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君に呼ばれれば、俺の心がほんのりと温もる。
君に触れるだけで、"好きだ"と思う気持ちが俺の心を和ませる。
君の見詰める先に俺がいると分るだけで、俺の心がソワソワと何処かへ彷徨うんだ。
だけど、君を感じれない場所では、君を想う俺の心が枯れてしまいそうだよ。
まるで心は、《幸福》という言葉の象徴で美しく咲き誇る花。
それならば永遠となれ、幸福よ。
君という、太陽に似た眩い輝きを纏いし、俺の想い人。
胸に宿る心の幸せが、幸福への永い祈りとなるように……。
。
俺はこの日が待ち遠しかった。そう、お前の卒業をずっと待ってたよ。
喜び勇んで駆けつけたのも、お前を早く迎えに行きたかったからだ。
それなのに、懐かしい学び舎を駆け抜けて、見慣れた部室の角を曲がって、テニスコートをフェンス越しに眺めれば、名残惜しそうな横顔が見えた。
。
お前、部活後に息が弾むほどに駆けて来た俺のことなんて、まるで気付かない顔で居るんだな。
テニスコートへの出入口を静かに潜った俺は、物音を立てないように、ゆっくりとラケットバックを壁へと立てかけた。それから、弾んだ息を整えるように呼吸をした俺は、その場で腰を下ろす。
お前が、今、テニスコートを見詰めている理由は、きっと２年前の俺と同じなんだろう。
だから、俺は静かに待つことにするよ。
”サヨナラ”と”アリガトウ”
何度言っても、言い足りない気持ち。
チームの仲間へ、青学テニス部へ……。
自分の何もかもを知っているテニスコートへ。
巡り合えた人々との時間に、巡り合えた人々との空間に……。
そして、巡り合えた人々との大切な想い出達に――。
。
お前、今、何を見ているんだ？
その真っ直ぐな瞳には、何が映っているんだい？
お前を迎えに来たというのに、まったく振り返りもしないお前の背を見てると、何だか歓迎されないような気がして怖いよ。
俺はそう思うと、頭を２、３度軽く左右に振った。
そして視界に入ってきたのは、コート隅に転がる黄色いボール。
かつて、と一緒に、このコートで追い駆けた１つのテニスボール。
今、これをお前へと転がしたら、気が付いて振り返ってくれるんだろうか……？
思い切って手に取った黄色いボールを、の足元目掛け、緩く放り出す。
テン、テン、コロコロ……。
振り返って欲しいと思う願いを乗せ、転がしたテニスボール。
こつん、との足元へと転がり着き、軽くぶつかった。
俺とお前にとって大事な、テニスボール。
俺とお前の、すべての始まりへと、繋がるボール。
青学のテニスコートに佇む彼女が、夕暮と夜の闇が共存し合う空を見上げた後、目の前にあるテニスコートを、ゆっくりと見回し始める。お前にも、俺にも、すべての始まりとなった、この場所を――。
の姿を、俺はただ静かに見守る。
邪魔にならないように、呼吸さえも押し殺すようにして。
夕焼けで陰る俺を見つけたようで、動きを止めたが、ジッと見詰めている。
「…………大石先輩」
ややして、が俺の名を口にした。
このコート内で、その呼び名を聞くのは、本当に久し振りだ。
夕暮の闇に隠れるようにして居る俺を、酷く懐かしい声で呼んだ彼女。
かつて、夕暮に染まった校舎を背にした２人だけでの”卒業”を思い返してしまう。あの日の俺は、この想い出の場所へ、お前を１人だけ残してしまう気がしてならなかった。
の困ったような表情の笑い顔を見上げてた俺は、へと柔らかな笑みを見せてみた。
互いの視線が合ったのを合図にして、俺はその場で立ち上がると、彼女の方へと歩む。
図々しくも彼女の視界へ入りたいと俺が願った黄色いボールを、は左手に取り、拾い上げると、間近になった俺を見上げてきた。そんなをからかうように俺は言葉をかける。
「……送別会、抜け出してきたんじゃないだろうな？」
夕暮色に染まるを見詰めながら、俺は軽く声を立てて笑った。
あれは――俺達の送別会の時のことだ。
送別会を途中で密かに抜けた俺と、その後を追ってきたとでの、２人きりの卒業式。
学び舎となる、このテニスコートにも、最後の別れを惜しみたかったんだ。
