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”これだから、男の人って――”と、そんな風に怒らないで
”どうして、男の人って――”と、そんな風に苛めないで
君以外のことなんて、考えたりしてないよ。
”なんで、男の人は――”と、そんな風に嫌わないで
”まったく、男の人は――”と、そんな風に諦めないで
君以外のことなんて、想ったりなんてしてないよ。
どうして、解ってくれないんだい？
なんで、気付いてくれないんだい？
――何処に居たって、何時だって、君のことしか……。
「母さーん、ただいまー」
玄関先で帰宅の挨拶を告げた俺は、靴を脱ぎ、片側へと行儀良く揃える。そこには、見慣れた女性用スニーカーが１足――。白色の生地にオレンジ色のラインが入ったもので、それを履く人物を俺は知っていた。
「おかえりー。お兄ちゃん、ちゃんが来てるわよー？」
廊下の突き当たりにある扉の向こう側から――そう、台所に居るだろう母親が、”彼女”の来訪を伝える。
「え？ そうなんだ」
廊下を突き当たって扉を開けると、俺の目の前に母親が居た。
「そうよー。さっきまでは、お母さんがちゃんとおしゃべりしてたのよー？」
楽しげに話す母親が俺に背を向け、食器棚から俺のマグカップを取り出す。
「母さん、何か変なことを吹き込んでないだろうなー？」
俺は目の前に居る母親へ、少し疑いの眼差しを向ける。
「やだー、してないわよ？ ……はい。これ、ちゃんとお兄ちゃんの分。ネ？」
そう話した母がニッコリと笑い、俺の手へと洋菓子と飲み物が乗ったトレーを手渡した。
「それなら、良いんだけどさ……」
少しホッとし、胸を撫で下ろす。
俺の生真面目さは父親譲り。そして、たまに見せ、皆を驚かせる悪戯好きの面は、この母親から譲り受けたものだ。疑って掛かるぐらいで丁度良い。むしろ、何か話していても不思議じゃないし、な。
母親から手渡されたトレーを両手で持った俺が、そのまま台所を立ち去ろうとすると、声をかけられる。
「あ、お兄ちゃん。お母さん、今からお友達と出掛けてくるけど、夕飯は作るから、ちゃんも一緒にどうかしら？」
忙しなく動く母親の背へと、俺は「良いと思うよ」と、それだけを告げ、台所を離れた。
台所から繋がる廊下を渡り、階段を上がり切った俺は、左手にある部屋のドアノブへ、手を掛ける。
ガチャリ、と音を響かせて扉を開けると、見慣れた自室の真ん中に、面白くなさそうな顔をした―俺の彼女が、テレビのリモコンを片手に、膝を抱えて座っていた。
「やぁ、いらっしゃい」
不機嫌そうなの表情にも動じず、俺はいつもの笑顔をへと見せた。そう、皆が口を揃えて言う、あの”爽やか”な笑顔を、だ。俺は手にしていたトレーを、小さめのテーブルへと下ろすために、床へと膝を着いた。食器達が、カチャン、と音を奏でる。
「……お邪魔、してますぅ〜」
不機嫌そうな声音を出したが、俺へとそう話す。いつもなら、”持て成しのおやつ”に喜んで飛びつくというのに、今日はどうしたことか、好物の洋菓子の１つである”エクレア”ですら、彼女に無視されていた。
「何だよ、可笑しな奴だなぁ〜？」
とは対照的な顔で、俺は上機嫌の声音を出し、俺の正面に居るへ触れようと、手を伸ばす。ところが―――。
「……触らないでくださいっ！」
ピシャリ、と軽く乾いた音が部屋に響く。彼女へと伸ばした俺の手を、が軽く打ったのだ。
「ど、どうしたんだ？ ……叩くことないじゃないか！」
軽く叩かれた手の甲を反対の手で撫でながら、俺は驚きの顔をしてを見た。
「………………」
の視線は、俺の顔へと注がれている。その眼差しは、”白い眼”と譬えれるようなものだった。
「どうして、は……その……ご機嫌斜め、なんだい？」
少し眉間を寄せた俺は、弱った顔をして膝を抱える不機嫌なを見た。終始、沈黙。俺の呼びかけには答えず、膝を抱えたままの姿勢で、俺の背後にあるテレビへ視線を向けていた。
―――テレビ……？
そこで、俺は気付いた。
の手の中には、リモコンが握られている。しかし、先ほどから俺の部屋には、テレビから聞こえるはずの音が一切なかった。の視線を追って、何気なく振り向く。
「――ああぁぁあぁ〜〜〜っ？！！」
素っ頓狂な声を出したのは、もちろんなどではなく――俺のものだ。
テレビ画面に映し出された映像は、テレビの持ち主からは想像し難いものだった。淫猥な姿をした男女が繋がりあった格好をし、獣のように本能剥き出しで、悦びを求め合っている。驚愕の顔付きをする俺の視線は、画面へと釘付けになり、身動ぎ１つせず、その場で固まっていた。
――な、何でだよっ？！
どうして、アレがＤＶＤプレーヤーに残ってるんだぁ〜っ？！！
思考だけフル稼働させる俺は、己の置かれた状況を素早く判断しようと、テレビに備え付けられたＤＶＤプレーヤーの中身がそこに在る経緯の推測を始めた。
確か、昨日の夕食が終わった頃――。
英二が『”良いモノ”を持ってきた』と言って、ちょっと遊びに来たんだ。
アイツ――英二は、俺の部屋に入るなり、テレビの電源を入れた途端に、音量を消す。それと同時進行で、ＤＶＤプレーヤーを起動していた。”何を観るんだい？”と横から覗き込んで訊く俺に、英二は”ニシッ”と笑った。
英二がパッケージから素早く抜き取ったＤＶＤをプレーヤーへと突っ込むと、画面にはセーラー服を着た女性が、男性に襲われ、胸元を剥かれそうになっている映像が映し出された。――世間一般では、”アダルト映像”と呼ばれるもの、だ。
英二が『たまには、良いっしょ？ 兄貴が居ると、ゆっくり観れないんだよな〜』と、ボヤキながら、真剣な眼差しで画面を観ていた。そんな英二の横顔を呆れた顔で見た俺も、その後は―――。
そこまで回想し、ハッとした。
――アノＤＶＤを観た後、俺は……英二に持たして帰ったはずだよな？
いや、その前に――少なくとも、パッケージにＤＶＤを仕舞ったはずだよな？
それじゃ、何で？！ ……どうして、がアノＤＶＤを、こうして観てるんだ？！
慌しい脳内で、そこまで考えを纏めた俺は、忘れていた存在を思い出した。
――……？
そうだ、……っ！
をすっかり忘れてたけど……こりゃ、たいへん〜〜！！
固まりきった身体の首から上を、不自然なほどの硬い動きで振り返る。真剣な、というよりは、明らかに怒った瞳で、少し高い位置にある俺の顔を見ていた。
「あ、あの……な？」
何をどう言えば良いのか、と思案する俺の顔から視線を外すと、テレビ画面へと目を向けた。が、手にしているリモコンをピピッと素早く押す。
