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駅の改札で見かけた「迎春」という華やかな文字。
それを目にして――ドキン、と胸の音が跳ねた。
慣れた日常に、紛れる淋しさ。
まだ、春は――遠い。
もう、春は――そこまで、来ている。
時の流れに、複雑な想いを揺らす。
お前は――知らない。
俺の想いには――きっと、気付かない。
正月も明け、冬休みも残り僅か。
毎年恒例だった青学男子テニス部の追い出し会も、今年が最後の参加となる。
その日を迎えた、この1月4日のこと――。
審判の試合終了のコールが、冬の風に溶けて流れる。
ふと、晴れた空を見上げると、俺自身の中で渇き切ったものが、充足感として満たされるような気がした。その途端、試合に集中していた気も解け、疲労感がドッと身体に圧し掛かる。
弾み続ける息を抑える暇も無く、俺は相棒を務めてくれた英二と肩を並べ、コート中央へと２人で歩み寄る。対戦相手だった後輩の桃こと、桃城武と、も同様に、ネットへと向かって駆けて来た。体力自慢の後輩２人を前にし、俺は手を差し出して笑う。
「ははは……。強くなったな、。俺達が居なくなった後も、ちゃんと毎日、真面目に練習をしていたようだな」
「先輩の期待を裏切るわけには、いきませんからね〜。頑張ってますよ！」
「嬉しいことを言ってくれるな。しかし、試合してみた感想は期待以上だったぞ」
英二にも似た人懐っこい笑顔で答えるに、俺も自然と笑みが零れる。あまり褒め過ぎると、彼女の向上心を満たしてしまうだろうかと気にしつつも、のテニスプレーヤーとしての成長を感じた俺の喜ばしさは、隠し切れるものでもない。初めての試合からくる緊張で、足元にあった黄色いボールを踏んづけて転んだを思えば、俺の前に立つ彼女の堂々とした姿は、頼もしく、また眩しくも見えた。
負けてやる気なんて無かったが、ブランクがあるとはいえ……この結果には、俺も参ったよ。
ミクスドは、女子を狙ってミスをさせるのがセオリーだと言われるが――。
序盤、中盤とにボールを集めてみたが、しっかりと自分自身で処理してたしな。
試合前、自分と向き合ったを、ふと思い返す。好奇心の強い瞳は、俺を真っ直ぐに見据えていた。そこに宿っていたものは、青学テニス部の選手なら誰もが必ず持っている意識――負けん気――だ。じっ、と俺を見たは、勝負そっちのけでテニスを楽しんでいた頃とは、明らかに違って見えた。もう、進むべき道で道草ばかりを楽しんでいた彼女の手を無理矢理引っ張らなくても、こちらが歩けば、今のならば、自然と気付いて、必ず後を追って来ることだろう。
後輩の成長に、俺の胸の内は嬉しさと淋しさで綯い交ぜになった。手の掛かかったの世話係を免除された事実を前にし、複雑な心情を隠した俺は、彼女と握手を交わした手での頭を軽く撫でる。急に上体が揺れ出し、は目を丸くした。その顔を見下ろし、俺は感嘆の声を上げる。
「今じゃ、お前も立派に青学レギュラーとして頑張ってるんだよな」
素直なは、俺の言葉を聞き、嬉しそうな顔で笑って見せる。屈託無い彼女の笑顔は、俺の心を癒してくれるものだったが、今は心強く、人を前向きにさせてくれる力があるようだった。日々の中で見慣れたはずのの笑顔も、少し離れていたうちに印象が変わって見えるのだから、本当に不思議だ。人は、これを”成長の証”として捉えるのだろうか。ネットを挟んだ向こう側に居るを目に留めたまま、思う。
今までの彼女の頑張りと笑顔は、いつも俺を支えてくれた。
これからの彼女の頑張りと笑顔は――。
きっと……青学のチームメイト達を支えてくれるものになるだろう。
……頑張ってくれよ？ 頼むぞ、！
部長の手塚が求心力となっていた３年生中心のチームは、今日の追い出し会が終われば、完全に無くなってしまう。２年生と１年生が中心になった新体制の青学テニス部へと万感の思いを込め、俺は桃とに向かって言葉を掛ける。
「今年のテニス部が楽しみだよ。絶対に、全国制覇しろよ。お前達なら、それが出来る！」
