれよ」
ニコニコとしている彼女の前で、俺はキッパリと言い切った。己の内に眠る”引力”の目覚めを、信じて――。
「えぇ〜？！ 大石先輩の剥いてくれた蜜柑が食べたいデス！」
が面白くなさそうに、俺の言葉に反論する。両手をギュッと握ると、その手をテーブルの上へと乗せた。それから、その両手の上へと彼女の顎先が乗る。プゥと小さな風船を両頬で模るの表情は、小さな子供のようだ。それでも、キラキラとする大きな瞳は、期待を込めた眼で俺を見る。ズルイ、と俺は思った。
「お、俺は、剥かないぞ！ だから、が剥いてくれ」
少し唇をとがらせ気味にして俺は言った。
ここまでくれば、大人も子供もない。
愛が流れる方向の、どちらが常に風上か。
愛が転がる方向の、どちらが常に坂上か。
ただ、それだけを知りたかった。
「大石先輩が剥いてください！ ねぇ、剥いてくださいよっ！！」
テーブルの上に鎮座している蜜柑を凄い勢いで片手に掴み、がそれを俺の鼻先に押し付けた。”ねぇ、ねぇ”と彼女が言うたびに、蜜柑は俺の鼻先との掌に挟まれ、形を歪ませる。
大抵は、のお強請りで俺が折れた。
そう、”いつもなら”だ。
でも、今日の俺は――少し、違うぞ。
目前に迫る蜜柑と、その向こう側の大きな双眸から、俺は目を逸らした。
引力は、常に彼女のほうが強い。
彼女より大きな体躯の俺が、アッサリと引き寄せられるのだ。
それはまるで、”手塚ゾーン”を鮮やかに操るような巧みさ。
それを、俺は身を以って知っている。
俺は――決して”下僕”体質なんかじゃ、ない。
愛というものは、平等で……。
俺の胸にも、彼女の胸にも、宿るものだろう？
少しぐらいは俺の我儘という引力で、を引き寄せても、罰は当たらないだろう。”愛情”という力が、そこで発生するならば。
「――わかりました」
俺の鼻先へとギュウギュウ押し付けていた蜜柑を取り去ると、が不服そうな声音で言った。それから、少し荒々しい手の動きで、蜜柑の皮を剥き出す。
「そ、そうか。……解ってくれたなら、良いんだ！」
どこかホッとした俺は、口元を緩め、楽しげに話した。少し意地を張ったほうが、引力は、より強く働くものなのか、と俺が思ってるうちに、目前では、が剥いた蜜柑をバクバクと勢いをつけて食べていく。
「――ムシャ、ウグッ、ムシャ、ウグウグ……」
容赦無いの食べっぷりは、留まる事を知らず。聞くに堪えない音をさせながら、彼女の手にある蜜柑が姿を消していく。その様子を見ていると、凄く嫌な予感がした。残りも４分の１となったところで、俺は慌ててに声を掛ける。
「えっと……サン？ 俺にも、蜜柑を分けてくれるかな？」
俺より目線の低いに合わせるように、俺は少し背を丸め、彼女の顔を覗いた。にこやかな笑みを浮かべる俺と目が合ったは、手にしてた蜜柑の全てを、凄い勢いで口の中へと丸ごと放り込む。”ふぐっ”、と言ったの口から蜜柑汁が飛び出ると、俺の顔へ完全な着地を遂げた。
――これは、の嫌がらせ、なのか……？
どこか呆然とした顔付きで、俺は思った。
「………………何で、だ？」
少しの間を置き、我に返った俺の小さな呟き声は、かなりの怒気を含んでいる。少しとはいえ、蜜柑汁を吹っかけられた俺は当然キレた。蜜柑汁で濡れた左頬と鼻先を、左手の甲で煩わしげに拭う。その間も、の口は休むことなく、モグモグと運動していた。
「……自分で剥いたのに、怒られる意味が解りません！」
ゴクン、と咽喉を鳴らし、蜜柑を飲み込んだが口を開くと、そう言って膨れっ面をして見せる。の言う事は、尤もだ。蜜柑を分けてもらえないぐらいで怒る俺の神経を疑うのが、普通だろう。だが、俺はそういう事で腹が立つ訳ではなかった。