「――あっ、ああ……っ！ ――やあぁ、あっ……あっ、あぁん……！」
少し小さめの音量とはいえ、俺の室内で充分聞き取れる音量で、淫らな声音を漏らす女の声が響いた。
「か、勘弁してくれ〜〜〜っ！！！」
電化製品達に慌てて飛び付いた俺は、ＤＶＤの電源を切ると同時に、テレビの主電源を落とした。はぁ〜っ、と大きな息を吐き、あからさまにガックリと項垂れた。
「大石先輩……。”こんなの”スキ……なんですね」
無感動に話したの声が、俺の背後から聞こえてきた。
「え？！ あ……いやっ！ その……」
気も落ち着かないうちに彼女から話しかけられ、明らか狼狽する俺は、彼女を前に口を開くも、しどろもどろな状態だった。面白くなさそうな顔のまま、は手にしていたリモコンを床上へと置いた。
「大石先輩”も”、スキなんですよねっ？！ ……”コレ”、が！！」
リモコンを手放したその手で、は背後に隠していた入れ物をサッと俺の目の前に出すと、そのパッケージを間近にある俺の顔へと、ムギュリと押し付ける。
「あ、いや……！ その、好き――というか……」
自分の顔に押し付けられたアダルトＤＶＤのパッケージを避けながら、の手にあるパッケージを取り上げ、テーブルの下へと、とりあえず隠した。相変わらず、可愛い顔を歪ませたままで居る俺の恋人は、ツン！と尖らせた口を開く。
「別にスキでも良いですけど！ 先輩は”男のヒト”だし！」
ピクッと片眉を上げたが、ジロリと俺を睨んだ。
「あ〜……その、面目ない……ご、ごめん……」
彼女より大きな身体の背を丸め、俺は申し訳ない表情をし、恐る恐る上目遣いでの顔を覗いた。
「……ご丁寧に、電源はタイマーセットされてましたよ！」
俺の目の前を通り過ぎたが、ベッドへと場所を移して腰掛けた。
「まさか？！ それ観たの、昨日だし！」
が俺の目の前を通り過ぎる際に言った言葉に、驚きの声を上げ、彼女を見た。俺の言葉に、今までに見た事が無いぐらいの冷たさを見せるの顔があった。
「もう１回、直ぐに観れるようにセットしたんじゃないんですかぁ？」
しら〜っとした表情でが話す。
１度目は確かに観たが、俺は２度も観ようという気は無かった。それなのに、”それを観ようとした”嫌疑にかけられ、俺は軽く反論する。
「そ、そんな訳ない！ 第一、俺、今朝早くから講習に行ったんだぞ？！」
一気に捲し立てた俺だが、それを話し終えたところで、不意に、英二との昨日の遣り取りを思い出した。
――そいういえば……。
アダルトＤＶＤが始まり、４０分過ぎた頃、「もう見飽きたよ、英二」と俺は言った。英二は、『後少し、待ってくれても良いじゃん！』と口を尖らせ、俺の顔を見た。その時点で、俺達は、そのアダルトＤＶＤに飽きた証明ができる。画面から視線を外せるということは、すなわち、”集中してのめり込めなかった”ということだから――。
「それ片付けろよ、英二。飲み物、取ってくる」と俺は言い、英二の背を軽く肘で突いた。『わかった〜』とつまらなさそうに英二が答えていた。部屋を出て、戻ってきた頃には、すっかりと片付いてたから、てっきり持ち帰ったと俺は思ったんだ。
あの後の俺は、英二が帰った時間も遅かったし、翌朝は早い予定だったから、ネットをするものの、テレビを点けることは無かった。今朝も起きてから、直ぐ下へ行ったし……。
――確認を怠ったのが、失敗かっ！
しかも、何でセットして置いて帰る、英二！
俺はその後の自分の行動を振り返り、またもやガックリと項垂れた。この場の冷えた空気をどうしてくれようか、と責めたい相手は、既に居ない。
――英二、この状況をどうしてくれるんだ？！
あぁ、俺は何で確認しなかった！
床に膝を着いた姿勢のままで、俺は片手で額を押さえた。どう後悔しようと、今漂う気まずい雰囲気を好転させる材料は無い。自分の横に置かれるテーブルへと、視線を移した。俺の脇にあるテーブルの上では、俺が使うマグカップと我が家での専用のマグカップから各々湯気を上げている。それらは、２つのマグカップの位置から上へと上がりったところで、仲良く交わっていた。
再度、視線をへと移してみると、彼女はベッド上へと乗り、２つの置き時計と、不機嫌さ全開で、睨めっこしている。そんな彼女と向き合う２つの置き時計は、冷静に時を刻み続けていた。
心の中で、俺は呟く。
――あぁ、解ってるよ……。
青学テニス部内において、仮に、”アダルトＤＶＤを１つだけしか、持ってない”としても、恋人に激怒されるキャラは、俺ぐらいだろう。
それぐらい、俺は――エロいキャラとして、１番縁遠い人物だってことぐらい、な。
「はあぁぁ〜〜……」
エロさ番付の己の位置づけを決めたところで、俺は盛大に溜息を吐いた。
――ガタガタ、ガタ。
……ガコン！ ガサガサ、ボスン！
やけに,派手な音が、俺の耳を刺激した。
「…………？」
物が落ちるような音に、俺は顔を上げ、音のした方へと目を遣る。怒りに満ちるの表情が見えた。その彼女の視線の先に見えるのは―――俺の部屋の、”ゴミ箱”だった。
俺は、凄く嫌な予感がした。
から視線を外し、その周辺を見る。宮付きベッドに付いている棚の引き出しが、少し開いているのが、俺の目に留まった。
腰を浮かした俺は、ベッド上に座ると、２つの置き時計の間を割くように、引き出しへ右手を伸ばす。カタン、と音を鳴らして引き出しを開け、俺はそこへと右手の先を入れた。俺の指先は、スカスカと空を掻き、中身が空っぽだと教える。
――ちょ、ちょっと待て！
セーフティー・テリトリーに、何故、アレが無いんだ？！
右手を引き出しから引き抜き、今度は確認するように引き出しの中を覗く。やはりその空間は――空っぽ、だった。
「なっ？！！ お、お前……っ！！」
その事実を知った俺は、珍しいほどに怒りに任せてを睨んだ。
「………………」
悪びれる様子も無いは、俺の目の前で事もあろうか、そっぽ向くと、ツン！と鼻先を上向かせる。
――コ、コイツ……ッ！！！
頭に血が昇る俺は、へにじり寄って説教したいぐらいだったが、慌ててベッド上から、身体を床上へと戻し、ベッド横へ据付けてあるゴミ箱へと手を伸ばした。ゴミ袋のかかったゴミ箱を掴んだ俺は、体の脇に寄せ、中を覗き込む。覗き込んだそこに、セーフティー・グッズと呼ばれる避妊具の１つ、コンドームが箱ごとの状態でキレイに放り込まれていた。それはあたかも、”大石先輩となんて、２度と、シテやるもんかーっ！！”という心意気を主張するようなものだった。
恥も外聞も無い。俺は勢い良く片腕をゴミ箱へと突っ込み、愛用のセーフティー･アイテムを取り出す。