「はいっ！」
「――ッス！」
俺の言葉に、後輩達が元気に答える。その意気込みを感じさせる声を聞き、俺の隣に立っている英二は、ニカッと満足げに笑って見せるなり、桃を誘ってネットから離れると、次の試合の為にコートを明け渡す。俺とは、２人の後を追うようにして、コートから離れた。は嬉しそうに笑って、俺の斜め前を跳ねるように歩く。その背を見つつ、ふと、俺は気になることを思い出した。少し前を歩くの肩へと右手を掛け、俺は彼女の歩みを止めさせつつ、話し掛ける。
「そういえば……終盤になって、急に足の止まった時があったな。、何かあったのかい？」
「え？……あ、いえ！ えっとぉ〜、ボール見失っちゃったっていうかぁ〜……」
「――」
「は、はい…？」
「嘘は吐かないでくれよ？ どこか痛いとか、怪我したとか、そういうのじゃないんだな？」
「え？ 怪我ですか？ いいえ、どこも痛くなんか――」
俺の探るような視線に、きょとんとした表情を見せたが小首を傾げて答える。その途中、何か思い当たる節があったのか、言葉がプツリと途切れた。彼女を注視していた俺は、の不自然な言動に気付き、更に彼女へと問う。
「……？ やっぱり、お前――」
「えっと、怪我はしてません！ 大丈夫ですから！！」
「そうか、それなら良いんだ。新チームの選手に怪我させちゃ、保健委員長の名折れだからな」
「えへへっ！ 大石先輩は、相変わらず……”大石先輩”なんですね」
「――は？」
「いいえ！ 何でもないです！ ……あ〜、今日は楽しかったな♪」
楽しげに笑って見せたは、彼女の心配をする俺の斜め前を、再び、跳ねるようにして歩き出した。その背を見た途端、俺は解ってしまう。彼女が痛かったのは、きっと身体じゃない。何故ならば、俺は知っているから――。が本当に楽しいと思えた時は、跳ねるように歩きながら髪先を揺らし、笑った顔を上向ける。その様子を傍で良く見ていた俺は、転びやしないかと肝を冷やしたものだ。だけど、今、俺の前を歩くは違う。跳ねながら歩いても、上向かない心を抱えているのだろう彼女の背は、どこか心許ない。俯きがちな姿で歩くへと、俺は苦笑を漏らした。
「まったく、お前は。……は、誤魔化すのが下手だな」
「――えぇ？！」
「痛いのは、身体だけとは限らないだろう？」
「……大石、先輩……」
「本当に『どこも痛くなんかない』と言うのならば、それでも良いが――」
「…………」
「もし、痛いところがあるならば、早目の処置が肝心なんだ。……、どうなんだい？」
確信に近いものをもって問いながら、俺は彼女の前へと回り込み、その瑞々しい双眸を覗き見る。すると、俺を見て驚いたが、大きな瞳を揺らした。その様子を目にしながら、俺は黙しての言葉を待つ。
打ち込んだ俺のムーンボレーの軌道は、際どい部分に落ちるものじゃなかった。
現役部員の頃の感覚が鈍っているのは、当たり前のことで……。
当然、インパクト時のコントロールが甘くなるのも、良くある話だ。
だから、の追えないボールでもないし、打ち込みに迷うボールでもなかったはずだ。
なのに、ボールを目で追っていたはずのの足は……。
落下地点から遠いわけでもないのに、何故か足は止まったままだった。
後にも、先にも、ただ１回――あの時だけ、な。
……。
お前は、何を思っていたんだよ？
その心が痛いと感じたものは、いったい……何なんだい？
心の内を探るような視線を寄せた俺の顔を、チラリと盗み見るような上目遣いをしたが、唇を１度噛み締める。悔しげにも見えるの表情に、俺は安堵した。性根の素直な彼女は、時折、態度で教えてくれる。俺の考えは、読み間違えではないのだということを――。心身共に急成長中のは、ちょうど多感な時期だ。俺が気遣ってやれることならば、何でもしてやりたいとは思う。それは、俺を１番慕ってくれただから、尚更なのかもしれないが――。しかし、俺の思いを汲むことの無いは、俯きがちな姿勢のまま、噛み締めていた唇を動かし始めると、しっかりとした意思を伝えてくる。