どうして、いつでもが、俺の世界の中心なのか。
何で、自分の世界の中心に、俺がいられないのか。
いつも彼女に引き寄せられては、振り回されてしまう。
引力も、重力も、等しく掛かる筈の恋なのに、俺ばかりが、の力に負けてしまう理由が解らない。
それが、俺には納得いかなかった。
「俺は、それを怒ってるんじゃない！」
声を荒げ、俺は言い放った。水槽の中の愛魚達が慌てて尾びれを振り、水草の陰へと隠れる。まるで、俺の怒りが解っているようだ。
蜜柑が食べたいだけなら、自分で剥けば済む話。
でも、そうじゃないんだ。
――そんなんじゃ、ない。
１つの蜜柑が目の前にあれば、それに無条件で手を伸ばすのが俺だったら、蜜柑の皮を剥いた後、何くれと無く、半分をに渡してしまうだろう。
でも、今のは、自分で剥いたものを、自分だけで食べた。
悪いことじゃない。それは、ごく普通のことだ。
だけど、こんなに近くに居るはずなのに、当たり前のように、差し出されなかった蜜柑が、”の世界の中心が、俺では無い”と証明されたようで、それが悔しかった。
「蜜柑の汁が飛んだ事なら、謝ります！！」
ベッドの宮付き棚へ手を伸ばしたが、ティッシュ箱を掴むと、それを脇に置き、ティッシュペーパーをササッと取り出す。手にしたティッシュペーパーで、俺の鼻先と頬を拭きながら、俺の荒げた声に対抗するような声音でが答えた。
「そうじゃなくて！ ……お前、俺の事なんだと思ってるんだ？！」
懸命に俺の顔を拭くの手を避け、俺が叫ぶと、俺の言葉に、俺の顔を拭いていた彼女の手は止まった。
「な……っ！！」
絶句と言えるような短い声を上げたは、大きな瞳が驚きで更に見開かれる。室内灯の灯りを揺らす瞳が、酷く傷付いて見えた。俺の顔を見詰めた後のは、その視線の先を床上へ移し、静かに項垂れる。
「……ごめん、言い過ぎた」
しゅんとして項垂れたの旋毛を見下ろし、俺は途端に熱の冷めた声で、ポツリと言った。
自分の世界なのに、いつも風向きはの指先１つで決まって、それを不思議に思わない俺に違和感を感じた。だから、自分の世界を取り戻そうとして、には、少し意地悪な事をしてしまった。今まで、散々、俺の世界の中心だった彼女を、俺は無理に押し退けてしまったんだ。
たまには、自分の世界を俺中心で動かしたい。
の世界だって、俺を中心にして動かしたい。
いつだって、風向きは、俺が決めたい。
思いの全部が、”俺の我儘”で――。
そうして俺は、彼女を――いとも容易く、傷付けた。
「意地悪な事を言われる意味が、解んないです！！」
項垂れたままのが怒った口調でそう言うと、俺の胸元をグッと力を込めて押した。その仕草は、何だか彼女の世界から俺を押し出そうとしてるみたいで、胸が苦しくなる。
「俺が……悪かった」
自分の胸元を押す細い腕を掴んだ俺は、俺を押し出さないで欲しい、と、そう祈りながら謝った。
どんなに抗っても引き寄せられるのは、俺のほうで――。
どんなに逆らっても惹かれるのは、いつも俺のほう――。
どんなに頑張っても俺の世界の中心は、やはり彼女で――。
それを悔しく思いながらも、それが幸せだと知っている自分がいる。
「”悪かった”って言うなら、訳を言ってください！ 訳を！！」
意地悪をされて、この娘が黙っているわけが無い。俺の胸元を押していた手で、今度はポカスカと胸元を軽く叩きながら、拗ねた声でが言った。俯いているの口元が微かに見え、俺には解る。相変わらず尖ってる唇が彼女の機嫌を俺へと伝えていた。
「それは……教えたくない」
少し詰まった言葉に躊躇しながらも、俺は言葉を告げた。