――そもそも、コレが無ければ……コトに及んで、大いに困るのは、お前だろう？
自分の手元に戻った避妊具の箱を見詰め、俺はホッと安堵の溜息を零す。”不幸中の幸い”なことに、ゴミ箱の中は空だった。付いてもいない埃を払うかのように、手の中の箱の表面を、ポンポンと軽く触る。
男というものは、”避妊具のゴムがあるよりも、無いほうが良い！”と断言出来てしまう生き物だ。だけど、何も纏わない状態は大きな魅力であると共に、そのリスクも非常に高い。避妊具というものは、妙齢の男女には、シルバーリングよりも大切なアイテムと言えるだろう。
――お前の身を守る避妊具を、こうして粗末に扱うもんじゃないだろ！ まったく！
避妊具を、使用する。
それを忘れてしまう事は、”とても容易な事”。
それを忘れない事こそが、”相手を想う事”、だ。
大人な恋愛に課せられる己の責任の重さを、重々理解する俺は、セーフティー・アイテムの箱を静かに撫でる。
――だけど、途中で見飽きるアダルトＤＶＤを、１度観たのがバレて、こんな報いを受けないといけないのか……？
浮気の”う”の字も知らないような、この”俺”が……？
少し理不尽な気もしないではない俺だが、ゴミ箱から拾い上げた避妊具の箱を、元の場所、セーフティー・テリトリー(と俺が名付ける宮付きベッドの引き出し)へと戻そうと腰を再び上げた。
「……もう使わないのに、拾っちゃうんですねぇ〜！」
「フン！」と鼻を鳴らし、が言った。
「……っ！」
刺々しい言葉に、返す言葉も出ない俺は、顔を顰める。
――か、可愛げが無いぞ！！
俺のこめかみあたりが、ピクリ、と動く。堪えるんだ、と言い聞かせたいところだが、俺はそこまで大人になれなかった。
「あぁ、そうだな！ ……”２度と使わない”からなっ！！」
噛み付く勢いでに向いて早口で話し、視線を手元に移して、コンドームの箱を引き出しの中へと勢い良く戻すと、カタン、と荒い音を立てて引き出しを閉めた。そして、へとチラリと視線を移すと、今度はが顔を思いっきり顰めている。
「……っ！」
俺の言葉に、悔しそうに奥歯を噛み締めているようだ。それも、ギリッと音が立ちそうな程に―――。避妊具を仕舞い終えた俺は、その場の床上へと腰を下ろす。
――数少ない休息時間を、無駄にしているな……。
そう思った俺は、の動向を気配で探る。どうやら、はベッドの上へと座ったままだ。多分、俺が愛用する置き時計達と”睨めっこの続き”をしていることだろう。
――初めての頃は、良かったなぁ……。
昔から然程変わり映えしない室内を一通り眺め、テーブルに乗せた洋菓子へと目を留めた俺は、ボンヤリと懐古趣味に走る。
――抱き締めれば赤くなり、頬に触れれば俯いて……。
当時の、少しあどけない表情のが、戸惑いの色を見せる。その度に、それが可愛くて、嬉しくて、どこか楽しんでいる自分が居たのを思い出す。
――唇を寄せれば……。
俯いたまま、少し上目遣いをすると、恥ずかしそうに瞼を閉じ―――。
どこか、妙にリアルで、生々しい過去のに、ドキリ……！と胸が跳ねる。
ささやかな、昔の幸福な時間に、俺は身を捧げようとしていた。
「この……っ、エロ、おやじぃ〜〜〜っ！！」
―――バフン！！
えげつない罵倒の声と共に、何かが、俺の頭頂部より高い位置からやってきた。
「？！！！」
奇襲にも似た攻撃を受け、俺は驚愕する。それは、言葉も出ない程だった。頭を叩かれた勢いに負け、俺の身体は、やや前傾姿勢となっている。甘くも、幸せな時間を打ち砕かれた俺は、ささやかな幸福を打ち崩した小悪魔へ勢い良く振り返る。
「お、お前……っ！ 俺を何だと思ってるんだ？！」
叩かれた箇所を押さえ、俺はベッド上を見上げる。そこに立つの姿に、俺はあんぐりと口を開けた。ベッド上で仁王立ちするが、両手に持っているのは、俺の”枕”だった。
――助かった、スポンジと綿の枕で。
そば殻だったら、絶対口から泡吹いたぞ！
「エロ……じゃなくて、スケベ！」
ムッ、とした表情のが、過去最高と言える程に唇を尖らせる。
「なっ！！？」
枕の種類に感謝する俺は、彼女の言葉で我に返った。
――そんなの、どっちも変わらないだろ……ッ！！
自分への呼称に軽くツッコミを入れた俺は、の抱き締める俺の枕が、無残な形で保たれるのが見えると、妙に感情が落ち着いてきた。もちろん、頭を叩かれ、現実に引き戻されたことも、一因ではあるが――。
「……スケベだから、エッチなＤＶＤ観るんでしょ！ エッチなコトするんでしょ？！」
怒り続行中のが、ギュ、と音が鳴りそうなほどに俺の枕を抱き締め、不機嫌な声音で話す。
「…………そう言われてもな」
俺には答えようが無い。
――『スケベ』と呼ばれるのは、聊か気に入らないけど……。
生物学的上、”種の保存”の視点から見れば、”エッチしたい”と思う欲求は雄の性。だた、俺は高等動物でありながら、理性を手にしている人間だ。誰これ構わず――と、いう訳じゃない。
――”したい”と思う相手が、決まってる……。
俺は先ほど叩かれた箇所を撫でながら、どう答えようかと考えていた。
「……エッチ、スキなんでしょ？」
今までの勢いを衰えさせて言うの声に、俺は彼女を見た。不機嫌ではあるが、しゅん、と萎れた顔で枕を抱えると、仁王立ち状態から、ベッド上へ座り込んだ。その姿が、何故だか悲しそうに見える。
「え？ ……何でそ―――」
”何でそんな事聞くんだ？”と問いかけようと思いながら、が座り込むベッド上へと、俺も腰を下ろした。ベッド上へと腰を下ろした俺へ、が凄い勢いで俺との間を詰めてきた。
「――エッチなコト、”スキ”なんでしょう？！」
萎れた態度は何処へやら、真剣に怒って剥かれる大きな瞳が間近に見える距離だと言うのに、大音量の声でが怒鳴った。
――そ、そんな大声出さなくても、聞こえてるよ！
……しかも何度も、”エッチ”って。
これで下に母と妹が居たら、間違いなく戸の外側で聞き耳を立てられていると思うと、背筋に悪寒が走る。幸いにも、２人とも今は外出中だが――。
「あー……まぁ、その……なんだな……」
どう言おうかと考えながら口を開く俺へと、更に、が俺へとにじり寄る。
「”ス･キ”、ですよねぇ〜？」
ニッコリともしない大きな眼が、俺の姿を捉える。何と言う念の押し方だろうか、彼女の腕の中には、悲鳴を上げる程に絞られた俺の枕がいた。
――俺の答え次第では、また……アレを食らうんだろうか？
自分の背中に、ヒヤリとするものが伝う気がした。
――アダルトＤＶＤは、見つかってる。今更、建前を言っても無駄だぞ……。
答えない俺に焦れ、彼女がにじり寄ってくる。
