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年齢は変わらない距離を保ち、心は離れ近付き、揺れる距離で保たれる。
変わらない優しい声で、どうして呼び名を変えるのですか？
何を想って、その呼び名を口にするのですか？
私は、何も変わらない大好きな人への呼び名を発するだけで、初々しい恋情の想いを含むのに……。
ねぇ、私の呼び名を変えた、私の大好きな人。
私を想って、特別な想いで、その呼び名を、口にするの？
私は、センパイの特別なんでしょうか？
誰もが羨むようなセンパイの特別で……ずっと居られたらいいのに、な……。
「いいかい、？ ミクスドの戦法として、女性パートナーにボールを多く集め、ミスを誘い、そのカバーに男性パートナーを走らせ、さらにミスを誘うというのが――」
青学テニスコート外にあたるフェンスから、コート内でダブルス練習するちゃんと菊丸先輩のペアを指し示して、ミクスドの戦略を語るのは、青学男子テニス部でも有名なダブルスの名手――青学男子テニス部の副部長・大石秀一郎。私のテニスのお師匠様で、優しい先輩。それから、私にとって特別な人。私の……大好きな先輩。
「、今までは基本の陣形を取ってたが、相手が強くなれば、それだけでは勝てない。そこで――」
ラリーの打球音、皆の掛け声が少し遠くに感じる、この時間。大好きな大石先輩の左隣に立って、その声音に耳を傾け、フェンス越しにコートを見詰める。この一時が、とても心地良い。
大好きなテニスと、間近に聞こえる先輩の声。
好きなものに囲まれる幸福って、こんな感じなのかな？
ずっと聞いていたい、柔らかな口調。
「…………」
そう、何度呼ばれても、嬉しくなってしまう呼び名に耳を傾ける。
私だけ苗字じゃなく、名前で呼んでもらえる特別な呼び名に含まれる気持ちを探る。
だって、凄く気になるもん……。
大石先輩は、女の子を呼び捨てするような人じゃない、と思うから……。
皆と同じだった””という呼び方から””という呼び方に変えて、もう随分時間が過ぎたけど何を思っているんだろう……？
何を考えて、そう呼ぶんだろう……って、気になるの。
呼び方を変えるキッカケは、”ミクスドダブルスが上手くいくように”と、お互いの遠慮の壁を壊すことだった。
あれから、お互いの距離は確実に縮まってる。その証拠に、大石先輩と私のミクスド評価は、決して悪くない。
私が先輩を呼ぶのは、相変わらず……”大石先輩”、なんだけど……。
それでも、その呼び名に含まれる気持ちは、確実に変化を遂げている。
今、こうして隣に立って、先輩が語る声を独り占めできる時間を、幸せだと感じてる。
きっと、人はこれを”片恋”と、言うんだろうな。
呼び方を変えた先輩は、いったい……どんな気持ちで私を呼んでいるんだろう？
後輩として……以外の気持ち、あるのかな？
私が右隣に立っている大石先輩を見上げると、真っ直ぐな視線とぶつかった。
そして、形の良い唇がゆっくりと動き出す。
「……、何を考えているんだい？」
ドキリ！と、私の心臓が高く跳ねる。
まるで、私が何を考えていたか、覗かれてしまったような気持ちになった。
「あ、あっと！ その、え〜っと……！」
アタフタと身振り手振りで話す私に、視線を合わせるように膝を折る大石先輩。
パチッとした賢そうな瞳が、隙だらけで墓穴を掘りたがる私の瞳へと近付く。
そんな風に見られたら、もう……降参するしか無いよぉ〜！
私は、軽く溜息を吐き出し、苦笑してから素直に謝る。
「あ、あはは……す、すみませぇん……」
しょぼん、とした私の頭を大石先輩の大きな左手が一撫でする。
「ミクスドダブルスのセオリーは、にとって退屈なものだったかな？」
「い、いいえ！ あの、そんな……っ！」
大石先輩は眉間を軽く寄せると、瞳を三日月の形にして困ったように笑う。
本当なら、大石先輩に一喝されても仕方がないところだが、今日の先輩はどうやら違うらしい。
少し心配そうな表情をして、私を覗き込む大石先輩が口を開いた。