この感情を教えてしまうと、俺という人間味が１つ失われる。
それを重ねるうちに、君がだんだんと遠退く気がするんだ。
だから、この感情を秘密にしていたい。
君を引き寄せるための、俺の中にある陰にしたい。
俺が君へと発する”引力”として――。
「何でですかー？！ も〜、許さないですよ！！」
蜜柑を頬張って膨れたの頬が、今は俺を思って膨れる。拗ねた彼女の声が、俺の耳に届いた。
「……ごめん。……許してくれ、な？」
困ったような声音でそう言いながら、俺は少し笑った。それから、俺の胸元を叩けないようにと、との距離を詰め、自分の腕の中に収める。
「意地悪は、許せませ〜ん。きゃ、う？！ ……うぅ〜」
ギュと抱き締めると、が恥ずかしげに困ったような声を出した。こんな時の彼女は、いつもの２割増しで可愛い。身動ぎをして落ち着かないだろうと思えたが、すんなりと大人しく俺の腕に包まれるのが、何だか嬉しかった。
大人しくしてるとはいえ、困った顔をするは、眉を八の字にし、俺をチラリと見てくる。
を拗ねさせた俺は、彼女を苛めた分だけ甘くなる。
俺の世界は、こうして常に――を中心にして回り出す。
拗ねた顔も、怒った顔も、俺が彼女に引き寄せられる材料で、それ以外の何物でもない。
甘ったれの泣き顔も嫌いじゃない。それでも、やっぱり……。
――１番惹かれるのは、彼女が笑う顔だ。
の引力が強く働くと、俺は自分を抑えられなくて困るんだ。
その柔らかな唇に、ずっと触れたくなってしまう。
幸せを分けて欲しくて、温もりを教えて欲しくて――。
を見ていた俺の視線に、彼女の視線が割り込んできた。考えていた事を読まれるような気がした俺は、それを隠そうとして声を出す。
「あ〜……蜜柑、食べるか？」
意地悪をした詫びとして、俺はにそう尋ねた。大きな目が戸惑うように泳ぐと、遠慮がちに瞼を伏せ気味にする。少しの間、短い沈黙が俺達に訪れた。
「……う、ううん。いらないです。先輩が食べてください……」
答えながら緩く頭を振った彼女の長い髪の毛先が少し揺れる。きっと、自分ばかりが食べ過ぎたのを怒られたと思い、俺に気を遣っているのだろう。元気な仔犬が怒られてしょげた顔をしているようなの様子に、俺は何だか笑ってしまう。今、彼女の世界の中心が、俺を基準に回り出したようで――。そんな合図を、から貰った気がした。
少し強めに抱いていたの身体から両手を放し、俺は蜜柑の入った籠が置かれるテーブル上へと手を伸ばした。手に取った蜜柑の皮を剥きながら、しょげる彼女へと話す。
「俺は、もう怒ってないぞ？ ほら……この蜜柑、美味しそうだ」
柑橘の香りを放ち、綺麗に剥けた蜜柑の一房を指先で摘む。
俺はそれをの唇の前へと運び、それ以外の蜜柑を、テーブルの上へと置いた。の唇の前で、俺の指先で摘まれる一房の蜜柑がぷるる、と揺れを見せる。 の大きな双眸が、その姿を捉えると、パクンと魚が餌に食らい付くように、蜜柑を摘んだ俺の指先ごと口の中へと収めた。生温かい彼女の口内と舌先が自分の指先に触れて、体中の肌がぞわりとした感じを覚える。慌てた俺が、の口の中から自分の指先を急いで引き抜いた。目の前のは、俺の様子を気にするでもなく、呑気に蜜柑を食べている。
俺は濡れた指先を軽く舐めた。仄かに香る柑橘の香りと、甘い汁の魅惑に囚われた俺の胸の内が騒ぎ出す。
「うふっ！ おいひぃ〜♪ ……大石先輩、もう１つ食べ――」