「……ぁ、はい。……強いて言うなら、好き、なんだと思う。……たぶん」
ベッド脇に腰掛けれる部分を気にしながら、俺はのにじり寄りに耐えつつ、後退する。その姿は、肩身の狭い窓際リーマンさながら、俺はベッド端へ容易く追われた。
今にも落ちそうなベッド端に腰掛ける俺の前で、急に勢い良くが立ち上がる。”来るぞ！”、と思った俺は、素早く迎撃体勢を整えた。タン！という足音が聞こえたかと思うと、身構えた俺の腕の隙間から、テーブル下に隠したはずの、英二が持ってきたアダルトＤＶＤのパッケージが見えた。
「――”コレ”、どうぞ！」
そう話す刺々しさは変わらずのだが、打撃されないと判り、俺は腕を下ろした。
「……あ、あぁ」
目の前に差し出されたパッケージへと、俺は安堵の息を吐きながら手を伸ばす。ところが、そのパッケージは俺の手が届く寸前で、指先を掠めた。
「”コレ”があったら、大石先輩のエッチは充分でしょ！」
の続行し続ける怒りは、とうとう、アダルトＤＶＤのパッケージを、俺の横顔に押し付けるまでの暴挙に至っていた。
「な、なんだってぇーーーーーーっ？！！」
あまりにも酷い恋人の言葉に、俺は目を剥くと、”誠実”、”爽やか”、そんな言葉の欠片も見つけられないような声を上げた。パッケージを両手で掴んだ俺は、頬に押し付けられるソレを無理矢理引き剥がす。
「良かったですね！ ”ソレ”なら他のを選んでも、ブーブー言われなくて済むでしょ！」
俺の目の前で床上に立って話すは、やはり、その細腕に俺の枕を抱えている。話すだけ話したら、はツン！と、また横を向く。
「そ、そういう問題じゃ、な、ないだろう？！！」
の言葉に、俺は英二が置き去りにしたアダルトＤＶＤのパッケージを、今度は学習机の上に慌ててポイッと置いた。人の物を大切に扱う余裕が無いほど、それは大問題な発言だった。大袈裟に言えば、”《恋人の務め》を放棄する！”と、宣言しているようなものだ。
――したいだけなら、アダルト商品を片っ端から、しこたま買い込んでくるさ！！
でも……っ！
……そうじゃない。
ブーブー言われても、”したい”と思う相手が、目の前に居るのだから―――。
横を向いたの顔を見詰めたが、頑なな横顔が俺へと向くことは無い。俺は目の前の彼女を避け、テレビの前へと腰を下ろし、ＤＶＤプレーヤーの電源を入れ、起動させる。喧嘩の大元凶となった、アダルトＤＶＤを英二に返せる形にしておこうと思った。
「どうせするなら……見た目が良いに超したことないでしょ…」
ＤＶＤを取り出し終えた俺の背から、不機嫌な声が聞こえてきた。俺は、ＤＶＤプレーヤーの電源をオフにするために、ボタンへと指先を伸ばす。
――何なんだ……。
アダルトＤＶＤ１枚の存在は、そんな大袈裟な問題なのか……？
もともとは、俺の迂闊さにも原因の一端はある。そうは思っても、口喧嘩の遣り取りに、少々うんざりとし始めていた俺は、深いため息交じりで、適当に答えてしまう。
「…………あぁ、まぁな」
案の定、簡単に答えてから、”しまった！”と思った。ハッとし、俺は頭を上げた。頭を上げた俺の目の高さは、テレビの画面が見える位置にあった。黒いブラウン管のそこに、薄く映る俺の恋人の項垂れる背が小さく見える。その立ち姿は、何だか可哀想なぐらい、淋しそうだった。
「……だって、しょうがないじゃないですか」
少し間をあけたがそう言い、項垂れたまま、ユラﾘと揺れるように振り返った。その声音は、怖いぐらいに静かだった。
ＤＶＤを片手に持つ俺は、床へ膝を着いたまま、振り返った。その途端、がずっと抱き締めていた俺の枕が、彼女の足元へとボトリ、と落ちる。無残にも、俺の枕は、原型からは想像もつかない多少の歪みを伴っていた。
「牛乳も、リョーマ君と争うように飲んだ！ お風呂でマッサージだってした！」
依然俯いたの顔は、長い髪で覆われ見えなかったが、俺への怒りは見えない。ただ、歯痒いほどの苦しさを滲ませた彼女の声音に、俺は驚いた。
「ヒップアップ運動だって寝る前にした！ バストアップ体操だって頑張った！」
思い通りにならなかった悔しさを含んだ彼女の声音が、大きく震える。
「……それでも、私……こんなの、なんだもん……」
誰を責めるでもないの声は、彼女が彼女自身を責める声だった。
俺から見れば、可も無く不可も無い。可愛い彼女の、ただ１つの身体なのに――。
「…………」
掛ける言葉が無かった。
まさか、が陰でそんな努力をした事があるなど、俺は思いもしなかったから。
――女の子が”ＡＶモノ”を嫌うのは、きっと……”比べられる”と思うからかな……。
手の中にある薄い１枚のＤＶＤを見詰めた俺は、パッケージに仕舞おうと思い、床に着いた膝を、そこから離した。
俺がの脇を通り抜けても、彼女はそこから１歩も動かない。長い髪が彼女の表情を隠したままでいた。学習机の上に置いたパッケージを開き、素早くＤＶＤを入れた。その辺りに置いていた要らない紙袋へと、それを突っ込み、明日持参する荷物の中へと纏めた。振り向いて見たは、ただ沈黙を守っていた。俺が見るいじらしい彼女の背は、ほっそりとしたラインを保つ。
「……物足りないから、観たいんでしょ？ ……今まで、こんなの置いてなかったもん」
ポツリ、と話した彼女の声は、散々怒った時の勢いの欠片も無いほどに、弱々しいものだった。の言葉通り、俺の自室には、アダルト商品に関するものは、何１つ無い。今時、青少年の部屋としては、非常に珍しいだろう。でも、俺にとっては、それぐらい必要無いものだった。まぁ、たまに英二や桃が来ては、アダルト鑑賞会をされることはあるが――。今回のアダルトＤＶＤのような置き去り事件は、本来なら在り得ない類の事柄だ。
――もし、物足りないのなら、言い寄る女の子と、とっくに関係を持ってるさ。
こう言っては何だが、少なくとも、全くモテない男という訳ではないのだから……。
それなのに、そういう事を一切しないのは―――。
「俺は……物足りなくて観たんじゃないし、他の女の子の裸を見たい訳でも無い」
俯いたの細い肩のラインを眺め、落ち着いた声で話した。
「じゃあ、何で観るんですか？ 物足りなくないなら観ること、ない……じゃん……」
そう話した華奢な彼女の肩が震える。俺が何度も抱き締め、温めたその背に掛かる長い髪先までをも揺らした。
「……ブーブー言われても、”したい”と思う相手が……俺には、もう決まってる」
言おうか、言うまいか、まだ迷いのある俺は、の背から視線を外し、俯いた。少なくとも、彼女の背ですら、見ながらサラリと話せるような、俺じゃない。
「……”したい”んですか？」