テニスを心底好きになれた自分に……。
青学テニス部の連中が心底好きだった自分に……。
そんな大事なことに気付かせてくれた、大切な場所――この、テニスコートに。
そして――。
。
俺にとって大事なものの１つに含まれるお前にも、大切な場所だと思って欲しかった。
だから、あの日の俺の卒業は、今でも意味あるものだったと思ってる。
お前があまりにも別れたくない顔をするから、とても後ろ髪が引かれる思いで居たよ。
だけど、そんなお前が別れを我慢して、俺の背を送り出してくれたこと、今でも感謝してるんだ。
「そ、そんな事してませんよ！ ……ちゃんと終わってから来ました」
は俺の問いかけに慌てて否定し、それから少し沈んだ声で短く答えた。
その様子を、俺は黙って見詰める。
かつての俺と同じ気持ちを、今、も感じているんだろうか……？
両手一杯に想い出を掻き集め、零れ落ちる切なさを、お前も感じているんだろうか？
昔の俺とお前が駆け抜けたテニスコートを見下したが、オレンジ色に染まるホワイトラインに、目を細めている。その横顔にかける言葉も無く、俺はただ沈黙を纏う。
不意に顔を上げたが、問いかけるような視線を俺に向けてくる。切なさが滲み出るの双眸に、俺の心が痛いほど同調し始める。泣きたくなるほどの淋しさと切なさに――。
「何て顔してるんだ、。……そんな顔されちゃ、”卒業おめでとう”って言えないよ」
切ない心を揺らす瞳を目の前にした俺は、眉間を寄せ、困った表情をして見せた。
ここには、俺の３年間があり、の今までの３年間もある。
自分の力を試す事の難しさ、後輩を育む事の難しさ、チームを率いて、敵に挑む難しさ。
数々の受難を乗り越えるための挑戦、その失敗と成功、全てを見守り続けていた場所。
このコートは、青学テニス部の歴史そのもので、俺や、青学テニスプレーヤー達の歴史に繋がる。２年前からの時を経た今、過去の俺と対峙し、この場に立つは、想いまでも共有しているだろう。ただ、その想いが、どこまで同調しているかは、定かではないけれど……。
「大石先輩……」
呟くようなの声を聞き、俺は自分が思考に耽ていたことに気付く。彼女の想いを推し量ってしまう自分を、俺は苦笑した。は困り顔でいる俺を見ていた視線を漂わせ、日々を過ごしたテニスコートへと目を遣った。
「……ん？ 何だい？」
隣に並ぶ少し背の低いの横顔へと声をかける。その声音を、いつもより更に優しいものにして。を見下ろす俺の眼差しが、柔らかなものとなるように――。
「私も、青学テニス部がとっても大好きですよ。……昔から、ずっと！」
「あぁ。……俺もだ」
君が自慢げに、誇らしげに胸を張って言った言葉を耳にして、俺は口元を緩める。昔の俺が感じていた想いが、にも繋がって、引き継がれていた事を実証されたように感じたから。
彼女の言葉に、嘘は無い。
だから、俺も彼女の言葉に同意するように頷いた。
お前が、初めてテニスというスポーツに触れた日から――。
その日から、いつも陰日向となり、見守続けたこの眼差しも、青学に懸けた想いも……。
今の彼女なら、手に取るように理解できているだろう。
をダブルスプレーヤーとして育てる日々は、未知数な力だけに、苦難の連続だった。
なのに、着実に力をつけるお前を見ていると、いつも俺が勇気づけられるんだ。
不可能という言葉、本当は存在なんてしやしないんじゃないか、ってな。
まだまだ発展途上のお前を残すように、俺を送り出させたあの日。
今でも、恨んでいるんじゃないかと、時々思う時があるよ。
時の流れとは、本当に……残酷なものだよな。
「……ありがとう！」
ありったけの想いを込め、目の前に並ぶ見慣れた景色に、感謝の言葉を投げかける彼女。その左手には、黄色いテニスボールを力の限り握り締めて。身体を精一杯使って叫んだの長い髪の先が、少し冷え始めた春風に揺れていた。彼女の清々しい表情に、俺は目を細めている。
「”さよなら” は……言えそうか？」
どこか吹っ切れたような満足げな顔で居るの隣に立つ俺は、やや膝を折り、彼女の視線に高さを合わせながら、瞳が隠れるほどに目を細めた笑みで問いかけた。
「……ハイ！」
真剣な顔をしたが、力強く頷く。