両手で頬を包んだが、果実の甘さに舌鼓を打つ。蕩けそうな表情を見せる彼女が、蜜柑を強請ろうと俺へ話し掛ける。すっかりとガードの緩くなったの両手を、俺は衝動的に掴み、そのまま彼女へ引き寄せられるように、己の唇を近付けた。彼女の柔らかな唇に触れる寸前で鼻先に蜜柑の香りが漂うと、それは自身が、まるで果物のような甘さを持っているような錯覚を俺に起こさせた。驚くの大きな瞳は、未だ閉じられる事は無い。忙しない瞬きを繰り返すだけだった。
少し強引過ぎる遣り方だが、俺は彼女の唇へと自分の唇を押し付ける。柔らかな熱を持つの唇に吸い付くと、蜜柑の甘味がした。その甘さを貪るように俺は舌先で綺麗に舐め取る。それを何度か繰り返すうちに、恥ずかしさのためか、の瞼は、いつの間にか閉じられていた。
果実は、熟して甘くなる。
熟れた果実は引力により、枝から実を落とす。
彼女という実は、自ら熟れ、俺の手の内に落ちるのか？
彼女自身の世界を、俺の手へと委ねるのだろうか？
――いや、既に……委ねられているのかも知れないぞ？
不意に訪れた、チャンス。
彼女の世界に、俺がすんなりと入り込める瞬間だ。
そんな絶好の機会を、俺が見逃す訳が無い。
俺は思考する事により、自ら上がる熱を冷まし続けるが、その一方で、彼女の甘い唇へと視線を落としながら口付けた。時が刻まれる音を無視し、ゆったりとしたリズムの接吻を繰り返す。すると、善人だった自分が急速に欲望の闇へと、堕ち始めた。の両手を掴んでた手を放し、その手で細い肩を掴む。そこから、指先に長い髪を絡ませ、艶かしく首筋を撫で上げ、柔らかな両頬を包む。その間、俺の舌先は、彼女の口内を無慈悲に犯した。
彼女の世界も、彼女の身体も――全てを、得たい。
己の浅ましい欲求を満たすべく、浅く、深くと口付けの角度を変えていく。
それと同時に、の唇に己の魂の救済を求めた。
彼女の世界の片隅で良い、ただ俺を忘れずにいて欲しい、と――。
「……ぅ、ぁ……っ」
息苦しそうな音を漏らす小さな唇が、俺のものから逃れる術を探しているかのように、新しい空気を求め、は首を揺らす。残忍な人間になりきれない俺が、その唇を素直に離すと、すぅ、と息を吸い込む音が聞こえた。
彼女以外、何も見えなくなってた俺の視野が、室内の輪郭を音も無く、急速に蘇らせる。気が付けば、自分の家財道具が目に映っていた。彼女も同じような気分でいるのだろうか、と俺は目の前に居るを見詰めた。
「…………ぅぅ〜」
の低めの小さな唸りが、彼女の恥ずかしさを含んで、俺の耳へと届く。少し淫らな口付けは、思いの外、彼女の羞恥心を煽ったのだろう。は俺と目が合うと、途端に、顔を両手で隠した。髪の毛の間から覗く彼女の耳朶が赤く染まる。
の赤い耳を見た俺は、何だか落ち着かなくて、テーブルの上に置きっぱなしの蜜柑へ手を伸ばし、食べる。剥いてから、少し時間の経った蜜柑は、かなり萎び始めて、酸っぱい気がした。
「あんまり……甘くないな」
呟きにも似た声で、俺は独り言のように言った。日常の時間と恋の時間が、どっちつかずの状態で自室を漂う。その狭間に身を置く俺は、どうしたものかと考えながら、萎び始めた蜜柑を口へと運び続けた。
自分の世界は彼女中心なのに、の世界では、俺が中心になりきれてない。どっちつかずの雰囲気は、俺と彼女の心理状態を表しているようだ。残り１房の蜜柑を自分の唇にあて、俺はぼんやりとしていた。
「甘くないこと、ないですもん！」
意識を何処かに飛ばしている俺の傍で、が俺へ対抗する意見を言い、俺が唇にあてる蜜柑へと食い付く。”はむっ”、と蜜柑を口の中へと誘ったの唇が、勢い余って俺の口端へ触れた。
「――っ？！！」
霞がかかったようにぼんやりとしていた脳内が、柔らかな感触で目が覚める。驚く俺は背を伸ばすと、硬直しかけた。賢しげだと言われる自分の目元を大きく見開き、を見る。