不思議そうな声音を出したの足先が、俺の方へと向きを変える音をさせた。その動きの音を聞き終えた俺が顔を上げると、静かに泣いたのだろう、赤くなった鼻先の彼女の顔が、そこにあった。
「――”したい”って……答えたら、可笑しいか？」
彼女の問いに、俺は問い返した。今まで散々横を向いていたが、濡れた双眸で、まじまじと俺を見詰めてくる。大きな瞳を濡らした原因が俺自身だと思うと、胸が痛い。何だか居た堪れず、その視線から逃れるように、今度は俺が明後日の方を見た。
「……大石先輩……”２度と使わない”って言いましたよ？」
赤い鼻先の彼女が告げる声に、俺は目の前の恋人を見下ろした。すると、俺のセーフティー・テリトリーを指差す真顔のが目に映った。
――何だ……。
俺が”したい”相手、ちゃんと解ってるじゃないか……。
それにしても、今回は意外と根に持つんだな、と思うと、俺は少し可笑しかった。
「あぁ、そうだな。…………他の女の子とは、な」
正面に居るを見て言うと、怒って顰め面しか見せなかった彼女の顔が驚きに満ちる。
「アダルトＤＶＤだって、その、観賞じゃなく……”悦ばせたい”から、観るだけで……」
を見ていたはずの俺の顔が、言葉を続けるうちに、徐々に下を向く。
――俺に、女性の身体がどんなものかを、初めて教えてくれた子は、で……。
それ以外の、女性の身体なんてものを、俺は何１つ知らなくて―――。
だから、の持つ”女性の身体”の”悦び”が、全く理解出来なくて――。
それを知り得る事が出来るものは、こっそりでも観たいし、読みたいし……。
出来るだけ内緒にして、頑張って、それで――”悦ばせたい”んだよ。
の”女性の身体”に直接訊くように触れ、”悦び”を探して見つけたいんだ。
俺と肌を重ねる事に勇気を出し、許してくれた”大切な女の子”だから……。
「だから……ブラウン管の中に映る女なんて、本当はどうでも良いんだ」
話し終えた俺が顔を上げると、赤い鼻先が見え、俺は目を剥いた。
「――でも、シッカリ観ましたよね？」
訝しげな表情をするの視線は、容赦無いほどに冷たい。俺に尋ねる声さえ、若干毒を含んで聞こえた。
「あー……まぁ、その……”参考程度に”、だ」
厳しい詰問のような眼差しを受ける俺は、怯みながらも、そう答えた。しかし、俺のあやふやな答えで、可愛い彼女が赦してくれる訳は無く――。
「何のためですかっ？！」
語調を強めたがそう言い、更に赤い鼻先を俺へと詰め寄せてきた。
「もう、良いだろう！」
そう言ってを避け、テーブル前に座ろうとした俺の背へと、が引っ付く。振り向いた自分の肩越しには、パンパンに頬を膨らませる彼女の顔が見える。
「全然、良くないですっ！！」
カンカンに怒ってるのが良く判る顔をしているが、早口でそう言った。良く考えれば、怒って当然なのだ。には、”男が性欲を満たすアイテム以外、他に使い道が無い”と思えるのだから……。俺は、腹を立てているから視線を外す。
――アレを観て、１人でするのは好きじゃない。その……味気なさ過ぎるから。
もし、自分が今でも”女性の身体”を知らなければ、アレでも興奮するだろう。
でも―――。
もう……知ってしまった。
抱きたいほどに、愛しい身体が――傍に在る。
冷たいブラウン管の中で、異様な喘ぎを漏らす女より、温かく、柔らかい、漏れる声を我慢する可愛い女を――俺は、知っている。
どんなものを観ても、作り物は”見飽きる”んだ。
どんなに精巧に作られた偽物でも、やっぱり”本物”には敵わないんだよ。
「何を観ても、お前のこと考えるんだから……結局、観てる意味無いよな……」
ポツリ、ポツリと独り言にも似た声で、俺は話した。
「え……？ な、何ですか？！」
が焦ったように言い、彼女は耳に片手をあてて、俺へと身体を近づける。どうやら、俺の呟きは彼女の耳までは届かなかったらしい。”無防備にも程がある”と言えるほど、可愛らしい仕草で俺の声を拾おうとするを、俺は彼女の腕を素早く引き、抱き寄せた。
少し潤みが残る大きな瞳を見開くと、が瞬きをする。近い距離は、彼女の未だ乾かない長い睫毛までハッキリと見て取れた。俺は、その目を隠すように片手で塞ぎ、少し開く彼女の唇へと、自分のものを押し当てる。彼女が感覚で探るように自分の唇を求めて触れるのを少しだけ楽しみ、そっと離した。
「……こういうコト、だよ」
俺は泣かせてしまった恋人に、とっても大雑把な要約で結論を伝える。
「…………？」
突然の口付けを受けたは、俺の腕の中で、恥ずかしそうに唇へ手を当てると、きょとんとして小首を傾げた。そんなを見ながら俺は少し腰を浮かし、腕の中の恋人を抱え上げて傍にあるベッドの上へと、２人して乗っかる。だが、少しバランスを崩した俺は、先に下ろしたへと覆い被さる格好になると、グッと近付き過ぎた距離に、気恥ずかしさを感じつつも、彼女に触れたくなった。
少し乱れた前髪を整えるように、彼女の額へと自分の右手を添えた。その動きを追っていた大きな目に捉まる前に、彼女の頬へ唇を寄せる。
――抱いて、熱を感じたい……。
俺は、そう素直に思った。
何度も柔らかな頬や耳へと触れさせた己の唇で、彼女を誘うように囁く。
「……しても――いや、やっぱり……何でもない」
誘いの言葉を途中まで口にした俺だか、理性の働きにより、現実に引き戻される。可愛い恋人から受けたの仕打ちの数々が、脳裏に蘇ってきたからだ。
――多少なりとはいえ、俺だって怒ってたんだ。
……良く考えれば、痛い思いもしたし！
それから、アレだ！
……”エロおやじ”発言も！
うやむやにして、事に及ぶのは面白くない――と、俺は考え、へと注いだ熱を冷ますように、身体を彼女から離し、彼女の顔をチラリと見た。
「は、エッチが好きじゃないんだろう？」
俺はすこぶる真面目に話し、彼女へとニッコリと微笑む。
「――はいっ？！」
甘い口付けを何度か受け、ちょっとほろ酔い顔のように、ぽやんとしていたの目が完全に開き切ると、素っ頓狂な声を出す。
「の目から見る俺は、”エロおやじ”なんだろう？」
悲しいな、って表情を少し滲ませた顔をして言い、俺はの様子を探るような視線を送る。は上体をガバッと勢いつけて起こし、ベッド上へと座ると、俺を見下ろす。
「”好きな子が嫌がるエッチを強いる男”と、思われるのは……心外だよ」
俺はベッド上に片肘を付き、の方へと身体を向けて横臥した。目だけをへと向ける。俺を見下ろす大きな瞳と視線を合わせた俺は、文字通り”ニッコリ”と笑って見せた。
「……お、大石先輩は……それでも……”良い”の？」