「……どうした？ 悩み事でもあるのか？」
「え、えぇ〜〜！ ど、どうして……っ？！」
またもや、ドキリ！と私の心臓が高く跳ねる。心配性な大石先輩は、鋭い。
単純で隠し事がヘタクソな私は、先輩の言葉に素直に反応してしまった。
我ながら……情けない。
私は諦めて、軽く息を吐き出す。
そして、心配性な私の師匠を安心させるように、笑って見せた。
「……えへへ。実は、ちょっと……わからない事は、あるんです」
「わからない……事？」
「は、はい。……そ、そのぉ〜……」
「……？」
私が言い難そうにすると、大石先輩が眉間に皺を寄せた。
あぁ、また……心配かけちゃってるよね？
私は大石先輩の表情を見て、すぐに瞼を伏せる。
きっと、今思うことを私が話してしまうと、ますます大石先輩が困ってしまうと思った。
正直、ずっと聞いてみたかったけど、聞けないでいる呼び名への気持ち。
……けれども、それを聞き出して良いんだろうか？
ひょっとしたら、私にとってガッカリするような答えが返ってくる事だってある。
そう、ガッカリするような答えが…………。
折角、頑張ってきたミクスドダブルスの信頼関係を、不用意な言葉で崩すことは良くない。
……それぐらいは、解る。
それでも、知りたいこともある。
先輩にとって、私は特別でいられるのかな？
今のままのように。
今よりも、もっと特別なパートナーに。
困った。
どうしよう……。
特別な呼び名への期待に、気持ちが膨らむ。
聞きたい。
…………でも、怖い！
私は俯いたままで、ギュっと瞼を閉じる。
それから、両手を握り締め、心を落ち着かせようとした。
「……！」
強く名を呼ばれ、ハッとして条件反射で顔を上げてしまった。
定まらない気持ちが、そのままの表情で。
「……あ……っ」
まるで、合わせ鏡のような私達。
不安な顔をしている私と、同じような表情をする大石先輩。
何も言ってないのに、重なる気持ち。
「話してくれないと、解らないよ。……？」
”さぁ、話してごらん”と言わんばかりの気持ちを、私の名に含んで呼びかける大石先輩を見た。
それから、その声音に促され、私は重い気持ちで口を開く。取り返しのつかない事になるかも知れないのに、それでも聞かずにはいられない呼び名の意味を。積み上げてきた時間を、揺るがせるような意地悪な質問を――。
「……先輩が名前を呼び捨てにするのは、菊丸先輩と私だけ、ですか？」
「あ、あぁ。そうだよ？ ……それが、どうかしたのか？」
私の問いかけに、どこかホッとしたような声で答えた大石先輩が笑う。
「お、女の子を……私を呼び捨てするのって、イヤじゃなかったんですか？」
かねてから１度聞いてみたかった問いを、思い切って大石先輩へとぶつけてみる。
どんな言葉が返ってくるのかは――神のみぞ知る、だ。
ドキドキと鳴り響く鼓動を、黙ってやり過ごそうとしてみるが、上手くいかない。
そんな私へと返された問いかけの答え。
「嫌だよ。……それに、俺の性に合わないし、な」
困ったように目を細めて笑い、首元を掻いた大石先輩が私の瞳に映った。
高鳴った胸が、一瞬にして冷やされる。
あぁ……やっぱり、な。
私は、それだけを思った。
「……そ、そう、ですよね！ 先輩らしくない、ですよね！」
私は努めて明るく笑って見せながら、さも賛同するように話した。
「はは。も、そう思うだろ？」
屈託無い顔で笑って私へ問いかける大石先輩に、私は心の中を覗かれないように、ひたすら笑って話を続ける。
「でも、ホラ！ 私って、女の子らしくないし！ ……菊丸先輩の女版みたいだし！ だから、呼び捨てするのも難しく無いのかなって……」
特別な呼び名が成す意味は、”関係”で、”気持ち”じゃ、無かった……んだ。
そう気付いてしまった私の声が、僅かに震える。
「……？」
大石先輩が眉根を寄せ、私を見下ろしている。
「わ、私……。ミクスドパートナーなだけで、特別な呼び方で良いのかな？って……お、思ってたんです！ 先輩が嫌だったら、””って呼んで良いんですよ？」
「あはっ」と笑った私は、右手で額を押さえて目元を隠す。