「うぐ、うぐ。……ん、甘いじゃないですか〜」
忙しく口を働かせたが蜜柑の果実を胃へ落とすと、まだ赤い耳先をそのままに、ほんのりと染まる頬を見せ、彼女が嬉しそうに笑う。そんな彼女を眺めているだけなんて事が、俺には出来るはずもなく、自分の心を捉えて放さないを、己の腕へと掴まえた。強い風が吹いて、景色を飛ばしてしまう。そんな感覚に似たものを感じながら、俺は笑みを零す。
「――甘いのは、お前だろ……」
の顎先に指先をかけた俺は囁き、彼女の答えを聞かないうちに、蜜柑の果実よりも甘い唇へと、口付けを落とした。
「せ、先輩だって！ その……蜜柑の甘い味、してます」
ちゅ、と小さく音を立て、互いが唇を離すと、真っ先にが口を開いた。大きな双眸は、俺の姿を間近に映している。
「……そうかな？」
俺は自分の唇を舌で舐める。確かに、蜜柑の香りが微かに鼻先を擽った。
「私……何だか、食べられちゃいそう……」
俺の顔を見てたが、困ったように目を泳がせ、呟く。落ち着かない大きな瞳が彷徨うのを見ていた俺も、の言葉に反応し、急に顔を赤らめてしまう。
そんな心の動揺を隠したい俺は、赤くなる自分の頬に、の大きな瞳が気付かないうちに彼女の唇へ己のものを、再度寄せる。大きな瞳が直ぐに瞼を閉じる様子を、彼女に接吻しながら見届けた俺は、と同じ夢を見るために瞼を閉じた。柔らかな温もりが互いの存在を主張すると、互いの世界を急速に近付ける。
手繰り寄せるように目に映らない引力が働き、互いの躯を求め始めた。身体を纏う布を邪険に扱いながら、熱い肌を欲する。口付けで恋の熱を灯しながら、の頬を、首筋を、もどかしげなまでに、何度も指先が往復していた。
――手加減なしで、求めてしまう……。
そう考えた自分を恥じるように、彼女の髪へと無骨な指先を沈める。俺の両手は、の頭の形を捉えるように、彼女の頭をしっかりと包み、上向かせた。俺に身を委ね、されるがままの動きに、が素直に従う。無防備な彼女の唇が、暫くの間、俺の唇の熱に晒され続けていた。
窓に掛かるカーテンの隙間からは、昼下がりの日差しが零れ、薄い光が床上を照らしていた。淡いクリーム色のベッドシーツ上には、乱れた恋人の長い黒髪が広がる。
甘い果実のような彼女の中に己の分身を沈めた俺に、突拍子ない事をが口を開く。
「……最後の蜜柑を食べた事、まだ怒ってます？」
が俺にそう訊くと、彼女は瞼を伏せ気味にして視線を外す。俺は彼女の太腿に手を掛け、ゆっくりと撫でながら考えた。
「最後の……蜜柑？」
呟いた俺は、が蜜柑を食べる姿を思い巡らす。
――一体、どの時点を指すのだろうか？
悪戯心で俺に食わさなかった蜜柑も、彼女が自分で剥いた蜜柑も、俺が剥いた蜜柑も、最後の１房は全ての口の中だった。
「なんだ、まだ気にしてるのか？」
俺は、可笑しくて笑った。
「気にします！ だって……大石先輩も食べたかったでしょ？」
眉間を寄せ、申し訳なさそうな表情のが小さな声で言う。緩々と伸ばされた細い指先が、俺の唇へ触れた。
「そう言われると、そんな気もするけど……」
俺はキョロリと目を動かし、明後日の方を見て考える。
「……するけど？」
言葉尻を真似、が俺の言葉の続きを急かした。
「蜜柑の味がするを食べるほうが、得……かな」
言葉を口にしてみると、何だか納得してしまう。俺は恥ずかしげもなく、自分に似合わない戯言を、口にしてに聞かせた。
「な、な、何言ってるんですか〜〜っ？！」
俺の身体の下で暴れるが、ペチペチと音を鳴らし、俺の胸元を叩く。彼女の顔が、一気に赤く染まった。
「と、とにかく、そういう事だ。もういいだろ……」