は俺から視線を外すと俯き加減になって、両手の指先を遊ばせながら、少し唇を上向かせる。
「…………”良いよ”って、言ったら？」
長めの間を取ってから、俺はへと問い返した。もちろん、を見ている視線は、彼女から外さずにして――。
――俺だけ”したい”と感じるんじゃなく、２人で”したい”じゃなきゃ、意味が無い。
だから……此処で負け、退く訳にはいかないんだ。
――”絶対に”、な！！
能面を被るような気持ちで、俺は感情を隠した。
「………………」
何も語らないは、俺の表情から本音を探ろうとしていた。彼女からのきつい視線が、無遠慮に俺の顔へと突き刺さる。
「まぁ……の言うとおり、アダルト商品の手を借りれば、出来なくもな――」
しれっとした顔の俺が、そこまで言うと、の顔色が変わった。
「……先輩らしくないっ！」
一言そう言い放ったが、へそを曲げた。プイッ、と俺の方と反対側へと顔を背ける。
「……ッ！」
恋人のつれない言動に、俺は絶句する。
――コ、コイツ……！！
……あぁ、そうだ。お前が正しいよ、！
……お前の言うとおりだ！！ そこまでサカるようなキャラじゃないな！
……確かに、俺はな。
……でも、悔しいじゃないか！
俺ばかりが、したがってるみたいで！
……いや、実際はそう、なんだろうけど……さ。
たまには、からも――求められたいじゃないか……。
こんな喧嘩の後なら、尚更――。
他所を向いていたの目が、俺へとチラリと動く。彼女の言葉に、ちょっとムッとした表情をして見せた俺の顔を見たが、途端に困ったような顔をして、下を向いた。
「……あの、ね。大石先輩……と、なら……」
俯いたが右手を口元に添え、ポツリと話し出す。彼女の様子を、俺は黙って見ていた。
「わ、私……エッチも……嫌じゃ、ない……です」
そう言ったは、落ち着かない様子で目を何度も泳がせ、その度にチラチラと俺の表情を窺う。彼女の柔らかな頬が、見る見るうちに朱に染まっていく。そんなの横顔を見ていた俺まで、頬が熱くなった。
――反則、だ……。
すぐさま、俺はそう思った。
少しムッとして見せるだけで、俺の欲しい答えを、いとも容易く返してくる。そんな彼女は、なんて可愛いのだろうか。悪戯を仕掛けて困らせた俺のことを、はちっとも疑ってなどいない。
「そ、そうか……」
思い通り以上の答えに、どう反応を返せば良いのか、俺のほうが逆に困った。横臥してを見上げていた俺は、１度、伏せの体勢へと身体の向きを変える。落ち着かない俺の鼓動は、バクバクと忙しない音を体中へと響かせている。目の前に見える部屋の壁を見詰め、俺は大きく息を吐き、心を落ち着かせようと試みた。
「あ、あの！ 本当は、その……先輩とのエッチ、スキですよ！ ……だからっ！」
慌てた声を上げ、はそう話すと、彼女の身体が伏せた俺の背へ乗ってくる。彼女は、きっと俺が不機嫌で顔を逸らしたと思ったのだろう。
「お願いですから……どこか、向いちゃったり……しないで……」
消え入りそうなほどの声音で、が俺の耳元で囁いた。落ち着かせようと考えていた俺の作戦は、無残にも失敗に終わる。落ち着くはずの鼓動は、のお陰で、ますます激しく鳴り出す一方だ。どんなに大きく深呼吸しても、激しい鼓動は治まりそうになかった。俺は、どうにもならない頬の熱さを隠すように、布団の上に顔を伏せる。
「……こっち、向いてください……」
懇願するように甘えたの声を出し、が言った。赤い顔を見られるのは恥ずかしいが、お願いを無視するもの悪い気がして、布団から顔を上げ、自分の右肩越しにを見遣る。
俺の動作に合わせ、が俺の両肩に手を乗せると、俺の右肩口から、顔を覗かせたかと思うと、そのまま唇を寄せてきた。
「……んっ！ んっ！」
チュッ、チュッ、と素早く繰り返し、小鳥が啄ばむような口付けを俺の唇に落とすと目が合う。俺の目に映る大きな瞳は、澄んだ色をしている。
――は、はは……っ。
何て可愛いことをするんだ……お前って奴は……。
から視線を外さずに、俺はそんなことを思った。
急に我に返ったような顔をしたが、俺の肩からパッと手を離すと、彼女はその手で口元を覆い、俺の背にあった身体を慌てて起こし、逃げようとする。
「ちょ、ちょっと待て！ 何で逃げるんだ、？！」
俺も伏せていた身体を起こし、自分に背を向けたを、背後から抱き止める。
「……ごめんなさい！ ……ごめんなさいっ！！」
俺の腕の中に捕まったは、逃げ場が無いことに観念した途端、謝り出した。
「な、何だよ？ ……そんなに謝って、どうしたんだよ？！」
俺が心配になるぐらい、申し訳なさそうな彼女の声音が、俺をオロオロとさせる。
「だって……大石先輩に、たくさん八つ当たりして、いっぱい意地悪なことを言った。それなのに、チュウしたりして……意味が解んないでしょう？」
話すの様子は、話を聞く俺よりも戸惑いの色が濃い。その彼女が俯くと、白い項が俺の目の前に晒された。
――のとった行動の意味なら、俺にだって……解る。
を抱えた腕を強め、自分と彼女の背の隙間を埋めて、ぴたりと２人の身体を添わせる。俯いたの項へと、俺は唇を寄せ、触れるか触れないかの寸前で止めた。柔らかく、温かい身体が、俺の腕の中で小さく身動ぐ。
「腹が立つのも、仲直りしたいのも、”好き”があるからだな。……違うかい？」
少し笑って言った俺の息がの項に掛かるようで、俺の話す最中は、くすぐったそうに首を竦めていた。どこか安心して無防備になる彼女のそこへと、軽く口付ける。
「……ふわぁっ！」
は驚きの声を上げ、俺の口付けた箇所を右手で押さえて、慌てて振り返る。彼女の目は、どこか恨めしそうに俺の顔を見詰めた。
「もうっ！ 大石先輩ってば――」
両頬をほんのりと染めたが、俺から目を逸らすと、プィッと横を向く。の小さく尖った唇が、言葉を漏らした。
「”エロおやじ”は、許してくれないか？ ……こう見えても、結構傷付いてるんだ」
彼女へとそう話した俺は、肩を竦め、苦笑いして見せる。は俺の様子に、小さく吹き出して笑っていた。
暫く、お互いに笑い合ってたが、その笑いが納まると、が少し俺に背を預けるように凭れ掛り、前を向く。その重みを腕や胸に感じながら、俺はの旋毛に片頬を触れさせていた。
「……その、大石先輩は……」
どこか遠慮がちに話しかけるの声が、聞こえてくる。
「……どうした？」
短く問い掛け、俺はの話の続きを聞こうとした。
「……ホントは、私とのエッチ、なんて――」
”つまらないでしょ？”、と言いたげな口調で話したが、俺の腕の中から抜け出そうと身体を捩る。
――”したい”相手は解ったのに、その理由を分ってないのか、は……。