２年前、ピンとこなかったお前にとっての”サヨナラ”の意味と、その想い。
今だからこそ、知り得るものだろう。
苦しみも、嬉しさも分かち合えた離れがたい仲間との想い出。
大好きだった青学テニス部と、コートという居場所。
彼女にとって、全部を手放すには狂おしいほどに切ない時間。
――”サヨナラ”の時間。
だけど、そのサヨナラの時間こそが、置いて行ったあの日のお前を、今連れ去る事のできる俺にとっての、最後のチャンス。
『卒業なんかして欲しくない』と発せられたの言葉の裏に潜んだ淋しさを含む別れ。
夕焼けの空は、校舎やテニスコートまでも染めていた。
涙で滲んだ両目を一生懸命見開いたが送り出してくれた、この背中――。
あの日の後ろ髪引かれる想いから……やっと解放されるんだ。
テニス三昧の日々も、青い恋の芽生えも。
黄色いボールと緑色のコートが、俺と、の、すべての始まり。
それが今、1つの区切りを迎える。
手にするテニスボールへ視線を落とすの横顔を盗み見る俺。彼女は、少しくたびれ、汚れてくすんだボールへと、柔らかな眼差しを向けている。
「そうか。……それなら、迎えに来た甲斐があるよ」
そう話した俺は、自分の手をの頭にのせ、ポンポンと軽く触れさせた。
置いて行かれたくないと強く思っただろうを、”卒業”という名の時の流れの中へ置き去りにするような形になってすまなかった、と俺は今でも思っているよ。
時の流れは、本当に……俺にも、お前にも、残酷だった。
だから、１分でも１秒でも早く、この場所で待っているだろう今のと、昔の彼女を、連れ出したかった。
。
お前がここを巣立つ日を、とても心待ちにしていたんだよ、俺は……。
だから、練習後であっても、こうして迎えに来たんだ。
”長い間、本当に待たせて悪かった”
。
お前の後ろに居るだろう過去のお前に、そう謝りたかったんだよ。
「……え？」
テニスボールに留めていた視線を動かしたが、俺の言葉に顔を上げ、聞き返す。眉間に軽い皺を寄せた彼女が、怪訝な表情をして見せた。
「”卒業おめでとう”、。……待ってたぞ。お前が高校生になるのを……さ」
こんなに喜び勇んで駆けて来た俺。
なのに、この言葉を言う切っ掛けが無くて――。
でも、やっと言わせてもらえた。
早く言いたかったんだ、この言葉を……。
待ち遠しかったんだよ、この時が……。
俺の言葉に、驚いたような顔をした。彼女に卒業祝いの言葉を聞きたくなかったという表情を、お前にされなくて良かったと、俺は安堵し、胸を撫で下ろす。それから、の細い肩へと手をのせた俺は、しっかりと彼女の肩を掴んだ。
俺の言葉が”ただのお迎え”じゃないって、お前は気付いたかな？
埋もれていた記憶が、見事なほどに鮮やかに蘇る。
今日と同じ、美しい夕暮れの時刻。
お前の視界を曇らせ、歪ませてしまったあの日の風景。
「大石……先輩。……お待たせしました！」
の少し震えた声を聞いて、俺の想いが通じていると感じた。
２年前、この場所に置き去りにしてしまったの心が、今、自分と向かい合っている。
傍に居る俺へと目一杯に両手を広げ、当時よりも少し伸びた背でギュッと俺を掴まえた。
変わらないお日様の匂いと、女の子特有の良い匂いが鼻先を掠める。慣れ親しんだ懐かしい香りに、今、傍に居ることをとても嬉しく感じてしまう。これからまた、一緒に居られる日々の始まりが告げられてるようだと思った。
「高校でも……テニス、続けるんだろう？」
こうして、を迎え入れた俺の心が、胸の内に込み上げる嬉しさから、気の利いた台詞なんて言えずに、当たり障りの無いことを聞いてしまう。
自分にベッタリとしがみ付くを支えるようにして立つ俺は、両手を彼女の背へと回し、緩く添わせる。そんな俺の胸元へと甘えるように額を寄せたが顔を上げ、満面の笑みを見せた。
お前が笑うだけで、どうしようもないほど、俺の心が浮かれてしまう……。
情けないほど、何処となく緩んでしまう自分の顔を、懸命にすましてみる。
「ハイ！ もちろんです！！ 大石先輩に、すぐに追いつきますからね？」
の頼もしい言葉と力強い声を聞いた俺は、心底嬉しくなって笑ってしまう。