「――痛くなんか……ない、です！」
「ははっ、そうか。……、お前は強いな」
甘えたで素直だったが、強い口調で言い切った。そのの張った声を聞き、何も気付かない振りをして笑った俺には、強がった主張だと解っていたが、それを責めようとは思わなかった。彼女自身が感じた何かしらの痛みを、は自力で乗り越えると決め、言葉を口にしたはずだからだ。彼女が決めた事に、俺が口を出すことは許されることではないだろう。の小さな決意は、彼女自身を大きく成長させる１歩なのだから――。俺が彼女にしてやれることは、手を差し伸べることじゃない。俯きがちなが握る、その小さな拳に誓ったものを、彼女が最後まで貫き通せる強さを持てるように、見守ってやることだろう。
項垂れて見えるを励ますように、彼女の細い肩を軽く叩いた俺は、他コートで行われている試合で起こる歓声に紛れてしまわないよう、声を張る。
「さぁ、痛くないのなら、もう気にするな！」
「……え？」
「お前の感じた痛みは、お前だけのものだ。……誰も肩代わりは、出来ないんだぞ」
「どうして、大石先輩は……分かっちゃうんですか？！」
くしゃり、と表情を崩し、随分と情けない顔をして見せたが、ほんの少しだけ俺を責めた。しかし、こうして解ってしまえるだけの時間をと過ごし、また絆を築いてきたのだと思って、その時の流れを顧みれば、酷く懐かしい気持ちに囚われる。
道を示し、お前の手を引いてやるのは、他の誰でもなく……。
いつも……俺だったな。
それは部員を思う副部長の務めでもあり、後輩を思う先輩でもあって――。
それらとは異なる俺自身が想う、への気持ちからでもあった。
だけど、これからは――。
俺は彼女の肩を軽く叩いた自分の手の先を握り込む。この拳に誓うのは、彼女の手を引けなくなる代わりに、俺自身の存在での道標になること、だ。誰かの先人になるのは、獣道を分け入るようなもの。決して、容易い事じゃない。そして、楽なことも無い。だけど、後ろに道は出来る。そこを追って来るを思えば、きっと俺自身も恐れずに前へと進んで行けるだろう。何を見ても、何を思っても、俺は――俯かない。そう決めて、俺の前に立ち尽くすを見詰め、言葉を告ぐ。
「ほら、下を向くな。前を向け、」
「……あのっ、ご、ごめんなさい……」
「謝ることないだろう？ 意地を張るのは、別に悪いことじゃない」
「……大石、先輩……」
「”何か”を背負って、人は強くなれることもあるんだからな」
俺を頼らない選択をしたは、この先を自らの選択で切り抜けて行くのだろうか。何かしらの痛みを、力に変えて――。そう考えて言葉を口にした俺と、の間に流れる時間は、同じもののようでありながら、随分と異なっているのだと、この時、初めて知った気がした。同じ時間と空間、駆ける者同士で思いまでもを共有していたはずなのに、それらは少しの間で、随分と様変わりしているかのようだった。しかし、それを淋しい思いだけで彩られたものだと認めるのは、何だか俺の癪に障った。掴めるはずの未来に、背を向けてしまうようで――。
時間は、無情にも流れるもの。誰の所為でもなく、自分の想いとも関係なく。それぞれと交差した道が離れる。各々の歩む先が異なる。考えれば、考える程に、苦い思いで俺の胸の内側が焼かれるかのようだった。自分が大切にしていたものを、また大切にしていたいものを手離す俺自身の痛みを、誰が解ってくれるというのだろうか。しかし、誰かが解ってくれるとしても、こればかりは、人に背負わせるものじゃない。俺が自ら――背負うもの、だ。
”苦しいからこそ、笑え”――と、そう胸の内で唱えた俺は、を前にし、柔らかに笑み、彼女へと話し続ける。
「だけど……これだけは忘れるなよ、」
「はい？ あの、何を……ですか？」
「弱くても、強くても、”人は支え合うもの”なんだってことを、だよ」
「え？」
「、お前が何を思うのも自由だ。だけど、それを１人で背負い込んで良いかどうかは、別だぞ？」