泣き虫な私が、どんな気持ちで居るのかをばれる事が無いように。
胃薬を要するような心配性な大好きな人を、困らせないように。
これって、意味の無い好奇心を持った罰だ。
先輩の特別な気持ちを欲しがった私の代償――。
自分が特別だなんて、思い上がったから……。
パートナーだから、特別に呼んでもらえてただけなのに……っ！
私は……ただのテニス部の後輩、なのに……。
私……大馬鹿者だ！！
「……お前、””って呼ばれるのは好きじゃないか？ それとも、誰かにからかわれて嫌だったとか？」
黙り込んだ私へ、不意に申し訳なさそうな声を出して話す大石先輩の問いかけを、私は頭だけを左右へとゆっくり静かに振った。
先輩たちは、私を””って呼ぶけど、””って呼ぶのは大石先輩だけ。
先輩だけの、私への特別な呼び名。
……それが嫌だったら、ずっと前に断ってるよ。
大石先輩はそう話して、目元を隠していた私の右手を掴むとゆっくりと動かした。
少し心配そうな表情をしていた先輩が、私の顔を見た途端に軽く笑う。
「それなら……これからも、””って呼んでも良いだろう？」
大きな目を更に開き、私は驚きの顔をして大石先輩を見詰めて問いかける。
「……ど……ど、して……？」
問いかけられた大石先輩は、首を傾げて困った顔を見せ、私の問いかけに言葉を選びながら、考えもって答える。
「ど、どうして……って？ ……そうだな、そう呼んだほうが今の俺には、しっくりくるから……かな？」
「しっくり……？！」
それは、ただ呼び慣れた……それだけのこと、なのかな？
特別なんかじゃ、ない……そういうこと、なの……？
そう思うと、小さな私の胸がチクリと痛む。
真っ直ぐな瞳が私の双眸を捉えると、大石先輩は言葉に含みを持たせながら話し始める。
「そうだよ。……は、今のところ”特別”だから、な」
ドキン、ドキン……。
”特別”……？
私が欲しいと思った、大石先輩の気持ち。
他の人たちとは違う、私だけへの気持ち。
ねぇ、大石先輩……。
本当に、私を”特別”だと想って、言ってくれるの？
「私が……大石先輩の”特別”？」
恐る恐る大石先輩へと、私は尋ねてみた。
大石先輩は優しく笑うと、少し気恥ずかしそうな口調で私へと答える。
「俺にとって、女の子のパートナーなんて初めてだし。その……女の子を名前で呼ぶなんて、妹以外じゃ、が初めてだ。……だから、俺には”特別”だよ」
そう話して、いつものように私の頭を大きく一撫でした。変わらない大きな、温かい手。
優しい温もりが、私の痛んだ心を癒す。
「それに、お前……””って呼ぶだけで、俺が思うことの大半は解るだろう？ ……本当に、不思議だよな」
「以心伝心って言うのかな」と、話した大石先輩が嬉しそうに笑う。
私の名前を呼ぶときは言葉だけじゃなくて、気持ちも含まれてたんだ！
少なくとも、その他大勢と同じじゃない、私だけへの想いが……。
先輩が私の名前を呼ぶのが好きだと想うのは、私だけを想って呼んでくれるからなんだね。
特別な呼び名に、想いを込めて……。
初めて呼んでくれた、その日から……ずっと、変わらずに……。
「お、大石先輩……」
情けないほど眉を下げきった顔をして、私は大石先輩の名を呼ぶ。
愛しく、嬉しい気持ちを込めて。
「ん？ ……どうした、？」
”そんな顔して、お前は……”って、言いたげな表情で笑う大石先輩。
大好きな、私の先輩。
今よりも、もっとたくさんの気持ちを込めて、特別な呼び名を言いたいよ。
そう考えた私は、しがみつくように大石先輩の両腕を掴んだ。
「わ、私も……大石先輩を、特別な呼び方してみたいです……」
「特別？ ……例えば？」
私の様子に、やや怪訝な表情をさせて大石先輩は問う。
私は、ゴクリと咽喉を鳴らして慎重に答える。
「え、英二先輩に倣って、しゅ、秀一郎先輩……とか！！」
い、言っちゃった〜〜っ！！
は、恥ずかし〜〜い！！
……きっと、頬っぺたも赤くなってるかも……？！
心臓がバクバクと音を立てる私は、必死な顔で大石先輩を見上げ、返事を待つ。
私の顔を見て、目を丸くした大石先輩が、事も無げにアッサリと答えを返す。