苦い経験をさせてしまった事への懺悔と共に、また１年を、の１番近くで過ごせることを、とても感謝してる。置き去りになったお前が頑張って俺を追ってきてくれたことに、本当に感謝をしているんだよ……。だけど、その嬉しさは……俺だけの秘密、だ。それを隠すようなおどけた表情をして見せた俺は、肩をすくめる。
「ははっ。に負けていられないな。……こりゃ、タイヘン！」
お決まりの台詞を口にする俺と、それを聞いていたは、互いに視線を合わせると大きく笑い出す。
空いた時間を埋めるような感覚に、と共に過ごした日々へと戻るような錯覚を起こす。俺達や後輩となる達が一緒に居た、あの時間へ――と。
「大石先輩！」
「どうした、？」
懐かしさに包まれかけた俺を現実に引き戻すようなの急な呼びかけに、俺は驚いて目を見開いた。驚き顔の俺を真っ直ぐに捉えた大きな双眸が、力強い輝きを放っている。
「あのね……やっぱり大好きです！！」
――ドキ……ッ！！！
の突然の告白に、鷲掴みにされた俺の心。
彼女の言葉に、心拍数が急激に跳ね上がる。
幸せでたまらないという表情で見上げてくるに、見る見るうちに赤くなる俺の頬。
急に特別な好意を言葉にされると、俺は情けないほど戸惑ってしまう。
”卒業”という特別な場では、女の子はこうして気持ちを伝え合いたいものなんだろうか……？
そりゃ特別な気持ちを口にするのは、恥ずかしいけど……。
やっぱり言わなきゃ、は許してくれないだろうし……。
頬が赤らみ、悶々とする俺の事なんか気にしない様子の彼女が、同意を求めるような強い視線を送ってくる。
「……ですよね？♪」
念を押すようにして、確認してきた彼女。
思い切って、意思表示するしかない！
男だったら、出来るはずだ！！
さぁ、言え、秀一郎！！！
頑張れ、俺ッ！！！
「……ゴホ、ゴホッ。あぁ、その……だな、……俺も、だぞ」
意気込んで慌てた俺は、急にむせてしまい、彼女の頭上で顔を背けて咳払いをした後、やや改まった声音で言葉を伝えてみた。すると、きょとんとした表情で俺を見ていたは、俺から勢い良く離れ、テニスコートへと向かって立ち、両手を天へと広げて大きな声で叫び始めた。
「青学テニス部、大好き！ 青学テニス部に、バンザ〜イ！！」
心底感じていたんだろうの嬉々とした声を聞き、俺はその場で崩れるように倒れそうになった。両手を振り上げ、元気にぴょんぴょんと飛び跳ねるの後ろ姿に、大きく溜息を零してみる。
……道理で、可笑しいと思った。
だけど、のことだ。
ひょっとしたら、”特別な気持ちを、この場で、今、伝えたい！”そんな気持ちで居たんじゃないかと、考えられないことも無くてだな……。
……あぁ、そうだ！
どうせ、俺の独り善がりだよ！！
悪かったな、自惚れ屋で……さ。
……あぁ、そうさ！
結構こう見えても、自惚れ屋だよ、俺は……。
……でも、ちょっとは期待するだろう？
いや、本当はかなり期待したんだけどな……。
「……そっちのこと、だったのか」
には聞こえないだろうぐらいに、ボソリと呟いた俺の声が聞こえたのか、彼女が急に振り返って問う。
「はい？」
「いいや、何にも。……さぁ、そろそろ帰ろうか？」
まぁ、いいよ。
それに、いつまでも酷く落胆した様子の俺じゃ、お前が不審がるよな。
そう考えた俺は、緩く頭を振り、へ帰宅しようと誘ってみた。けれども立ち去るには、まだ名残惜しい様子でいる。俺の言葉に対し、彼女が足元をモジ……ッとさせていた。
「あのね、大石先輩……」
「……？」
お願い事をする時のの”あのね……”の言葉癖を知っている俺は、が言いたいと思っている言葉が、その口から伝えられるのを黙って待つ。
「手を……つないで帰っちゃ、ダメ……ですか？」
左手に持つ黄色いボールをギュッと握り締めるが、か細い声で静かに尋ねてきた。突然のお願いに、少々気恥ずかしくなった俺は、首元を掻いて困った表情をしてしまう。
だけど、本当は嬉しいんだ。
迎えに来た今のも、過去のも、ちゃんと、このテニスコートから連れ出してあげたかった。
想い出の詰まった、離れ難く、立ち去り難い、この場所から――。
だから……。
このお願いは、どんなに恥ずかしくても叶えてあげたいと、俺は強く思うよ。
俺が大事にしたい、俺の大好きな女の子。