は痛みを言わないことで、その思いを俺に背負わせなかった。言ってもらえないことは、俺にとって心配の種でもあるが、同時に、の逞しさをも知ることにもなった。目を瞬かせるに向かって、俺が投げ掛けた言葉に、彼女は言い様もない顔を見せ、くしゃりと笑った。人に背負わせることの出来ないものがあるとしても、その気持ちを汲み、添え木のように寄り添う事は出来るはず。それが人の持つ――”優しさ”、というものだ。
甘えたなが、自分の意思で言わないと決めたんだ。
そして、自らの足で立つ勇気を示してくれた。
だから、俺は――お前を信じよう。
を信じて、この想いだけを、お前に……添わせるよ。
言葉に命を吹き込ませるかのように、また、小さな子供に言い聞かせるかのように、俺は温もりを持った言葉として響くよう、へと優しく語り掛ける。
「人と支え合うこと、人を信じること――忘れるんじゃないぞ、」
「は、はい。……すみませんでした……」
俺へと言葉にしなかった思いに対し、は罪悪感を感じていたのだろうか。彼女は申し訳ないと言いたげな様子でしょんぼりとし、謝りの言葉を口にした。折角、前を向き、俺を見上げていたはずの顔が、瞬く間に下を向きそうになる。その様子に慌てた俺は、両手を振って忙しなく言葉を口にする。
「あ、いや！ 怒ってるわけじゃないんだ！ 水臭いとかも、全然思ってなんかないぞ！」
「……？」
「そのさ、が頼もしく思える反面、何だか……な」
ぽつり、と呟きを落とし、俺自身で自ら心を覗く。成長著しいの様子には、嬉しくもあり、喜ばしくもあった。そしてまた、冬の冷たい風が、ほんの少しだけ切なさを運んできた。好奇心旺盛な彼女の後を追って右往左往した春先、縦横無尽にコートを駆ける頼もしいパートナーを務めてくれた夏、ジュニア選抜についてガチンコ勝負で口喧嘩した秋、乾いた風が連れてきた冬には、俺の知らない一面をもって、その成長の証を見せてくれた。思い出として捲られていくページに印されたような、と過ごした記憶の足跡――。
淋しさだけじゃ、悲し過ぎる。
時は過ぎるが、季節は巡るものだ。
いずれまた、とは――廻り会えるだろう。
新しい思い出を刻む為に用意されるページと共に、舞台となるテニスコートの上で――。
俺がお前に託すのは、俺が全てを懸けて伝えたかった青学テニス部への想いだけだ。
だから、お前は無理せず、俺と異なる道の先へは背負えるものだけを背負って行け。
だけど、……。
もしも、お前の手に余る想いがあるならば、それは素直に置いて行けよ。
が背負えなかった想いの分は、全て――俺が背負って行くから。
置いて行かれる後輩の気持ちを……俺だって知らないわけじゃないから、な。
でも、今のお前では……。
こんな俺の想いにも――きっと気付かない、な。
兄気質を持つ俺としては、やはり頼りにされないと、どこか言い様もない複雑な気持ちにさせらてしまう。のあどけない表情を前にすると、その気持ちは増倍していくようだった。何故か、決まりが悪く感じられた俺は、左手で首元の後ろを擦る。そんな俺を訝しげに見詰めるが、俺の落とした呟きを懸命に拾おうとしていたらしく、耳をそばだてる姿勢を見せていた。
「はい？ ……何ですか？」
「――いや、やっぱり……何でもない。 あぁ、何でもなかった！ 気の所為だな！」
「えーーっ？！ 言ってる事と違ってますよ、大石先輩！」
「ははっ、ごめん！ でも……今感じたことは、俺だけのものだからさ。見逃してくれ」
「しょ〜がないですね。私も見逃してもらっちゃったし、今回は……”あいこ”、ですね？」
「あぁ。……そうだな」
胡散臭い俺の芝居に、呆れた顔をしただったが、彼女自身も秘めた思いがある。それを認めたうえで、俺の気持ちを尊重してくれた。その彼女の優しさに触れ、俺は眦を下げる。すると、の眩い笑顔が、清々しい空気の中で弾けた。
薄い青に溶ける冬空の下、どこかのコートでは、審判の発する最後のコールが響いていた。
勝敗の行方に、湧き上がる部員達の歓声。
その瞬間――。
校内にある枯れ木の枝で羽休めをする鳥が、春が来たと告げていた。
【END】