好きだから、”したい”。
好きだから、ずっと触れ合いたい……。
その熱を、重みを、素肌で感じたい。
１番近い距離で、彼女と――。
身体の芯は、先程唇を触れ合わせてから、既に熱を持ち始めていた。好きな相手と身体を添わせ、傍に居て、何も感じない男などいないのだ。
「まだ、そんなこと言うのか？ ……本気で怒るぞ」
少し語尾を荒げた俺は、大きめの溜息を吐き出す。
「……で、でも……っ！」
身体をいくら捩っても、俺の腕から抜け出せないが弱ったような声を出した。
「は、”お前とじゃ、やりがいがない”って言わせたいのか？！」
――どうして、こんな酷い言葉を、俺に言わせるんだ！
お前は、全く……。
身動ぎするの身体を、少し強めに抱き締める。
「……っ！ やっぱり、そう思ってたんだぁ〜……っ、く！」
の身体の前で交差する俺の両腕を、彼女の両手が握り締めた。どこにも逃がさないように彼女を縛る鎖にも似た俺の両腕へと、が顔を押し付ける。見る見るうちに、俺の服の袖が湿り気を帯び、彼女の悲しみの粒を吸い上げた。
「……男は特別好きじゃない女の子を簡単に抱ける生き物なんだ。命を繋いでいくように、男の本能は……そういうことできる仕組みになってる」
小さく丸まる背が震える様を見下ろし、俺は淡々と話す。
「簡単に女の子を抱ける男であっても、やっぱり……好きな女の子を抱けるのが、１番嬉しいんだ。その……凄く、凄く、嬉しいものなんだぞ？」
泣く子をあやすように、少し身体を左右に揺らし、俺は話を続ける。
――男は、とても”単純”な生き物だ。……可笑しいぐらいに。
どんなに複雑そうに見えても、男の思考も、感情も、”簡単”に出来てる。
今だってそうだ。
好きな子に泣かれて、慰めるのに必死になるんだから……な。
「……ウソだぁ〜……そんなの……っ、く」
俺の言葉は、の心の扉をノックしても、なかなか心の内側へ入れてもらえないようで、疑う気持ちで話を聞いていたは、何度も首を左右に振り続ける。長い髪の隙間から、ほっそりとした白い首が覗く。
「とても綺麗な身体を持つ女の子が居ても、好きな子が欠点だらけと言う身体のほうが、魅力的に見えるし、触れたくて堪らない。男は”単純”に出来てる。……が思うより、な」
俺もと同じように背を丸め、彼女の白い首へと、頬を寄せた。それから少し、を抱き締めていた両腕を緩める。
「の気にする、この胸だって――」
そう言い、俺の両手をの膨らみへと添える。柔らかなそれは、掌の中にスッポリと納まる大きさだった。
「ゃ……！！」
慌てたは、俺の手首に手を掛け、一生懸命に胸元から離そうとし、俺の掌から逃れようと抗う。
「その……触ると気持ち良いし、それに何故か落ち着く。……心臓の音が掌に大きく響く度、嬉しくなる。だって、この胸には――」
布の上から触れても、柔らかな熱と鼓動が、自分の掌に伝わってくる。愛しくて、大切に触れたくなる温もりを、いつも不思議な気持ちで感じていた。膨らみの輪郭と感触を確かめるように、やんわりと何度も揉む。
「……ぁ……、ぅ……」
恥ずかしそうに小さく声を漏らしたが、首を左右に振る。
「俺の事、”好きだ”って気持ちがたくさん詰まってるって知ってる。そんなの身体だから、とても大事だし……その、”好き”……なんだ」
何度も触れるうちに、柔らかな丘の頂が硬くなるのが、掌の感覚で判った。自分の動きに合わせ、反応を返す愛しい彼女の身体。もっと触れたい、と逸る気持ちを抑え、離し難いと思う両手を柔らかな胸から剥がす。
「それから、もう１つ――」
俺に背を向けていたの肩に手を乗せ、ゆっくりとこちらへ向きを変えさせる。泣いて潤んだ瞳と、上気する頬が見えた。可愛い彼女を目にして、俺は笑う。
「……っ……な、何ですか……？」
ぐずっ、と鼻を鳴らしたが、彼女を見て笑う俺へと、不思議そうに問う。泣いた顔も、きょとんとする顔も、どれも可愛いが、やはり笑う顔が見たい。散々、つまらい事を言い合い、腹を立てても……。結局のところ、”好き”な気持ちがある限り、怒った事すら些細な事でしかない。大切な休息時間を無駄に使った分を取り返そうと思い、俺は口を開く。
「好きな子に”したい”って言って、”許してもらう”のは、もちろん嬉しいけど――」
言葉にしてみると、少し照れ臭く、顔が緩んでしまう。
「…………？」
２つの潤む大きな瞳が、キョロと動くと、俺の目を捉える。好奇心の塊と見紛う程の、強い輝きが宿るそれへ、俺は視線を合わせた。
「好きな子から”したい”って、”お願いされる”と、男は”天にも舞い上がる”ものだって覚えといてくれよ？」
ほっそりとした肩を抱き寄せ、俺は彼女の耳元で囁いた。
「……は、はぁ……？」
イマイチ意味が解らない様子のが、俺の背に両手を回し、曖昧な返事を返してきた。
「それじゃ、尋ねるぞ？ ――は、俺と……”したい”か？」
自分の背に回された腕の温かさを感じながら、へと問う。
「ねぇ……ホントに良いんですか？ その……」
話を堂々巡りさせそうな事を、が言い出した。男は単純。だけど、女の子はとても慎重で、疑り深い生き物なんだな。よく単純だと皆から言われるですら、俺の様子をこんなにも吟味する。
「……”したい”？」
”是か、否か、答えは２つに１つだ”というような声音で、俺はへと再度問う。
「うぅ……」
困ったように呻いたは、俺の右肩へと額を押し当てる。まだ何か悩むことがあるのか、首を縦に振る気配が無い。
「今まで”嬉しい”って顔でしか、抱いてないと思う。には……嫌そうに見えたかい？」
が２つ返事で首を縦に振らないのを、俺は内心ガックリとしながら尋ねる。
「い、いいえ……っ！」
強く否定したが、首を振って答える。自分の右肩から伝わる振動に、どこかホッとした俺は、笑って少し身体を離す。
「それなら、もう――答えは、”決まってる”だろう？」
俯くの前髪で目元は見えないが、赤く染まる彼女の頬が、色好い返事だと期待を込め、俺は熱心に見詰める。
「……わ、私も……たぃ……です」
唇が小さく動くと、が蚊の鳴くような声で話す。か細く発せられた声は、肝心な言葉を隠した。
「何だい、？ ……聞こえないぞ？」
何事も待つことが出来ると自負していた俺だが、それが待てないほどに気が逸る。彼女の言葉へと、期待に胸を躍らせた。忙しない心音が、余計に気を高ぶらせる。
「――わ、わたしも”したい”です……っ！！！」
言い切ったが口元をキュッと結び、顔を上げる。彼女は恥ずかしさに、顔はおろか、耳先までを赤く染めていた。彼女の大きな瞳は、室内灯の灯りを受けて煌くと、俺を真っ直ぐに見上げる。その表情は、真剣だった。俺はの顔を見て、目元を細める。