「……今日は”特別”、な？」
照れを隠しながらそう言った俺は、フェンスへと立てかけて置いていたラケットバックを小走りで取りに行き、それを右肩に担いで、更にの荷物も一緒に拾い上げた。帰宅準備が整った俺は、へと左手を伸ばす。
「ハイ！」
嬉しそうに返事をしたが、俺の傍へと駆け寄って来た。
彼女の制服スカートの裾と、胸元のリボンが、ひらひらと舞う。
「それじゃ……帰ろう、」
慌てて駆けて来たに、柔らかな笑みを向けて出迎える俺。へと伸ばした俺の手の先に、彼女の細い指が触れる。想い出を抱え、やっと辿り着いたが俺の手を握ったと思うと、俺は胸が一杯になった。
温かく柔らかな、この手を離したことを、本当に後悔していたんだ。
後ろ髪引かれる思いでいた俺もまた、ここ――テニスコートへと、心を残していたんだよ。
置き去りにしてしまったを、気にかけていた俺の心を……。
……さぁ、行こうか。
長い時間待たせたな、……。
確かな温もりを手にした俺に対し、２度と離さないで欲しいと気持ちを伝えるかのように、が俺の手を少し強く握る。
「大石先輩……」
彼女らしくない態度で、俺へ話しかけてきた。しんみりとなったのか、伏し目がちになるの瞳は、彼女の左手に握ぎられたテニスボールを静かに見詰める。
手の中にしっかりと納まっているボール。
どこか落ち着き無く握っては、その手触りを確かめている。
「ん？ 何だよ、。急に……改まった声なんか出してさ」
ははっ、と軽く笑って、繋いだ手に少し力を加える。”いつものが良いよ”、”元気なが良いな”そう伝わるようにと願いながら、もう１度、手にやんわりと力を加えた。その想いに応えるように、が更にギュッと力強く俺の手を握り返してきた。
「これからも、よろしく……お願いします」
「あぁ、こちらこそ！ よろしく頼むぞ、」
少し震えた声で話すを、俺は支えるように力強い声で答え、彼女の手をしっかりと握り返す。は潤む瞳を目一杯見開き、鼻をすすると、”エヘへッ”といつもの照れ笑いをして見せた。その顔を見下ろしながらの手を引いて、俺はコートに背を向ける。
――２年前の、あの日。
このコートに無理矢理彼女を置き去りにして、俺だけ先に新しい時間への扉を開いた。
青学のテニスコートを去った俺を、その後、お前は必死に探したりしたんだろうか……？
遥か彼方になった俺の影を、目の前に長く続く道を走り続ければ、いつか追いつくことができて、そのうち霞んで見えた背中でさえも、間近で捕まえられると信じてくれていたのだろうか……？
だけど、そう信じていても挫ける日があり、迷う日もあって――。
それから、前に１歩も進めなくなり、立ち止まる日さえもあっただろう？
を支え続けたものは、やはり変わることなく傍に在った、このコートと、黄色いボール達なんだろうな。
青学中等部のテニスコートでの、俺との物語は、今日で終わる。
だけど、ここからまた、俺と、の、新たな物語は始まるんだ。
そう、ここは――いつでも、俺と、の、すべての始まり。
俺とは、今、足並みを揃え、ゆっくりと想い出の詰まった場所を立ち去り始める。
テニスコートの出入口を抜けようとした俺に対し、は少し遠ざかったコートを振り返り、足を止めた。
ピンと張った糸のように、引っ張り合う繋がれた手と手――。
その様子に俺は、長い間ネットの向こう側に置き去りにしていた昔のの面影を、どこか急かすように、連れ出そうとしているように思えた。
…………あぁ。
もう置き去りにしないと、昔のお前に誓うよ。
だから、隠れてないで、出て来いよ。
一緒に、行こう。
……さぁ、おいで！
ずっと孤独に待ち続けてくれた昔の彼女の面影に――”サヨナラ”。
ずっと彼女を支え続けてくれた慣れ親しんだ場所に――”サヨナラ”。
彼女を静かに見守り続けてくれた想い出達に――”サヨナラ”。
あの日から大きく成長したを、やっと連れ出せる。
あの日のも、今、やっと連れ出せる。
を置き去りにするように立ち去った昔の俺の想いも、このまま一緒に連れ出そうか……。
愛着あるだろう黄色いボールを、テニスコートへと返すように高く放り出すの姿を見詰める。彼女の左手から飛び出したボールは緩やかな放物線を描き、ネットを越えた向こうで、３度程跳ねた後、ゆっくりと転がった。