が赤くした頬を見ていると、それにつられるように俺も気恥ずかしさを覚える。何だかの瞳を見てられなくて、視線を泳がせるように外し、彼女の首筋に唇を寄せた。
彼女の中に沈めてたモノを、緩々と引き出しては、押し込める。気恥ずかしさを誤魔化すように律動を繰り返すうちに、気付けば、無心になって彼女を求めていた。
「……あぁ、……っ！」
歓喜の声を上げるように、が甲高く、鼻にかかる声を出した。それに併せ、彼女の身体が、しなやかに跳ねる。
ほら、恋の重力を感じて……。
そのまま、俺の手に落ちてきて――。
俺の引力を、その肌で感じて。
頼りない細腕で、俺を求めて。
俺の世界も、の世界も、色や音、香りすらも融合させ、１つの世界になるように――。
君と俺の引力で、互いを強い想いで結びつけて――。
熟れた甘い実が自然に落ちるのを待つように、俺はが自分の腕に溺れるのを、ひたすら待つ。熱くなる肌が汗ばむ感触を覚えながら、の肌の上を、隅々まで掌を這わせ、愛しさを込めて撫で続けた。
「蜜柑が、何だか甘くない……」
ご機嫌斜めなが、唇を上向かせ尖らせる。素っ裸で毛布に包まった彼女が、酸っぱそうな表情を俺に見せた。
「たまには、そういうのもあるだろ？」
苦笑しながら丸首の白シャツを頭から被った俺は、彼女にそう言い、ボクサーパンツを拾い上げ、素早く身に付ける。
「大石先輩がヘンな魔法をかけたせいですよ、きっと……」
パクパクと蜜柑を口へと運ぶが、面白くなさげに言うと、白い眼で俺を見た。
「へ、ヘンな魔法……？」
俺は小首を傾げ、毛布に包まる不機嫌な恋人と並ぶように床上へ腰を下ろす。
「私のコト、蜜柑と同じぐらい甘くしたでしょ？ だから、私には甘さが判らなくなったんですよ、絶対！」
片頬だけを膨らませたが、視線を送ってきた。
は恥ずかしさで耳を赤く染めれば、こうして白い眼で俺を見る。多彩な彼女の感情にドキドキするものの、俺も負けてはいられない。彼女の引力に惑う事なく、俺はの耳元へと唇を寄せた。
「そうだったかな？ それじゃ、もう１度……調べようか？」
声を潜めて話した俺は、彼女へとそう尋ね、しっとりとする素肌に俺の指先を触れさせる。彼女の鎖骨に触れた後、そのまま胸元を隠す毛布へと自分の手を潜らせた。
「ド、ドコ触ってるんですか〜！！」
身体を揺らし、が焦った声音で俺に抗議する。あっという間に、恥ずかしさで耳を赤く染めるが愛しい。を覗き込んだ俺は、彼女へ話し掛けた。
「ん？ ……お前、ドキドキしてるぞ？」
小さな子供が悪戯を楽しむ顔でを見る俺に、彼女は顰め面をして見せる。
「もう充分調べたでしょ！ 大石先輩のエッチ！！」
悪戯小僧になった俺を窘めるように、が手にする蜜柑の皮を俺の顔面へと素早く向け、細い指先が蜜柑の皮を潰した。俺は、から蜜柑の皮汁攻撃を受けた。自分の目に蜜柑汁が飛び込み、皮汁が目に沁みた格好悪い俺の隣で、花のように笑うが居た。
こんな手痛いからの仕返しを食らっても笑える俺は、何て幸せなヤツなんだろう。俺ばかりが彼女に惹かれ続ける引力も、深い恋に誘うように働く重力が俺を堕とし続けるのも、抗わず、素直に認めよう。いつでも君に負けてしまう俺を、矛盾を感じず、素直に愛してしまおう。
俺の世界が、今までどおり、彼女中心に回り続ける事も――。
君の世界で、知らずのうちに、俺中心で回り出す事も――。
――どれも、１つの運命。
愛しさで温まる腕で、どんな君でも抱き寄せよう。
愛しさを奏でる指先で、こんな俺を抱き締めて。
君の引力を感じながら、俺らしく……。
あるがままの、心と身体で――。
ずっと……君の傍に、いたい。
これが君を想う、俺の『惚れた、弱味』。
【END】