「うん。……”大変良くできました”、だ。……、何で隠れようとするんだ？」
納得するように１つ大きく頷き、俺は彼女の頑張りに口元を綻ばせた。俺が笑って答えた隙に、が急にベッド上へと身体を伏せる。
「もうっ！ ……恥ずかしいですっ！！」
ちょっと怒ったような強い口調で、彼女が気持ちを主張する。隠れてしまいたい、そんな風に見える彼女の背中の丸まりが、何だか可愛い。恥ずかしさを我慢した、いじらしい背中を抱き締めるように、彼女の上へと、自分の身体を重ねる。花のような優しい香りが、鼻先を擽った。
「ははっ！ 俺は、とても嬉しいよ。……な？ 男って、”単純”だろう？」
心底嬉々とした声を出し、俺はそうへと話す。
「”凄く好き”って教えてくれなきゃ……アダルトＤＶＤ観た事、許さないですよ？」
俺に抱き込まれる格好になったが、面白くなさそうに俺へと注文を付けた。
「…………こりゃ、タイヘン！」
凄く簡単そうで、とても難しい注文を付けた可愛い恋人の背を抱える俺は、小さく苦笑する。
自分が包む柔らかな身体を仰向かせて視線を交わし、愛しい唇へと、自分のものを以って、静かに触れる。小さく身動ぎしたの身体を、掻き抱くように抱き締めた俺は、無心になって彼女の熱を求め始めると、そんな俺の様子に、”男の人って……”と、困ったように笑って言うの表情が目に映る。その表情は、ごく僅かな戸惑いと、多くの嬉しさを含んでいるようだった――。
「――で、アレは”誰のモノ”ですか？」
モゾモゾと蠢く掛け布団の中から、愛しい彼女の不機嫌な声がした。
「え……っ？！」
ジーンズのジッパーを上げ、ボタンを留める俺の手が、の一言でピタリと動かなくなる。シーツがたくさんの皺を刻むほどに、ベッドを彼女と２人で温めた俺は、上機嫌で口喧嘩の原因をスッカリと忘れていた。しかし、どうやら――には、終わっていない話らしい。
――ちょ、待て！
えーっと、この場合……俺、ジーンズ穿いて良かったのか？！
彼女の許しを乞うべく、余すことなく”好き”だと伝えたはずだ、と思うものの、自信の無い俺は、穿いたジーンズのジッパーを下ろすべきかどうか、真剣に悩む。軽く眉を寄せ、立ち尽くす俺の脇にあるベッドで、ガササ……と布が擦れる音をさせたかと思うと、バサッと勢い良く、掛け布団が俺へと目掛けて飛んできた。
「……ッ！！！」
飛んできた掛け布団を抱える俺は、声も出せずに目を見開き、ベッドを占領している主へ視線を向ける。
「まさか……あのアダルトＤＶＤ、本当は……大石先輩の私物じゃ――」
素っ裸のが、ジトリ、と湿るような重たい視線を俺へと向けて話す。
「そ、そんな訳ないだろう……ッ！！」
を見て口を開いたが、目のやり場に困った俺は、視線をあちらこちらへと泳がせる。
「じゃ、やっぱり”菊丸先輩のモノ”かぁ〜……」
「はぁー」と軽く溜息を吐き出したが、そう言った。
「……へっ？ 何で、”英二のモノ”だって解るんだよ？！」
彷徨っていたはずの俺の視線が、の顔に釘付けになる。それぐらい、彼女の言葉は衝撃的だった。
「えっと……女の子のタイプが決め手……です。”胸が大きかった”から……」
が右手の人差し指を顎先に当て、視線を天井へと向けて言った。その言葉に、俺は思わずの胸元へと視線を動かした。彼女の細めの身体に見合った形良い輪郭に、先程触れていた肌質が掌に 蘇る。モヤッとくるものを感じ、俺は慌てて俯き、掌を握り締めた。
「そ、そうか……」
熱を逃がし、少し安堵した俺は、言葉短く答える。
「……許してあげます。……だって、”大きくなくても大丈夫”、なんでしょう？」
チラリと上目遣いするが、俺を見た途端、ニマッと笑い顔を見せて問う。
「有無が問題じゃない！ お前だから小さくても気にしない、ってさっきから――」
”しまった！”と思った俺の顔は、見る見るうちに朱に染まる。
――こんな言い方、”小さい”ってに言ってるのと、同じじゃないか！！
「やっぱり”小さい”って、大石先輩も思ってるじゃないですかーっ！」
ぷぅ、と両頬を膨らませたが、俺の目の前で横を向く。
「お、俺は……掌に納まるからって小さいと……思ってない。むしろ、丁度良いというか……その……」
”揉みやすい”―ーと言う事だけは、さすがに自重した。先程投げつけられた掛け布団を抱え、俺は口篭る。
「この前……大石先輩の掌サイズって、乾先輩に言ったら笑われましたもん！」
が憎々しげに、口を開く。悔しそうに発せられた声音に、俺は弾かれたように顔を上げた。
「な、何を言ってんだ、お前はーっ！！ しかも、おま……っ、”乾に”だって？！」
目を剥くような形相の俺は、の座るベッド上へと両手を着いた。自分が手にしていた掛け布団が、足元へ滑り落ちても気にならなかった。
「だって、胸の大きくなる方法教えてくれるって――」
小さく口を尖らせたが、不服そうに話す。
「そんな事で教えを請うなら、大きくならなくていい……っ！！」
数値で乾にばれるならともかく、自分の掌での胸の形が判るのが、堪らなく嫌だった。男というものは、意外と想像力豊かなものだ。自分の手で、常に彼女の胸の大きさを、生々しく想像されると思うと、その悔しさに耐えられそうにない。
「ヒ、ヒドイよ！ 大きくなんないと、大石先輩を一生恨みますからねーっ！！」
捲し立てるようにへ言い放った俺の言葉に、が怒る。言いたいことを話した彼女は、「あっかんべぇー！」と言いながら、舌を出していた。
「……良いよ、それで」
胸が大きくなろうと、ならなかろうと、彼女を好きな気持ちに変わりは無い。そう考えると、何だか腹立たしかった熱が急に冷めたと俺は感じた。
「……え？」
俺の怒りの気が殺がれたことに気付き、ぽやっとしたが俺へと聞き直す。
「一生かけて償うよ。だから……大きさなんか、もう気にするな」
俺はゆっくりと口元を緩ませ、目元を細めた。
――胸が育たないと嘆く彼女を、自分が何度も抱いて慰めれるのなら……。
文句なんて、ある訳が無い……。
そう考える俺を見ていたの顔が、俄かに赤くなる。
「い、一生だなんて……」
急にしおらしい態度になったが、ポツリと呟く。その表情は、恥ずかしそうであり、嬉しそうだった。を見下ろしたまま、俺は彼女との距離を詰めるように、ベッドへと片膝を着いて乗る。ギシリ、とベッドが軋むと、が少し高い位置にある俺の顔を見上げた。
首をゆっくりと傾けた俺は、未だ惜しげもなく肌を晒し、一糸も纏わないに手を伸ばし、彼女の肩を抱き寄せた後に、愛しさを込めた優しいキスを贈った――。
【END】