「無理はやめとけよ、。……お前、舌噛むぞ？」
「……うっ！！」
大石先輩の両腕を掴んだまま、私の頭は誰が見ても判るぐらい大きく項垂れた。
私の頭上では、大きな溜息を吐き出しながら、困った声を出して大石先輩が言う。
「それに、は”特別”な呼び名で、俺のことをちゃんと呼んでるぞ？」
……へ？
……い、今、何て？！
あまりのことに、枯れた花のように項垂れていた自分の頭を勢い良く上げた。
もちろん、奇声のような声もつけて。
「……えぇ〜？！ ウ、ウソ〜〜ッ？！！」
私、今まで”大石先輩”以外、呼んだこと無いはずだよ？！
……どういうこと、なんだろう？
大石先輩の顔に穴を開けるように凝視する私を、やや困ったように首を傾げて苦笑する大石先輩。
忘れん坊な私を軽く睨み、口を尖らせて話し出す。
「……あ、あのなぁ、。言っておくが、嘘じゃないぞ！」
ゴホン、と軽い咳払いをした大石先輩が私を見下ろし、続けて話す。
「”大石副部長”じゃなく、”大石先輩”って呼んで良いよって言ったのも１年生の中じゃ、お前が１番最初だよ。……に、”大石先輩”って呼ばれるのは嫌じゃないし。……むしろ、好きだよ」
静かで穏やかな眼差しで私を見下ろす大石先輩が、この上なく優しく見えた私。
その表情に、思わずドキ、ドキリ！と心臓が飛び跳ねる。
周りの音が消えて、景色が歪む。
のぼせそうな勢いで上気する顔をそのままに、私は大石先輩を掴んでいた両腕を慌てて放し、その手を背に隠した。優しく紡がれた言葉に、含まれた気持ちが見えた気がした。少なからずあるだろう、私への好意。……ただ、それが恋か、どうかは判らないけど。
自惚れたら、また罰を受けちゃう！と思うけど、それでも、きっと他の人に向けられるものとは違う気持ちがある、と思ってもイイ……よね？
「……え？ ……っと、ス、スキ……？」
すっ呆けたような声で確認するように問い、照れたような表情を大好きな人へ見せ、私は頬を掻いた。プッと軽く吹き出した大石先輩は、軽い笑い声を立てると、私を見詰めて話す。
「あぁ、好きだな。……それに、”大石副部長”なんて遠慮した言い方、今更似合わないと思うぞ？」
優しい光を湛えた瞳が三日月を模ると、先程から変わりなく私を見詰める。
「…………ソコは、言い過ぎだと思いますぅ〜！！」
その瞳を見つめ返して、私は膨れた振りをする。
そんな私の様子を見たまま肩をすくめて、可笑しそうに笑いながら私へと問う大石先輩。
「そうか、言い過ぎたかな。……？」
私への特別な呼び名に、私への気持ちを込めて呼びかけてくれる大石先輩。
柔らかく微笑んで、私の近くに居てくれる大好きな人。
……でも、意地悪な気持ちを含んで、楽しそうに話すのは、ちょっとヤダよ？
「……大石先輩の、バカ〜〜！！」
ちょっと悔しくって、私はポスッと右手で先輩の胸元を叩くと、「あはは」と軽く笑って、いつもと同じ大きな右手が私の頭を一撫でした。
私からの特別な呼び名に、大好きな人への気持ちを込めて呼びかける。
これからも先輩の傍で、特別なままで想っていたい。
ねぇ、先輩。
特別な呼び名には、先輩への初々しい恋が含まれてるよ。
だから……いつか、きっと気付いてね？
ねぇ、先輩。
私を呼ぶ声は、いつも私を想ってくれてるの？
特別な呼び名には、優しい先輩の温もりを感じるよ。
だから……いつか、きっと教えてね？
私への特別な呼び名に、恋の想いが宿ったら……。
年齢は変わらない距離を保ち、心は離れ近付く、揺れる距離で保たれる。
変わらない優しい声で、特別な呼び名で語りかけて。
私を想って、その呼び名を口にして。
気付かされた特別な呼び名を想うだけで、初々しい恋情の想いは、大好きな人への気持ちで満ちる。
ねぇ、私の呼び名を変えた、私の大好きな人。
私を想って、特別な想いで、その呼び名を、口にしてね？
センパイが私の特別だから、片時も忘れないようにその呼び名で、私を想って。
きっと、誰もが羨むようなセンパイの特別で居られる、”恋の呪文”だと思うから――……。
【END】