名残を惜しむように見詰めてたコートから視線を外したが、俺と繋がれた手へと視線を移し、その後に、大きな双眸で俺の目を真っ直ぐに捉える。人一倍強い好奇心と、元気な輝きに満ちる瞳を俺に向け、が話しかけてきた。
「あのね、大石先輩。あとはね――」
「え？ ま、まだ何かあるのか？」
今にも泣きそうな声で話していたが、急に元気な声を出したことに、俺は大いに面食らう。
時々、このギャップに……ついて行けないんだよなぁ、俺。
だから、オロオロとしてしまうけど、ちゃんとの声は聞いてるよ。
繋いでいた俺との手を１度緩めたは、指先を滑らせ、俺の指の間へとそれを納めた。
ギュッと手を握り合えば、それで恋人同士の証――。
「高校生になったら、たまには ”恋人つなぎ” してくださいよぉ〜？」
不服そうなの口元は、不満げなイントネーションで言葉を紡ぐ。大きな瞳は、横目で俺をチラリと見た。
「……！！……ど、努力します……」
すっかりと油断していた俺を、すぐに惑わせられるお前には、簡単に負けてしまう。
格好悪いったら、この上ないな……。
しっかりと触れ合う手のひらと、柔らかな熱に驚き、どこか落ち着かない俺は、口篭りながらもギュッと手を握り返し、彼女へと誠意を見せる。
太陽のような煌きを持つ、笑顔の可愛い、俺の大好きな女の子。
そんな彼女がありったけの想いを込め、俺の心へ届くようにと言葉を告げる。
「大石先輩、大好きですよ！！」
そんなに幸せそうな声を出して言うもんじゃないぞ、。
ホラ、また俺が間違って、期待してしまうよ。
こう見えても、結構、自惚れ屋なんだよ、俺。
……だけど、今なら、ちょっと自惚れてしまっても良いんじゃないか、って思える。
今は、眼も、耳も、想いも、お互いがキチンと向き合っているから……。
「……ありがとう。俺もだよ、……」
正直、口に出すのは、とても恥ずかしいよ。
だけど、たまには、こうして気持ちを伝える努力も必要だよな。
照れた笑みを浮かべてしまったけど、しっかりとした言葉でお前に伝わったかな？
驚いたような顔をしたかと思えば、急に俯き、歩き出す。彼女を追うように、俺も歩き始める。
どうやら、言葉はちゃんとの心へ届いたらしい。
元気で、はねっかえりな彼女が、珍しく大人しく押し黙る。そんなを見てしまうと、何だか俺のほうが恥かしくなってきそうだ。のよそよそしい態度に苦笑をもらした俺は、足元を見ながら首元を掻き、ふと気付く。俺は手を繋いでいる方の腕を使って、彼女の腕を軽く突いた。
「な、何ですか……？」
大きな瞳をキョロリと動かし、俺を見る。
そんな彼女を見下ろす俺は、笑いながら、繋がれていない方の手で路面を指差してみせる。
そこには、少し離れている俺と彼女が連れ添う、それぞれの影。
「せっかくなんだからさ、ホラ……」
俺はそう言い、へとそっと肩を寄せてみる。
手のひらだけじゃなく、２人の影も寄り添えるように――と。
いつの間にか、黄昏色に染まっていた空へは、夜の帳が下り始めている。彼女の笑顔のような、眩いほどの輝きを見せていた太陽は、いつの間にか姿をひっそりと消していた。校門を抜ける俺との後を追うように、校舎を染める銀色の月が追って来る。
闇に包まれ出した道に、道標のように淡い輝きが行く手を照らす。手を取り合う俺とは、帰路をゆっくりと歩んで行く。どこか祝福してくれるような優しい光の下で、俺との連れそう影が、淡く重なり、揺れていた。
君に呼ばれれば、俺の心がほんのりと温もる。
君に触れるだけで、"好きだ"と思う気持ちが俺の心を和ませる。
君の見詰める先に俺がいると分るだけで、俺の心がソワソワと何処かへ彷徨うんだ。
だけど、君を感じれない場所では、君を想う俺の心が枯れてしまいそうだよ。
まるで心は、《幸福》という言葉の象徴で美しく咲き誇る花。
それならば永遠となれ、幸福よ。
君という、太陽に似た眩い輝きを纏いし、俺の想い人。
胸に宿る心の幸せが、幸福への永い祈りとなるように……。
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